落語「後家殺し」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、「後家殺し」(ごけごろし)
 

 おかみさんが居ないのが好都合だと言い、男が聞き始めた。
 表の伊勢屋の後家と常吉は、3年越しのいい仲になっていた。出会いは、伊勢屋で浄瑠璃の会があって、助演として「三十三間堂棟由来、平太郎住家の段」を語った。
後家さんは年のころ二十七、八で、色白の上品ないい女。
後家さんは「嬉しいじゃないの。亡くなった亭主が良くやっていた『柳』だなんて」、それを聞いた常さん、急に心配になって、出だしから巧くいかなかったが、途中で後家さんを観ると首を振り振り聞いているので、気を持ち直して語り尽くした。汗を拭き着替えていると、酒とお食事が用意されていて太棹の吉蔵達と一緒にご馳走になった。

 翌日も二人が呼ばれて、忠臣蔵を語り、歓待されて帰ってきた。
 またその翌日にも、今度は一人でと招待され、酒肴で歓待された。あまり飲めないので気分が悪くなり、横にならしてもらうと、長襦袢の上に黒の羽織をかけた後家が入ってきて、「亭主が亡くなって3年、みだらな心を起こした事は無いが『柳』を聞いて心が変わった。私を、面倒見て欲しい」と。
 家に帰って家内と相談したら、打ち明けてくれたので、貴方の良いようにしてもイイ」と。それ以来の3年越しの付き合いなんだ。

 男が、常さんは想っているが、女とはそんなものでは無い。俺は見たんだが、いい男と後家が話をしているのを聞いてしまった。「常さんとは、時期の良いときに話をして別れ、その後にお前と生涯連れ添うよ」と。常の耳に入れると大変な事になるからと友人からも注意されていると告げ口して、逃げるように帰って行った。
 火の無い所には煙は立たない、と疑い始まるとキリが無い。飲めない酒を飲んで、酔うどころか頭が冴えて、出刃包丁を研ぎ上げ、手ぬぐいに巻いて懐に。
 伊勢屋に酔っ払って入ったが、聞く耳を持たず出刃包丁を突きつけ、逃げる後家が転ぶのを背後から、滅多差しにして殺害してしまった。

 役人が出てきて取り押さえられ、調べてみると根も葉もない話で、あまりにもうらやましいので作り話で煽っただけだと解った。人を殺せば死刑と決まっていた。
 白州に引き出された常吉は、痩せ細り消沈してうな垂れていた。
 「江戸無宿、常吉面(おもて)を上げィ」、無宿というのは人別帳からはずされているので、家族に累が及ばない。御上の御慈悲です。「御上の御慈悲により『打ち首』申しつくる。ありがたくお受けいたせ」。
「最後に一つ、奉行聞き叶えてあげるが、なにか有るか」、と問われて常さん、 「後家も殺しましたし、もう一人殺したい者が居ましたが、それも叶わぬ事。(浄瑠璃口調で)後に残りし女房子が、打ち首とォ聞くゥなァらばァ、さこそ、なげかァん~、ふびん~やァーとォー」と語ると、
奉行、ポンと膝をたたいて 「後家殺しッ!」。

 



1.町奉行所

 町奉行は江戸の街と町人に関わる、行政、司法、立法、警察、消防の全てを監督する役所。奉行所には役宅(奉行の住居)が付随して、在任中はそこに住んだ。町奉行には任期が無く死ぬまで務めた者も居れば、1
ヶ月弱で切られた者も居る。多くの奉行が居たが、名奉行と謳われた大岡越前は旗本から大名に取り立てられた唯一の奉行であった。

南町奉行所・北町奉行所;二ヶ所の両奉行所は、それぞれ1名の奉行が居て、1ヶ月交代で執務に当たった。立地の位置からその様に呼称された。(中町奉行所も一時期有った)
 北町奉行所は、現在の東京駅八重洲口北側大丸の奥の位置にあった。銘板がコンコース寄りに埋め込まれています。2600余坪(約8700平方メートル)の敷地で、遠山金四郎もいた。
 南町奉行所は現在の有楽町東口から、南にマリオンまでの一画にあった。2700余坪(約9000平方メートル)の敷地で大岡越前忠相もいた。

お白州(おしらす);奉行所の取り調べのための前庭には砂利が引いてあり、その砂利が白かったので白州と呼ばれた。右図;「鼠小紋東君新形」押絵より

 

2.小伝馬町牢屋敷
 江戸小伝馬町にあった牢屋は幕府最大の施設でした。明治8年(1875)まで270年使われ、牢屋敷は2600余坪あり、外周は高さ7尺8寸の練り壁とその外側には幅6尺深さ7尺の堀がめぐらされていた。内部は、役宅・牢役人の執務室、獄舎、刑場の三部分から成り立っていた。200~400人収容していたが、多いときには900人ほどの過剰拘禁が続いたときもあった。運用・慣習上不正不法が横行しこの世の地獄と恐れられていた。
 常吉もここに収監され、町奉行所に引き出され裁きを受け、この地で処刑された。

 

 江戸時代、小伝馬町にあった牢屋。囚獄・石出帯刀(いしで たてわき)と記されています。

打ち首(うちくび);江戸では、武士を除く死刑でもランクが六つあり、重い順に・・・、

鋸挽(のこぎりびき) 首だけ出した状態で生き埋めにし、首を竹の鋸で挽いた後、磔。
磔(はりつけ) 公開の刑場で十字に組んだ柱に縛り、槍で両脇の下から反対の肩へ突いて殺す。
獄門(ごくもん) 牢屋敷で斬首後、公開の刑場で首をさらし、遺体は刀の試し切りにする。
火罪(かざい) 放火犯に適用、公開の刑場で柱に縛り、薪で焼き殺す。
死罪(しざい) 牢屋敷で斬首、遺体は刀の試し切り。
下手人(げしゅにん) 牢屋敷で斬首、遺体は親族に渡され、葬儀、埋葬が許される。

 死刑にする場合も、執行前に裸馬に乗せて市中を引き回したり(八百屋お七の例)、遠島などの場合は家財が没収されたりします。刑が決まるまで、小伝馬町の牢屋に収監されますが、今の懲役に当たる刑罰はありませんでした。罪を犯した人に、幕府の金を使って長期に渡り更生させるなんて、余裕がなかったのです。
 死刑も重罪の場合、犯罪抑止を目的とした鈴が森や小塚っ原で公開処刑や、切り落とされた首を政治犯や重罪人は晒しものにしたりしています。結果、江戸は非常に犯罪の少ない、治安の良い都市でした。
武士に対する死刑は切腹だけです。

 常吉は打ち首ですから、最後の下手人にあたります。ま、死刑でも一番軽い罪ですから、「御上の御慈悲により『打ち首』申しつくる。ありがたくお受けいたせ」と言いますが、死刑は死刑です。

 

3.言葉
■義太夫(ぎだいゆう);特に関西で浄瑠璃と言う。浄瑠璃の流派の一。貞享(1684~1688)頃、大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃として創始。豪放な播磨節、繊細な嘉太夫節その他先行の各種音曲の長所を摂取。作者の近松門左衛門、三味線の竹沢権右衛門、人形遣いの辰松八郎兵衛などの協力も加わって元禄(1688~1704)頃から大流行し、各種浄瑠璃の代表的存在となる。ぎだとも言う。
 今のカラオケと同じようにフアンが自分たちで語った。落語「寝床」にも詳しく触れています。

 褒め言葉は、「待ってました」、どうする連が掛ける「どうする、どうする」、関西では「後家殺し!」、スゴい褒め方です。この噺はその当時の褒め言葉から来ています。これに使われる義太夫三味線は、太棹(フトザオ)の三味線で、(考えすぎでしょうか)後家も殺したのでしょう。

 この噺、圓生師匠の独壇場で、「包丁」、「後家殺し」はやれる人がでません。 義太夫の素養がないと絶対出来ない噺で、「豊竹屋」は最近やる人もいますが、この人三味線持った事あるのかしらという人のを聞くとぞっとします。

平太郎住家;人形浄瑠璃「祇園女御九重錦(ぎおんにようごここのえにしき)」の三段目、別名『三十三間堂棟(むなぎの)由来』平太郎住家より木遣り音頭の段。俗に『柳』。
 後白川法皇が建立し、正月の通し矢で有名な京都・三十三間堂。その昔、紀州の山中に梛(なぎ)と柳の夫婦の大木があったが、修行僧に枝を伐られてしまう。時は流れ、梛の木は横曽根平太郎に生まれ変わり、人間になれなかった柳の精は仮に女の姿に変じて夫婦となり、緑丸という子をなした。ある時、修行僧の生まれ変わりである白河法皇の頭痛を治すため、柳の木は三十三間堂の棟木として切り倒されることになり斧が入る。お柳は、自分の正体を打ち明け、夫と子に別れを惜しみながら消え失せる。切り倒された柳は引き出される途中で動かなくなるが、夫の木遣り音頭と子の引く綱で、都へと送り出される。

人別帳(にんべつちょう);現在の戸籍謄本のようなもので、そこに記載の無い人間は無宿人と呼ばれ、厳しいときには捕縛の対象になり、最悪佐渡送りになったりした。幕府では飢饉などで離農した農民が大都市、特に江戸に流入し、打ち壊しや底辺で起こる暴動に危機感を感じていた。その為、人別帳を作成し、人口の移動を把握していた。

後家(ごけ);今更言う事では無いが、亭主に先立たれた独り身の若い女性。

 小咄に、「そんなに後家って魅力があるのか。それなら早く、家の女房を後家にしたい」。

 「されば世の中に化け物と、後家立てすます女なし」 井原西鶴




 舞台の町奉行所を歩く

 
 
北町奉行所は東京駅の真っ下になってしまい何処からか、そのトカゲの尻尾が見えるかと探しましたが。数十階建てのビルが建ち並び、下からは新幹線のホームすら見えません。その場所は東海道新幹線の到着した先頭車両付近に当たる終着ホームの下です。日本橋口で出ると、目の前が長距離のJRバス到着口になっていて、頻繁に大型バスがロータリーの中に入ってきます。まさか北町奉行所の人達も、こんな騒々しい所になるとは思っても居なかった事でしょう。バスを降りた乗客も、北町奉行所に入って行く形になりますが、「しらざァ~、言って聞かせャしょ」と言いたいところですが、言ってお白州の上の罪人を増やすのもなんですから、黙って旅の途中を見送ります。
 北町奉行所跡の碑は大丸のコンコース側に張り付けられています。

 「南・北町奉行所」東京都教育庁生涯学習部文化課作成、江戸復原図より部分 右が北側

 南町奉行所はJR有楽町駅の線路に架かる敷地にありました。この有楽町は織田信長の実弟で、千利休の弟子でもあった、織田有楽斎の屋敷があった所から名が付いています。その南には堀に架かった数寄屋橋がありましたが、ここも堀が埋め立てられてその上に高速道路が出来て、そのところの高架橋が数寄屋橋となっています。ここは、菊田一夫の名作「君の名は」で、真知子が春樹を待っていた場所で、ラジオで放送されたときは、女湯を空にしたという逸話が残っています。それを知らずに訪ねてくると、ガッカリする有名(?)な場所です。
 話戻して、奉行所跡も、東京駅から出た東海道新幹線の高架下に敷地を一部取られてしまいました。残りの敷地は駅前広場と新しく出来たイトシアという商業ビルに踏みつけられてしまいました。ここも、頭の上がうるさい場所になっています。

 小伝馬町牢屋敷に行きます。
 地下鉄日比谷線・小伝馬町で降りるとその上が小伝馬町交差点。南北が解らず別方向に交差点を渡り、又渡り直して広い一方通行の人形町からの通りを西に進み、一つ目の路地を左に曲がると、江戸時代牢屋敷があった所です。牢屋敷は西側の神田堀から水を引き入れ、周りを堀で囲み、なおかつ高い塀を巡らせていました。この地は現在、十思(じっし)公園として整備され、その南は区立十思小学校が有ったのですが廃校になり、十思スクエアと名を変え、地域の文化センターの様な使い方をされています。また、小路を挟んだ東側には処刑場が有った地に大安楽寺と隣に身延別院が、処刑された受刑者の供養をするために建っています。
 十思公園には石町に有った、時の鐘が移されコンクリート造りの鐘楼の中に吊されています。また、ここで処刑された松蔭をいたみ、吉田松陰終焉の地の碑が有ります。

 大安楽寺の建立に際して、牢屋敷跡は、たたりを怖れて誰も住まず、”牢屋が原”と呼ばれる原っぱになっていた。明治の始めに霊を供養するために寺を創建しようとした時、青年二人が快く応えて寄進した。その二人の青年が後の明治の財界の大物として活躍する大倉喜八郎と安田善次郎でした。大倉の名は、ホテルオークラとして残り大成建設の祖です。安田善次郎は、安田財閥の祖。安田銀行(みずほ銀行)や安田生命(損保ジャパン)に名を残していた。寺の名前は、大スポンサーの二人の頭文字を、また、教典の中から取られ、「大」「安」楽寺となった。開山、明治8年(1875。この年市ヶ谷に牢屋敷が移転)、と言われるが、その後、寺は二度の火災(関東大震災、戦災)に遭い詳しい記録が残っていないので細目不明とのこと。(住職奥様談)

 隣には、身延山から移された、身延別院が建っています。本尊は木造日蓮聖人座像で、身延山久遠寺の宝蔵に安置されていたが、明治16年(1883)ここに、祖師像として迎えられた。制作されたのは明応6年(1497)7月で、制作された日付けがハッキリとした、日蓮聖人の貴重な座像です。普段は厨子の中に収まり、その前に写真が飾られています。都指定有形文化財に指定。

 

地図


  小伝馬町交差点にあった案内図より

地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真



 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

北町奉行所跡(東京駅日本橋口)
 東京駅八重洲口側の一番北側にある出入り口です。このビルの背中(南)側は東海道新幹線が終着駅として止まるホームになっています。このビルとその下に北町奉行所が有りました。左側の路地の右側が新幹線終着ホームです。路地の奥の左側に大丸があります。

北町奉行所跡(東京駅八重洲口)
 正面のビルが大丸で、左に延びる新幹線ホームが見えます。大丸ビルの向こう側に奉行所があったのです。東京駅の向こう側は丸の内側で駅が創業した当時のレンガ造りに戻され、連日見物客で賑わっています。こちら側は旧駅舎ビルを撤去し、低い位置に北と南のビルをつなぐ遊歩道の工事の真っ最中です。

南町奉行所跡(有楽町駅前)
 東京駅から最初の駅がここ有楽町駅です。新幹線は東京駅に向かって走っています。この下辺りから右側のイトシアの商業ビルの敷地までが南町奉行所跡です。

南町奉行所跡(有楽町駅前イトシア)
 上記の写真と反対方向から見ています。奥の建物がマリオン。左がイトシアで、そのガラス窓に新幹線が映っています。この辺りに奉行所が有ったのです。

十思公園(じゅっしこうえん。中央区日本橋小伝馬町5、牢屋敷跡)
 牢屋敷跡のメイン部分を整備され公園となっています。説明文を読まなければ過去にここで捕縛された人達が生き地獄だと言われた地である事は想像も出来ません。

時の鐘 (十思公園内)
 江戸市中で最初に設置された時の鐘は本石町三丁目にあったが、明治に入って時の鐘の制度が終わり、鐘も有志の手によって保存されていたが、昭和5年現在の鐘楼が完成し移されたものです。 

十思スクエア(十思公園南)
 関東大震災の後、鉄筋コンクリートで造られた校舎で、かなりモダンな造りになっている。この建物も牢屋敷の一部に建てられたもので、南側の建物入り口の景観ですが、この辺りに正面の門があった。

大安楽寺(中央区日本橋小伝馬町3、十思公園東)
 牢屋敷の中に造られていた処刑場跡に大安楽寺が建ち、その中央部の処刑されていた場所に供養するため延命地蔵尊が建てられた。
 そこに「江戸伝馬町牢御たく場跡」の碑が建っています。注:たく=琢の偏が王ではなく木偏です。たく場とは刑場のこと。ここで、吉田松陰など文明開化を叫んだ先駆者が処刑されていった。その執行者は山田浅右衛門であった。

身延別院(十思公園東)
  上記、大安楽寺の南側に肩を接して建っています。日蓮宗大本山身延からの本尊を祀り、処刑されたり、ここで命を落とした人達を供養するために建立されました。

                                                         2012年12月記

次の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る

 

 

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu