落語「御血脈」の舞台を歩く
十代目桂文治の噺、「御血脈」(おけちみゃく)によると。
釈尊は長者の願いをかなえるため神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わされ、閻浮壇金(えんぶだこん)を竜王から貰い受けとることとしました。 さてこの閻浮壇金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来の来臨を請いますと、かの三尊仏は忽然として宮中に出現され、光明は釈尊の光明とともに閻浮壇金を照らされました。すると不思議なことに閻浮壇金は変じて三尊仏そのままの御姿を顕現されたのでした。長者はたいそう喜び終生この新仏に奉仕いたしました。この新仏こそ後に日本国において善光寺如来として尊崇を集めるその仏さまであったのです。
欽明天皇十三年、尊像は日本国にお渡りになりました。大臣蘇我稲目は生身の如来であるこの尊像を信受することを奏上し、大連物部尾輿中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。
天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりましたので稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改築して如来を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国の仏寺の最初で向原寺といいます。
その後蘇我稲目の子馬子は父の志を継ぎ篤く仏法を信仰し之に反対する物部尾輿の子守屋を攻め滅ぼし聖徳太子と共に仏教を奨励しましたので仏教は初めて盛んになりました。聖徳太子は難波の堀江に臨まれ先に沈まれた尊像を宮中にお連れしようとその御出現を祈念されましたが、如来は一度水面に浮上され「いましばらくこの底にあって我を連れ行くべき者が来るのを待とう、そのときこそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ」と仰せられて再び御姿を水底にかくされました。
図1
その頃信濃の国に本田善光という人がありました。ある時国司に伴って都に参った折に、たまたまこの難波の堀江にさしかかりますと「善光、善光」といとも妙なる御声がどこからともなく聞こえ、驚きおののく善光の前に水中より燦然と輝く尊像が出現されました。如来は善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来にお仕えしていたことを告げ、この日本国でも善光とともに東国に下り多くの衆生を救うべきことを告げられました。
図2
如来の霊徳は次第に人々の知るところとなりはるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。ついに時の天皇である皇極帝は善光寺如来の御徳の高さに深く心を動かされ善光寺と善佐を招されて伽藍造営の勅許を下されました。
図3
図1;「本田善光と阿弥陀如来との出会い」 善光寺道名所図会
2.善光寺
■本尊;本堂の中の「瑠璃壇」と呼ばれる部屋に、初めての朝鮮渡来の絶対秘仏の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が厨子に入れられて安置と伝えられている。その本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、その姿は寺の住職ですら目にすることはできない。 瑠璃壇の前には金色の幕がかかっていて、朝事とよばれる朝の勤行や、正午に行なわれる法要などの限られた時間のみ幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を部分的に拝むことができる。開帳では前立本尊が代わりに公開される。
また、日本百観音(西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。
本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており九世紀の物と鑑定されている。
■慣用語;
■御朱印;善光寺では4種類の御朱印を4ヶ所で出しています。
左から本堂、大勧進、大本願、世尊院釈迦堂の4枚。写真をクリックすると実物大になります。
3.言葉
母親がお産のために実家へ里帰りする途中、ルンビニの花園で休んだ時に誕生した。生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティーによって育てられた。
■南天竺(なんてんじく);五天竺の一。南方インド。
■十万億土(じゅうまん おくど);娑婆世界から阿弥陀如来の極楽浄土に至る間にある仏国土の数。極楽浄土が遠いことをいう。
■阿弥陀(あみだ);西方にある極楽世界を主宰するという仏。法蔵菩薩として修行していた過去久遠の昔、衆生救済のため四十八願を発し、成就して阿弥陀仏となったという。その第十八願は、念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると説く。浄土宗・浄土真宗などの本尊。
■閻浮壇金(えんぶだこん);閻浮樹(インドに多いフトモモのことを指すが、仏典中では閻浮提の北にある巨大樹)の大森林を流れる河に産するという砂金。最も高貴な金とされる。
■本田善光(ほんだよしみつ);信濃国国司・本田善光が難波の堀江に棄てられた阿弥陀如来を池より救った。このことからこの池が阿弥陀池といわれるようになった。後に池から救い出された阿弥陀如来は長野県飯田市に祀ったが、624年(皇極天皇元年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移した。
■難波池(なんばがいけ);大阪南の和光寺の近くにある阿弥陀が池。和光寺=大阪府大阪市西区北堀江3丁目7にある浄土宗の仏教寺院。尼僧が住職をつとめる。山号は蓮池山。正式な寺号は智善院和光寺。あみだ池 和光寺。
右図;浪速百景「あみだ池」 都立中央図書館蔵 2014.03追加
■1寸8分(1すん8ぶ);5.45cm。小さいものの例え。俗に浅草寺の観音様もこの寸法、黄金で出来ていると言うが、夜は大きくならない。
■丈余(じょうよ);1丈=3.03m。余というからそれより大きい。3m数十cm。
■百疋(100ぴき);(一疋 = 十文)。百疋=1000文=1貫文=1/4両(1分)1両を4貫文として。
■石川五右衛門(いしかわごえもん);(生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。
従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記などを史料として、同名の人物の実在が確定した。
■閻魔大王(えんまだいおう);仏教、ヒンドゥー教などでの地獄の主。冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁く裁判長。
* 同じ噺、上方落語「善光寺・骨寄せ」として二代目に続いて、三代目桂歌之助が演じています。内容は全く同じなのですが、五右衛門に会いに行くと骨だらけでどれが五右衛門の骨か分からず、声を掛けると骨が集まってきて五右衛門になると言う演出です。 舞台の善光寺を歩く
「牛に引かれて善光寺参り」
長野駅に着くと、電光掲示板が外気温1度と表示されていますが、雪の残骸もありません。東京より寒いのですが、良く晴れて風もなく、日向では心地よい暖かさで、一日中手袋無しでも違和感がありません。牛に引かれて、来てみて正解です。善光寺は長野駅からは上り坂で、中程からは勾配もキツくなり、境内に入ると明かな傾斜が見えて、要所要所には階段が付いています。軟弱な吟醸はバスで表参道の仲見世真っ下まで行って参道を登ります。白を基調とした素敵な蔵造りの店やレトロだけれど垢抜けした建物が並んでいます。
仲見世通りに戻り参道を登ると、左手に大勧進が現れます。境内には雪が残っていますし、水子地蔵の足元には氷が張り付き、濠には全面結氷し、そこに乗った雪が幾何学模様を描いています。ここは信州だと言うことを再認識させられます。
山門を抜けると、日本の木造建築物で3番目に古く、国宝に指定されている、本堂です。本日の目的である、御印紋頂戴の儀式が本堂の中で執り行われています。列の後ろに並んで、石川五右衛門が額にかざした、あの錦の袋に入った御印を私も額に押してもらいました。噺の中では100疋(約2万円)のお布施によって押してもらうといいますが、ここでも浅草でも賽銭箱が置いてあって、その人なりの金額で良いみたいです。
「信州信濃の新蕎麦よりも 私ゃあんたのそばがいい」と唄われた、名物蕎麦で腹ごしらえをして、ここから、坂道をダラダラと下りながら長野駅に向かいます。約2km有りますから、30分、ダラダラ取材しながら行っても1時間あれば行き着くでしょう。
長野のこの地にも、落語の中でも有名人、左甚五郎が来ていたという龍の彫り物があります。小さな熊野神社の入口欄間に彫られた「龍と天女」の彫刻(下の写真)です。この二人(?)の組み合わせが面白く、龍は悪さばかりしているので、天女が降りてきて諫め、その後悪さをしなくなったという。
坂を下って、かるかや山西光寺前の坂が布引の坂と言われ、牛に引かれて善光寺参りの話の元になった坂で、牛を追いながら善光寺まで行った、という坂です。
長野駅前まで来ると、後は帰るだけですが、一つだけ見たいものがあります。月蓋(がっかい)長者には一人の姫君があり、名を如是(にょぜ)姫といい、その像が駅前広場にあり善光寺に向かって建っています。建っているはずでした。どこにも無いので、聞いたところ、約2年間駅前ロータリーの改修工事のため、如是姫は安全な所に避難しているようです。2年後に再会しましょう。
2013年2月記
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