「扇屋の新年」北斎

 

 扇屋は吉原に入って右に曲がった、江戸町一丁目に有って、花扇、瀧川などの、吉原でも一級の花魁を抱え、
次第に有名になって 大見世になった。その1階内部の正月模様です。

 右側1枚目(絵が上下二段になっている方は、下段の右)の上部、柱の陰に扇屋ののれんが掛かる。
そこがお客さんの出入り口。
その左に入口と逆に階段が架かり(吉原の見世では階段が逆向きに架かっています)、 2階の客室に上がる。
その手前では男達がかまどに向かい食事の用意をしています。
その左(2枚目)では、食事の用意で 膳を出しています。
 見世の者は花魁から禿まで、ここ2枚目と3枚目の大広間で食事をします。

 宴会に呼ばれた芸者やコンパニオン達は現在も絶対にお客さんの膳の料理には箸を付けません。我慢をしている
のでは無く、出掛けに満腹にしてお座敷に出るから、お客さんの料理に手を出す必要が無いのです。
七越花魁もここで充分に腹越しらえをして席に着いていたらこの様な事は起こらなかったのでしょう。
話を戻して、

 同じく2枚目の奥、襖の向こうはまがき(籬)といって、外部(道路側)に格子がはまった部屋で、お客さんの指名を
待つ所で、張り見世と言います。
 4枚目、ご内所と言われる所で、神棚の下、長火鉢の前で、ご主人夫婦が控えています。ここからだと、
見世の中全体が 見渡せ状況が良く把握できます。
一番左が2階に上がる予備の階段で、その下には酒樽が予備として置かれています。

 残念ながら扇屋は弘化2年(1845)になると吉原細見から名前が消えて、大見世は玉屋だけになります。
この弘化の時、 揚代金が2分(4~5万円)以上となっていました。高い?いえいえ、これは揚げ代だけの金額で、
飲み食いして芸者太鼓持ち、 引き手茶屋への支払い、心付けなどがあり、この数倍以上は掛かります。
ホントに高かったんですね。

 

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