落語「後家殺し」の舞台を歩く
三遊亭円生の噺、「後家殺し」(ごけごろし)
■南町奉行所・北町奉行所;二ヶ所の両奉行所は、それぞれ1名の奉行が居て、1ヶ月交代で執務に当たった。立地の位置からその様に呼称された。(中町奉行所も一時期有った)
■お白州(おしらす);奉行所の取り調べのための前庭には砂利が引いてあり、その砂利が白かったので白州と呼ばれた。右図;「鼠小紋東君新形」押絵より
2.小伝馬町牢屋敷
江戸時代、小伝馬町にあった牢屋。囚獄・石出帯刀(いしで たてわき)と記されています。
■打ち首(うちくび);江戸では、武士を除く死刑でもランクが六つあり、重い順に・・・、
死刑にする場合も、執行前に裸馬に乗せて市中を引き回したり(八百屋お七の例)、遠島などの場合は家財が没収されたりします。刑が決まるまで、小伝馬町の牢屋に収監されますが、今の懲役に当たる刑罰はありませんでした。罪を犯した人に、幕府の金を使って長期に渡り更生させるなんて、余裕がなかったのです。
常吉は打ち首ですから、最後の下手人にあたります。ま、死刑でも一番軽い罪ですから、「御上の御慈悲により『打ち首』申しつくる。ありがたくお受けいたせ」と言いますが、死刑は死刑です。
3.言葉
褒め言葉は、「待ってました」、どうする連が掛ける「どうする、どうする」、関西では「後家殺し!」、スゴい褒め方です。この噺はその当時の褒め言葉から来ています。これに使われる義太夫三味線は、太棹(フトザオ)の三味線で、(考えすぎでしょうか)後家も殺したのでしょう。
この噺、圓生師匠の独壇場で、「包丁」、「後家殺し」はやれる人がでません。
義太夫の素養がないと絶対出来ない噺で、「豊竹屋」は最近やる人もいますが、この人三味線持った事あるのかしらという人のを聞くとぞっとします。
■平太郎住家;人形浄瑠璃「祇園女御九重錦(ぎおんにようごここのえにしき)」の三段目、別名『三十三間堂棟(むなぎの)由来』平太郎住家より木遣り音頭の段。俗に『柳』。
■人別帳(にんべつちょう);現在の戸籍謄本のようなもので、そこに記載の無い人間は無宿人と呼ばれ、厳しいときには捕縛の対象になり、最悪佐渡送りになったりした。幕府では飢饉などで離農した農民が大都市、特に江戸に流入し、打ち壊しや底辺で起こる暴動に危機感を感じていた。その為、人別帳を作成し、人口の移動を把握していた。
■後家(ごけ);今更言う事では無いが、亭主に先立たれた独り身の若い女性。
小咄に、「そんなに後家って魅力があるのか。それなら早く、家の女房を後家にしたい」。
「されば世の中に化け物と、後家立てすます女なし」 井原西鶴
「南・北町奉行所」東京都教育庁生涯学習部文化課作成、江戸復原図より部分 右が北側
南町奉行所はJR有楽町駅の線路に架かる敷地にありました。この有楽町は織田信長の実弟で、千利休の弟子でもあった、織田有楽斎の屋敷があった所から名が付いています。その南には堀に架かった数寄屋橋がありましたが、ここも堀が埋め立てられてその上に高速道路が出来て、そのところの高架橋が数寄屋橋となっています。ここは、菊田一夫の名作「君の名は」で、真知子が春樹を待っていた場所で、ラジオで放送されたときは、女湯を空にしたという逸話が残っています。それを知らずに訪ねてくると、ガッカリする有名(?)な場所です。
小伝馬町牢屋敷に行きます。 大安楽寺の建立に際して、牢屋敷跡は、たたりを怖れて誰も住まず、”牢屋が原”と呼ばれる原っぱになっていた。明治の始めに霊を供養するために寺を創建しようとした時、青年二人が快く応えて寄進した。その二人の青年が後の明治の財界の大物として活躍する大倉喜八郎と安田善次郎でした。大倉の名は、ホテルオークラとして残り大成建設の祖です。安田善次郎は、安田財閥の祖。安田銀行(みずほ銀行)や安田生命(損保ジャパン)に名を残していた。寺の名前は、大スポンサーの二人の頭文字を、また、教典の中から取られ、「大」「安」楽寺となった。開山、明治8年(1875。この年市ヶ谷に牢屋敷が移転)、と言われるが、その後、寺は二度の火災(関東大震災、戦災)に遭い詳しい記録が残っていないので細目不明とのこと。(住職奥様談)
隣には、身延山から移された、身延別院が建っています。本尊は木造日蓮聖人座像で、身延山久遠寺の宝蔵に安置されていたが、明治16年(1883)ここに、祖師像として迎えられた。制作されたのは明応6年(1497)7月で、制作された日付けがハッキリとした、日蓮聖人の貴重な座像です。普段は厨子の中に収まり、その前に写真が飾られています。都指定有形文化財に指定。
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2012年12月記 |
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