落語「御血脈」の舞台を歩く
   

 

 十代目桂文治の噺、「御血脈」(おけちみゃく)によると。

 

 お釈迦様は南天竺マガラ国カビラ城で、4月8日に生まれた途端に天地を指して「天上天下唯我独尊」と言った。こんな生意気を言うのは許せないと、甘茶を掛けたらカッポレを踊った。甘茶でカッポレ。成長してダンドクセンに登って修行した。日本にも布教に行きたかったが、一人では寂しいので、阿弥陀さんと行くことにした。


 南天竺から日本に閻浮壇金(えんぶだこん)の1寸8分の物体が渡ってきた。時の仏敵・物部尾輿(もりやのおとど)が日本は神国であるから仏法はまかり成らぬと、閻浮壇金を潰そうとしたが出来なかった。やむなく簀巻きにして難波池に放り込んだ。

 この池から光が差し怖がって住民は近寄らなかった。本田善光(ほんだよしみつ)が通りかかって、池の中から信州に行きたいと言われ、1寸8分の物体を懐にしまえば良いものを、背負って歩いた。夜になると丈余(じょうよ)ほどの大きさになって、善光と信州に着き、お堂を建て祀った。善光の名を取って、善光寺と名前が付いた。

 

  当時、百疋(ぴき)のお金を善光寺に納めると、ありがたい錦(にしき)の袋に入った御血脈の御印を額に押してもらえる。押してもらうと、どんな大罪を犯していても罪障消滅して極楽へ行けるといわれ、極楽往生するものばかりで、地獄に行く者が居なくなった。地獄は開店休業状態。

 

 さぁー、困ったのが地獄。地獄の衰退を悲しみ、対策会議を開くと、善光寺御血脈の御印を盗み出してしまえばいいと結論が出た。
 泥棒は大勢居る中、石川五右衛門が選ばれ閻魔大王の前に出て、芝居がかりの衣装とセリフで請け応えた。人目に付かないようにと街に出てきたが、まだ昼だったので新宿末広亭の昼席に潜り込んで夜になるのを待った。忍術で善光寺に飛び、深夜、善光寺に忍び込んだが、どうしても御印が見付からなかった。あきらめて、閻魔大王様に謝ろうと帰りかけたその時、棚の隅の桐箱に入っていた御印を見付けた。
 芝居心が旺盛な五右衛門、「ありがてぇ、かたじけねぇ。まんまと善光寺の奥殿に忍び入り、取ったる血脈の御印。これせぇあれば大願成就、ありがたや、ちぇ、かたじけなや」と、額に押しつけたら、そのまま極楽に行ってしまった。

 


 
1.「善光寺縁起」
長いお話ですが先ずはお読み下さい。
  釈尊が印度毘舎離国の大林精舎(だいりんしょうじゃ)におられる頃、この国の長者に月蓋(がっかい)という人がありました。長者の家はたいそう富み栄えておりましたが長者は他人に施す心もなく貪欲飽くなき生活をしておりました。釈尊はある日長者を教え導こうと、自らその門を叩かれました。 さすがに釈尊のおでましと聞き長者は黄金の鉢に御馳走を盛って門まで出ましたが、「今日供養すれば毎日のように来るであろう むしろ供養せぬほうがよかろう」と急に欲心を起こして家に入ってしまいました。


 月蓋長者には一人の姫君がありました。名を如是(にょぜ)姫といい両親の寵愛は限りなく、掌中の玉と愛育されておりました。 ところがある年悪疫が流行し、長者の心配もむなしく如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまいました。 長者はあれこれ手を尽くしましたが、何の効き目もありませんでした。釈尊に教えを乞うほかはないと親族たちは申し合わせました。
 長者は初め不本意でしたが、我が娘の病苦を取り除きたい一念から遂に大林精舎を訪れ、釈尊の御前に進んで前の罪障を懺悔し、如是姫の命をお救いくださるようにお願い致しました。釈尊は「それは我が力にても及ばぬことであるが、ただ西方極楽世界におられる阿弥陀如来におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来はたちまちこの場に出現され姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と仰せられました。

 
 長者は釈尊の教化に従い、自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供えて心からの念仏を続けました。 この時彼の阿弥陀如来は西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿を顕現され大光明を放たれました。すると国中に流行したさしもの悪疫もたちまちにしておさまり、如是姫の病気もすぐさま平癒いたしました。長者はもとより一族の者は皆喜ぶことこの上なく如来の光明を礼讃いたしました。 長者はこの霊験あらたかなる三尊仏の御姿をお写ししてこの世界に止め置くことを発願し、再び釈尊におすがりいたしました。

  釈尊は長者の願いをかなえるため神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わされ、閻浮壇金(えんぶだこん)を竜王から貰い受けとることとしました。 さてこの閻浮壇金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来の来臨を請いますと、かの三尊仏は忽然として宮中に出現され、光明は釈尊の光明とともに閻浮壇金を照らされました。すると不思議なことに閻浮壇金は変じて三尊仏そのままの御姿を顕現されたのでした。長者はたいそう喜び終生この新仏に奉仕いたしました。この新仏こそ後に日本国において善光寺如来として尊崇を集めるその仏さまであったのです。


  その後百済(くだら=韓国)に渡られました。

 

 欽明天皇十三年、尊像は日本国にお渡りになりました。大臣蘇我稲目は生身の如来であるこの尊像を信受することを奏上し、大連物部尾輿中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。 天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりましたので稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改築して如来を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国の仏寺の最初で向原寺といいます。
  さてこの頃国内にはにわかに熱病が流行りました。そこで物部尾輿はこれを口実として天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いありません」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ちました。かの如来は不思議にも全く尊容を損なうことがありません。そこで尾輿は再び如来を炉に投じて鞴で吹きたてたり鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしましたが、尊像は少しも損傷されることはありませんでした。
 彼らは手の施しようもなく、尊像を難波の堀江に投げ込んでしまいました。

 

  その後蘇我稲目の子馬子は父の志を継ぎ篤く仏法を信仰し之に反対する物部尾輿の子守屋を攻め滅ぼし聖徳太子と共に仏教を奨励しましたので仏教は初めて盛んになりました。聖徳太子は難波の堀江に臨まれ先に沈まれた尊像を宮中にお連れしようとその御出現を祈念されましたが、如来は一度水面に浮上され「いましばらくこの底にあって我を連れ行くべき者が来るのを待とう、そのときこそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ」と仰せられて再び御姿を水底にかくされました。

 

 図1

 

 その頃信濃の国に本田善光という人がありました。ある時国司に伴って都に参った折に、たまたまこの難波の堀江にさしかかりますと「善光、善光」といとも妙なる御声がどこからともなく聞こえ、驚きおののく善光の前に水中より燦然と輝く尊像が出現されました。如来は善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来にお仕えしていたことを告げ、この日本国でも善光とともに東国に下り多くの衆生を救うべきことを告げられました。
 善光は歓喜して如来を背負って信濃の我が家に帰りました。 善光は初め如来を西のひさしの臼の上に御安置しましたが、やがて御堂を建てて如来をお移ししました。ところが翌朝参堂いたしますと尊像の姿はそこにはなく、いつのまにか元の臼の上にお戻りになっておられ「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも念仏の声のないところにはしばしも住することはできない、念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになりました。
  またある時善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様でしたが、如来は白毫より光明を放たれ不思議なことに油のない灯心に火が灯されました。 これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりといわれています。

 

 図2

 

 如来の霊徳は次第に人々の知るところとなりはるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。ついに時の天皇である皇極帝は善光寺如来の御徳の高さに深く心を動かされ善光寺と善佐を招されて伽藍造営の勅許を下されました。
 こうして当山は三国伝来の生身は阿弥陀如来を御安置し善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称し、以来千四百年日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰されるようになりました。
 浄土宗の新善光寺(大分県別府市)ホームページより http://www.shinzenkouji.jp/engi.htm

 

 図3

 

図1;「本田善光と阿弥陀如来との出会い」 善光寺道名所図会
図2;「善光寺宿駅の風景」 善光寺道名所図会
図3;「御血脈頂戴の図」 善光寺道名所図会

 

 

2.善光寺
  善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院である。山号は「定額山」(じょうがくさん)。 山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている。
 平成22年(2010)現在の「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の世鷹司誓玉である。
善光寺の住職は、「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。
Wikipediaより
長野県長野市大字長野元善町491

 

■本尊;本堂の中の「瑠璃壇」と呼ばれる部屋に、初めての朝鮮渡来の絶対秘仏の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が厨子に入れられて安置と伝えられている。その本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、その姿は寺の住職ですら目にすることはできない。 瑠璃壇の前には金色の幕がかかっていて、朝事とよばれる朝の勤行や、正午に行なわれる法要などの限られた時間のみ幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を部分的に拝むことができる。開帳では前立本尊が代わりに公開される。
本尊写真;浄土宗の新善光寺(大分県別府市)ホームページより

 

 また、日本百観音(西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。

 

 本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており九世紀の物と鑑定されている。

 

慣用語
 ・「遠くとも一度は詣れ善光寺」
 ・「堪忍信濃の善光寺」:”おそれ入谷の鬼子母神”などと同様、「堪忍しなさい」に掛けた言葉遊び。
 ・「胴上げ」の発祥は長野市善光寺とする説がある。善光寺において、12月の2度目の申(さる)の日に、寺を支える浄土宗14寺の住職が五穀豊穣、天下太平を夜を徹して祈る年越し行事「堂童子(どうどうじ)」で、仕切り役を胴上げする習慣がある。この行事は江戸時代初期には記録があり、少なくともそのころから胴上げが成されていたことは確かである。『ワイショ、ワイショの掛声のもと、三度三尺以上祝う人を空中に投げ上げる』と書かれている。
 ・ 「牛に引かれて善光寺参り」 :布引観音を発祥地とする伝説が有名だが、市内仏導寺付近の戦国時代末の実話とも伝えられる。

「牛に引かれて善光寺参り」 近藤弓子画 ”門前町伝説案内”龍鳳書房より

 

御朱印;善光寺では4種類の御朱印を4ヶ所で出しています。

 

   

 

左から本堂、大勧進、大本願、世尊院釈迦堂の4枚。写真をクリックすると実物大になります。

 

 

3.言葉
釈迦(しゃか);釈迦は紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナの男子として現在のネパールのルンビニで誕生。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となったことを成道という。まもなく釈迦のもとへやってきた梵天の勧めに応じて、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。南方伝ではヴァイシャーカ月の満月の日に80歳で入滅(死去)したと言われている。

 

  母親がお産のために実家へ里帰りする途中、ルンビニの花園で休んだ時に誕生した。生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティーによって育てられた。
 「釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して『天上天下唯我独尊』と言った」と伝えられている。釈迦は王様らの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。

 

南天竺(なんてんじく);五天竺の一。南方インド。

 

十万億土(じゅうまん おくど);娑婆世界から阿弥陀如来の極楽浄土に至る間にある仏国土の数。極楽浄土が遠いことをいう。

 

阿弥陀(あみだ);西方にある極楽世界を主宰するという仏。法蔵菩薩として修行していた過去久遠の昔、衆生救済のため四十八願を発し、成就して阿弥陀仏となったという。その第十八願は、念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると説く。浄土宗・浄土真宗などの本尊。

 

閻浮壇金(えんぶだこん);閻浮樹(インドに多いフトモモのことを指すが、仏典中では閻浮提の北にある巨大樹)の大森林を流れる河に産するという砂金。最も高貴な金とされる。
  また、竜宮城に出向き、竜王から貰い受けた金で阿弥陀さんを写した。文治は、白金のようなものと言っています。

 

本田善光(ほんだよしみつ);信濃国国司・本田善光が難波の堀江に棄てられた阿弥陀如来を池より救った。このことからこの池が阿弥陀池といわれるようになった。後に池から救い出された阿弥陀如来は長野県飯田市に祀ったが、624年(皇極天皇元年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移した。

 

難波池(なんばがいけ);大阪南の和光寺の近くにある阿弥陀が池。和光寺=大阪府大阪市西区北堀江3丁目7にある浄土宗の仏教寺院。尼僧が住職をつとめる。山号は蓮池山。正式な寺号は智善院和光寺。あみだ池 和光寺。
 阿弥陀池=境内に阿弥陀池(あみだいけ)がある。この付近の地名、あみだ池の語源となっている。 池の中央には放光閣(ほうこうかく)という宝塔がある。

右図;浪速百景「あみだ池」 都立中央図書館蔵 2014.03追加

 

1寸8分(1すん8ぶ);5.45cm。小さいものの例え。俗に浅草寺の観音様もこの寸法、黄金で出来ていると言うが、夜は大きくならない。

 

丈余(じょうよ);1丈=3.03m。余というからそれより大きい。3m数十cm。

 

百疋(100ぴき);(一疋 = 十文)。百疋=1000文=1貫文=1/4両(1分)1両を4貫文として。

 

石川五右衛門(いしかわごえもん);(生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。 従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記などを史料として、同名の人物の実在が確定した。
 右、浮世絵;市川小団次、演ずる「石川五右衛門」 国明画 図をクリックすると大きくなります。

 

閻魔大王(えんまだいおう);仏教、ヒンドゥー教などでの地獄の主。冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁く裁判長。
右写真;深川閻魔堂・法乗院の閻魔大王 写真をクリックすると大きくなります。

 


 この落語は、本編自体が比較的短い噺ということもあり、演者は本筋に入る前に、舞台となる信濃国は善光寺の縁起を入れて、一席の噺としている。大筋は一般に流布している善光寺縁起を下敷きにしているが、落語であるから、本当かどうかわからない誇張だらけになっています。解説を入れておきましたが、正誤は改めて問いませんが、文治の落語も実録と整合整はない。

 同じ噺、上方落語「善光寺・骨寄せ」として二代目に続いて、三代目桂歌之助が演じています。内容は全く同じなのですが、五右衛門に会いに行くと骨だらけでどれが五右衛門の骨か分からず、声を掛けると骨が集まってきて五右衛門になると言う演出です。
 


 

 舞台の善光寺を歩く

 「牛に引かれて善光寺参り」
 偶然に見付けた「門前町伝説案内」小林一郎著 龍鳳書房 を手に取ってみると、善光寺の門前町についての話が盛りだくさん。その上、地図まで付いています。落語「御血脈」は書きたいと思っていました題材ですが、なにせ遠方過ぎます。あきらめていた題材でもありましたが、この際、本という牛に引かれて行くことに決めました。決めたことはいいのですが、キップの予約を入れてから考えてしまいました。長野は東京の気温より、低くて氷点下を記録していますし、雪も降っているとTVは伝えています。キャンセルしたい気持ちですが、御血脈の御印は正月7日から15日までしかやらない行事です。考え直しても来年も同じ時期です。

 

 長野駅に着くと、電光掲示板が外気温1度と表示されていますが、雪の残骸もありません。東京より寒いのですが、良く晴れて風もなく、日向では心地よい暖かさで、一日中手袋無しでも違和感がありません。牛に引かれて、来てみて正解です。善光寺は長野駅からは上り坂で、中程からは勾配もキツくなり、境内に入ると明かな傾斜が見えて、要所要所には階段が付いています。軟弱な吟醸はバスで表参道の仲見世真っ下まで行って参道を登ります。白を基調とした素敵な蔵造りの店やレトロだけれど垢抜けした建物が並んでいます。


 まもなく左に大本願が現れます。ここは大勧進と並んで善光寺を護っているところです。ここで最初の御朱印をいただき、奥の庭園も拝見し、参道に出ると、目の前が仁王門です。全国の篤志家により大正7年に再建されたものです。仁王様の大きいのは足先だけを見ても分かります。(右写真)
 仁王門を漕ぐって仲見世通りに入り中程の小路を右に見ると煌びやかなお寺が正面に見え、引きつけられるように伺うと、世尊院釈迦堂です。ここは善光寺七福神の一つですから参拝者も多く、ご本尊ご開帳の日で、釈迦体躯の実物大の涅槃の像が拝観することが出来ます。

 

 仲見世通りに戻り参道を登ると、左手に大勧進が現れます。境内には雪が残っていますし、水子地蔵の足元には氷が張り付き、濠には全面結氷し、そこに乗った雪が幾何学模様を描いています。ここは信州だと言うことを再認識させられます。
 ここを出ると、山門にかかった揚額に目がいきます。(左写真)。五羽の鳩字から出来ていると言います。善の字の頭の2点が2羽の鳩、光の同じく頭の二つの点、最後は寺の最後に打つ点が鳩をデザインした字で、合計5羽の鳩が描かれていると言います。この字を書いたのは輪王寺宮公澄(こうちょう)法親王だと言いますが、書というよりデザイン文字です。

 

 山門を抜けると、日本の木造建築物で3番目に古く、国宝に指定されている、本堂です。本日の目的である、御印紋頂戴の儀式が本堂の中で執り行われています。列の後ろに並んで、石川五右衛門が額にかざした、あの錦の袋に入った御印を私も額に押してもらいました。噺の中では100疋(約2万円)のお布施によって押してもらうといいますが、ここでも浅草でも賽銭箱が置いてあって、その人なりの金額で良いみたいです。
 これで、私は(東京)浅草寺と善光寺の御印をいただき、極楽往生へのキップをダブルで手に入れたことになります。これだけキップを手に入れたので、地下の本尊の真っ下に有ると言われる錠前を触ると、極楽行きは確実だという、お戒壇めぐりは、もういいでしょう。ダブルでキップを手に入れたのだから、往復キップでその効力は無くなったと、悪友は言います。どちらが本当か、その結果を早く確認したいものです!?ははは。

 

 「信州信濃の新蕎麦よりも 私ゃあんたのそばがいい」と唄われた、名物蕎麦で腹ごしらえをして、ここから、坂道をダラダラと下りながら長野駅に向かいます。約2km有りますから、30分、ダラダラ取材しながら行っても1時間あれば行き着くでしょう。
 途中の商店には、右のような「ご縁を大切に」のハタが下がっています。いいですね。来訪者を大切に歓迎している様子が伝わってきます。

 

 長野のこの地にも、落語の中でも有名人、左甚五郎が来ていたという龍の彫り物があります。小さな熊野神社の入口欄間に彫られた「龍と天女」の彫刻(下の写真)です。この二人(?)の組み合わせが面白く、龍は悪さばかりしているので、天女が降りてきて諫め、その後悪さをしなくなったという。

 

 

 坂を下って、かるかや山西光寺前の坂が布引の坂と言われ、牛に引かれて善光寺参りの話の元になった坂で、牛を追いながら善光寺まで行った、という坂です。

 長野駅前まで来ると、後は帰るだけですが、一つだけ見たいものがあります。月蓋(がっかい)長者には一人の姫君があり、名を如是(にょぜ)姫といい、その像が駅前広場にあり善光寺に向かって建っています。建っているはずでした。どこにも無いので、聞いたところ、約2年間駅前ロータリーの改修工事のため、如是姫は安全な所に避難しているようです。2年後に再会しましょう。

 

 

地図


   地図をクリックすると大きな地図になります。 善光寺ホームページより


写真


それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。


大本願
 善光寺を護る尼寺で、皇室出の住職は「善光寺上人」と呼ばれています。資料館を覗いても皇室関係の品物がいっぱい有ります。

仁王門
 大正7年(1918)に再建されたもの。間口約13m、奥行き約7m、高さ14m、屋根は銅瓦葺き。仁王像及び背面の三室荒神像、三面大黒天像は高村光雲と米原雲海の合作。「常額山」の額は伏見宮貞愛(さだなる)親王の筆による。

 

世尊院釈迦堂
 釈迦涅槃像(国指定重要文化財)を祀る。 天延3年(973)越後国古多ヶ浜より漁師の網にかかり出現し、その後当寺へ奉送された。尊像は六枚のふとんの上に頭部を北にして、西面右脇を下にした釈迦入滅の姿を示しており、 右肩を屈げて頭を支えている。
 善光寺七福神のひとつ毘沙門天像(市指定文化財) を祀る。

大勧進
 開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えする。
 弘仁8年伝教大師が信濃路巡化のおり、善光寺に参籠され、爾来、天台宗になる。大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊として、住職は善光寺の住職も兼ねている。

本堂
 ご本尊「一光三尊阿弥陀如来」さま(中尊の阿弥陀如来と、脇侍の観音菩薩・勢至菩薩が一つの光背の中に立たれる)は、インド、朝鮮半島百済国を経て、欽明天皇13年(552)、日本に渡られ、三国伝来の仏さまと呼ばれ、信州の地に安置された。その阿弥陀如来を祀る。

御印紋頂戴
 善光寺如来のご分身といわれる三判の宝印「御印文」を、僧侶が参詣者の額から頭にかけて押し当てる儀式です。錦の袋に入っていますから、額に朱肉の朱色が残るわけではありません。
 『お血脈』でも語られている善光寺御印文は、額に押すと極楽往生が約束されるといわれ、古くから「ごはんさん」という愛称で親しまれています。

布引坂(かるかや山西光寺前。別名袖引き坂。駅方向を見る)
 牛に引かれて善光寺参りの主人公スミは信仰心もなかった。あるとき布を洗っていると牛がその布を引っかけ逃げ出した。追いかけるスミがこの坂を駆け上がり善光寺に着いたときは夜で、本堂に泊めてもらい仏の啓示を受けた。妙蓮と名を変え尼になり、西光寺に住み観音に仕え一生を終えた。また、天狗を追いかけ、小僧さんがここで追いつき、袖を引いた。

ヘビ塚(かるかや山西光寺=大蛇、小蛇(おおにょう、こにょう)の塚)
 天明6年4月、西光寺南に木こりが住んでいた。山で切り出した木に腰掛けていたら、その木が動いた。よく見ると大蛇でそれを退治し、その死骸を見世物に出して大儲けした。その後、木こりの家族は死に絶え、近隣の人まで災いが広がり、西光寺に墓を建立して弔った。この墓を動かすと災いがあるというので、道が広がってお寺の入口になってしまった。

長野駅前如是姫像(JR長野駅前)
 これだけ、善光寺さんに護られてきた参拝の最後の行程に異変が起こりました。何処を探しても阿弥陀如来に助けられた如是姫はいないのです。駅とロータリーを2周しましが見付けられず、長野お土産センターで聞いたら、駅前工事中で2年間、撤去中だそうです。はぁ〜、ため息が出るのみ。台座は残っていて鳩が、私ですよ、と言いたげな表情で留まっています。

浅草寺「御血脈頂戴」(浅草寺牛玉加持会)
 毎年1月5日のみに行われる牛玉加持会(ごおうかじえ)で、ご本尊の種字(しゅじ=ご本尊を表す梵字)を刻んだ宝印(印判)を額に押すもの。この印は罪を滅して極楽に往生し、災難を除き、人々に喜びを与える力があるとされます。

                                                       

 2013年2月記

 

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