落語「おかふい」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、「おかふい」(おかふい)
 

 麹町三丁目に万屋右兵衛という質屋があった。番頭の金兵衛は堅い人であったが、若気の至り、友達に誘われ新宿の遊所で2.3回遊んでお土産、梅の毒をもらい、鼻を無くした。女は恐いというので、益々堅番頭となった。
 旦那は右兵衛と言って若く、嫁をもらうなら江戸一番の女性が良いと探したが居なかった。浅草に願掛けをした帰り”天女が天下った”かと思う十八九の人品の良い娘に出合って、後を付いていくと本町辺の御大家(ごたいけ)の娘であった。回りから縁談が数々来ていたが、右兵衛さん直談判で通い詰め嫁に迎えることになった。
 おりえさんと言って歳は十八美貌だけでなく御貞女で、片時も離れないほどの夫婦仲は好かった。

 そのせいか、右兵衛さん、病の人となり医者も首をかしげた。今では薬で治るのでしょうが益々悪くなりおりえさんを枕元に呼んだ。「私はもう長くないが、私が死んだ後にお前が二度目の亭主を迎えると思うと悔しくて死に切れない。お前の鼻を削いでおくれ。そうすれば男が近寄らなくなる。それと、髪の毛も切っておくれ」。普通の女性なら「そんなバカなことできるか!」と言うんでしょうが、この妻は貞淑すぎるが故に自分で髪の毛と自分の鼻を削ぎ亭主に渡した。亭主感涙にむせびながら、その鼻を食べてしまった。
 なぜか、 一枚紙を剥がすように回復に向かい全快してしまった。

 しかし、おりえさんの顔を見るたびに疎ましくなり、暴力を働くまでになった。その上、不愉快だと言って帰らない日が続いた。それを知った女房の親戚が南町奉行に訴えた。
 お裁きは喧嘩両成敗と言って右兵衛の鼻はそぎ落とされてしまった。「はふはふ、なんてぇことふぉ」。
 右兵衛は外歩きもできず、「おりえ、おりえ」と言って、前よりも大切にし、夫婦仲は益々好くなった。

 ある時、それを部屋の外から金兵衛が二人の会話を聞くと、
 お互い鼻がないために声が抜けてしまい「今までの行い、邪険にしたが、それに愛想も尽かさずいてくれた。ホントにお前がかわふい(可愛い)よ」、「私も貴方がいとふい(愛しい)」。「かわふい」「いとふい」とやっているその様子を見ていた番頭、
思わず吹き出し「はっはっはっ、こいつはおかふい(おかしい)」。
 
 
 


 この噺「おかふい」は放送禁止用語のさえたる噺です。現在は放送は勿論、寄席でも演じられない噺になってしまいました。例えば・・・、おっと、ここにも記述することは遠慮しましょう。昭和52年(1977。35年前)に放送されたテープから起こしました。この頃は、そんなに厳しい条件は付けずに大らかに放送されていたのです。ので、そのままの内容から概略を記しました。


1.医者
 前振りで円生が語っている医者です。
 ★医者にでもなろうという、”でも医者”が居たもんで、「あの医者に診てもらわなければ命を落とすことは無かったのに」。
 ★先生の所にお願いがあって来た、「私では無いが、裏の竹やぶに花が咲いて、花が咲くと枯れるというので診てもらいたい」、「私は医者だ。その様なことは植木屋に聞きなさい」、「だって、こちらは藪医者だとお聞きしたもので」。
 ★あるとき、風邪が大変流行ったが人気のある先生は手一杯で、診てもらうことが出来ない。そこで普段あまり忙しくない先生でも風邪ぐらいなら良いだろうと押しかけた。普段動かない先生が、風邪のために多いに動いたから薮医者と言った。
 ★竹の子医者というのがあって、「診てもらうのは止めておけ。薮医者にもならないんだから」。
 ★手遅れ医者、手遅れと言えば患者もあきらめが付くし、自分の顔にも傷が付かない。その上回復したら名声も上がる。「先生、患者はこちらです」、「・・・ん~。残念なことをした。もう少し早く診ていれば・・・」、「先生、今2階から落ちたばかりなのですが」、「落ちる前に来なさい」。
 ★円生がまだ子供時分、医学が発達していなかったので、鼻の無い人が結構居た。治療の方法が無く「梅の毒」(梅毒)に罹り鼻が無くなった人で、鼻声を過ぎて、鼻から息が漏れて聞きずらかった。
 ★他の噺では、葛根湯(かっこんとう)医者があります。「寒気がしますか、では葛根湯を飲みなさい。腹痛ですか、葛根湯を飲みなさい。次の方は足が痛い?葛根湯を飲みなさい。貴方は目が痛い、それでは葛根湯を飲みなさい。貴方は?付き添いの方ですか、たいくつでしょう、葛根湯をお呑みなさい」。
 葛根湯は葛根を主材とし、麻黄・生姜・大棗・桂皮・芍薬・甘草を煎じつめた漢方薬。悪寒・口渇・身熱・悪風・肩凝り・下痢・嘔吐などに用いる。劇的な効用はありませんが、最近の風邪薬には多用されています。

右上図;人倫訓蒙図聚「御典医の調剤」医師 往診先で患者を診、御典医が十徳を着て調剤をしている。

 

 「きたいな名医難病療治」国芳画 弟子達が難病人を治療しているが、幕府批判にもなっている。

入れ鼻「高い鼻の物争い」
 「入歯、入鼻仕候」と看板にあり。鼻の無き人、「これ幸い」と、細工を頼みければ、早速に入れくれけり。価を問えば、「三両二歩(分)」といふに、ぎょっとし、「わづか二三寸の木の切れなり」と値切れども、「少しも掛値はござらぬ」と、角目(つのめ)立って言いければ、かの人も腹を立てたかして、「鼻はそっちのもの、顔はおれがものなれば、鼻さえ戻せば元々」と、入れ鼻を取って打ち付け、さんざんに木鼻(火花)を散らして争ひけり。
 「軽口恵方の若水」天明の頃 作・画者不詳

 江戸時代にも、この様な木で鼻を作る施術が有ったのでしょう。三両二分は30万円位だが、余程の金持ちで無いと喧嘩になるでしょう。別の話では鼻を着けてもらったものとは別に、赤いのをスペアとした。酒に酔った時用で、用意周到な入れ鼻です。

 

2.麹町(こうじまち)
 麹町は、江戸城の西に位置した半蔵門から外堀四谷御門の外側までにいたる道筋、現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに誕生した町です。
 江戸時代には半蔵門の正面に麹町一丁目、以下、聖イグナチオ教会(四谷駅)付近が十丁目となり、あとは四谷御門の外から新宿に向かい、十一丁目から十三丁目まであった。江戸城の守りとなるこのあたりは、半蔵門から見て右手に番町(ばんちょう)の旗本屋敷、左手に但馬(たじま)豊岡藩(兵庫)京極家や播磨(はりま)明石藩松平家、近江(おうみ)彦根藩井伊家などの大名屋敷があった。その中央をつらぬくように走る麹町の通りは、四ツ谷、内藤新宿(ないとうしんじゅく)を経由して甲州路につながり、沿道には武家屋敷の御用を調達する商家が並んでいた。江戸の町屋ではもっとも古い地区の一つで、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が一丁目の堀端に住んだことから「麹町」の名が起こったといわれている。ほかに竹屋、魚屋、西瓜屋、乗物屋、太物(ふともの=綿・麻布)屋など有力な店もあって、日本橋の商家に対抗する勢力を誇ったといわれる。
  しかし麹町の由来はさらに古く、上古にあっては豊島宿(のち江戸宿)から府中(ふちゅう)の国府(こくふ)を往来する国府街道の、江戸における出入口であった。すなわち国府路(こうじ)の町であった。よって、元来は「国府路町(こうじまち)」であったとする説も有力で、徳川時代に入り大名旗本の小路となったことから「小路町(こうじまち)」となり、元禄年間(1688~1704)に麹屋をはじめ、呉服商の岩城枡屋などの有力な商屋の繁栄を見るようになってから、「麹」が当てられたと考えられる。

  かつて国府に行く道の始点であったことと、半蔵門から入って江戸城内を通って竹橋(たけばし)に抜ける通路(代官町通り)の出入口でもあったことから警護も厳しく、幕末に「桜田門外の変」が起きた際には半蔵門竹橋間は一般の往来も禁止された。
  明治維新後、麹町の多くの大店は大名旗本の没落と運命をともにして、没落してしまった。

  明治2年(1869)に東京府が五十番組に区分され、麹町一丁目は第二十三番組に所属し、明治4年(1871)に大区小区に再区分されて第三大区第二小区の一部となった。次いで明治11年(1878)に十五区制となり「麹町区」として分立した。さらに太平洋戦争後、昭和22年(1947)に隣接の神田区と統合し、千代田区内の町となり現在に至っている。

  麹町は武家地と町人地とが隣り合う江戸の中枢であった。その性格は今も継承され、国会、官庁、裁判所、大使館、そして皇居に囲まれた商業地として、賑(にぎ)やかだが品格のある町並みを回復した。政治・文化・商業のミックスされた、ユニークな町である。内堀沿いの風景も美しい。いつまでもこの景観が保たれることを願う。
 <作家・荒俣 宏著、千代田区麹町一丁目由来板より>  
落語「親子酒」より孫引き。一部加筆。

 番町は麹町の隣にあって江戸城の西側、外堀と内堀の間に広がっていた役職付きの旗本たちの住む武家地であった。その四谷寄りの六番町は今年2012年地価公示価格の公表によって、住居用土地の一番高い値が付いた所です。番町、麹町は、現在都心の住宅一等地。

新宿(しんじゅく);江戸時代、四宿の一つ。内藤新宿と言われ、甲州街道の江戸から見て第一番目の宿駅だった。どの街道も一番目の宿は泊まると言うより遊所として栄えた。落語「文違い」の舞台で、そちらで詳しく説明しています。
右図;名所江戸百景「四ッ谷内藤新宿」広重画

■淺草(あさくさ);台東区浅草。浅草寺を中心として栄えた地で、浅草と言えば通常浅草寺を指す。
 浅草寺縁起、推古天皇36年(628)3月18日早朝、宮戸川(隅田川)で、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の漁師が漁労中網に観音像を掛けて引き上げ郷司土師中知(はじのなかとも)に見せる。土師は自宅を寺とし出家して礼拝した。後、大化元年(645)勝海(しょうかい)上人が観音堂を建立本尊を秘仏とした。奈良朝には既に大伽藍を形成していた。平安期には慈覚大師が本尊を模してお前立ち本尊と御影版木を作る。江戸期には幕府の祈願所としてさらに大きくなり、現在に至る。全国に浅草寺の観音像出開帳としての観音は慈覚大師作前立ちご本尊だと言われています。
  浜成・竹成・土師の三人を祀るのが、浅草神社。俗に三社様と言う。浅草のお祭りとは実は三社様のお祭りです。(第23話「付き馬」より孫引き)

■本町(ほんちょう);現在の日本銀行、日本橋室町三丁目三井ビル、日本橋本町三丁目の各北側の道路を挟んだ地。落語に出てくる大店(おおだな)と言えばこの地です。
 江戸で1.2を争う金持ち、大商家が並んだ地であった。また麹町も江戸時代本町に並んで商業地として栄えていた。

南町奉行(みなみまちぶぎょう);江戸には北町奉行所と南町奉行所が有った。両奉行所は月輪番制で一月おきに請願を受け付けた。南町奉行所は現在の有楽町駅前のマリオン北側に有った。大岡越前守忠相が有名。
右図;徳川幕府刑事図譜「与力の吟味」

 

3.言葉
■質屋
(しちや);土地家屋などの不動産や、家財道具などの動産質物を担保として質入主に金銭を貸し付けることを業とする者。また、その店。江戸時代の重要な庶民及び武家の金融機関であった。金利は15~18%(年)の低利で、高利貸しは100~150%(年)であった。
 噺では三丁目(現・二丁目)の質屋と言っていますが、五丁目(現・三丁目)にねずみ小僧に押し入られた質屋が有ったと言われています。

 江戸見世屋図聚「質屋」三谷一馬画

■梅毒(ばいどく);円生は「梅の毒」といって逃げた言葉遣いをしています。性病のひとつで、スピロヘータによって起る慢性感染性疾患。患者の陰部・口腔粘膜から、また、先天的には母体から感染。第1期は病菌侵入部に初期硬結を、次いで無痛性横痃を生じ、第2期は全身に菌が分布して発疹を生じ、第3期は皮膚・内臓・筋肉・骨などにゴム腫を生じ、第4期は麻痺性痴呆症・脊髄癆(ロウ)などをおこす。コロンブスのアメリカ到達、シャルル8世のナポリ攻撃(1494~95年)以来欧州から世界にひろがり、日本では1512年すでに記載がある。瘡(カサ)。瘡毒(ソウドク)。

天女が天下った;天界に住む女神たち。多く首飾り等をつけ、羽衣を着け空を飛ぶ姿に表される。その天女がこの地に舞い降りたほどの美女。

右図;浅草寺本堂天井画より「天人之図」 堂本印象(どうもといんしょう)画
縦6.4m・横4.9m
若い娘さんだと思ったのに。

縁談(えんだん);結婚や養子縁組の相談。結婚話。今は自由恋愛の時代で、この言葉も死語?

髪を切る;江戸時代髪は男女とも大切なもので、仏門に入る等以外は髪は切らなかった。それを亭主のためスパッと切ってしまった貞女。

一枚紙(いちまいがみ)を剥がすように;「薄紙をはがすように」とも。薄い紙を一枚一枚はがすように、病気が日一日と快方に向かう様子。順調だけれども、一気に治らないもどかしさがこもる表現。ここでは、そんなまどろっこしい事ではなく一気に治ること。

 


 

 舞台の麹町から内藤新宿まで歩く

 私は、麹町の東の始点を皇居の半蔵門として歩き始めます。終点の内藤新宿の終わり、新宿追分まで約3.7kmで、極おおざっぱに言えば1里で、江戸時代の人は1時間弱で歩きます。吉原、四宿の五ヶ所を比べるとここ新宿が麹町から一番近くにありました。質屋の番頭さんは、楽しみに行くのですから足早に歩き、なおかつ、スタート地点もゴール地点ももっと手前で、3~40分で行ったことでしょう。馬に乗れば早い?いえいえ、手綱を引いている馬子さんの歩く速さです。

 皇居(江戸城)の西の門、半蔵門を背中に、正面の新宿通り(甲州街道。国道20号線)を西に歩き始めます。最初の大きな交差点は麹町一丁目交差点で、一丁目と二丁目の境を走る道と交差します。その道の下を地下鉄半蔵門線が走り、そこに半蔵門駅が有ります。江戸時代ここが麹町三丁目で、万屋右兵衛という質屋があって、堅物の番頭の金兵衛さんがいました。彼と一緒に歩き始めることにします。現在は麹町全体で見ても質屋さんは一軒も存在しません。都心中の都心ですから当たり前かも知れません。
 次の大きな交差点は麹町四丁目交差点で手前が三丁目で先が四丁目です。この交差する道の下にも地下鉄が走り麹町駅が有ります。ここを右に曲がれば日テレ通りと行って市ヶ谷に出ますが、現在日テレ(日本テレビ)は汐留に移ってしまい空になっていますが、道路名だけが残っています。麹町四丁目辺りが麹町の中程です。
 四ッ谷駅まで来ると、細長い街道に面した街は現在、(千代田区麹町)六丁目で終わりを告げますが、江戸時代は十丁目まであり、その先新宿区に入り麹町十二丁目までありました。

 四ッ谷駅前の北側に外堀に沿ってJRの線路が走っていますが、手前の土手が切れた所が四ッ谷見附の遺構(右写真)です。
 駅前を右に見て、JRの線路を橋で渡ると、大きな交差点に出ます。外堀通りで、四谷見附交差点と言い、左に曲がると赤坂の迎賓館、その奥が皇太子一家が住む青山御所、その手前に皇室のお子さんが通う学習院初等科があります。元の道に戻って新宿に向かって西に歩きます。

 新宿通りを1kmも歩くと四谷三丁目の交差点右側に消防博物館を併設した四谷消防署が有ります。ここは無料で入れて、消防に関する資料が多く集まっています。この交差点を左に曲がり直ぐの左門町を左に入ると、四谷怪談の於岩稲荷があります。落語「ぞろぞろ」をご覧下さい。
 元に戻って新宿に向かって歩くと、四谷四丁目交差点に出ます。ここは四谷大木戸が有った地で、玉川上水がここで暗渠になり江戸の市中に入っていったところです。ここには水番屋が有って、その名残で今も水道局のビルが建っています。

左図;四谷大木戸水番所
 羽村堰から40kmにわたる玉川上水路は、この水番屋より地下水路となる。石水門(手前の水路が切れたところ)で水を調節して、江戸市中への上水の供給を地下水路で行っていた。余水や濁水は左の南方へ分水して、渋谷川(渋谷・麻布十番を通って芝金杉で江戸湾に注ぐ)へ流した。分水点には芥留(あくたどめ)を設けて、ゴミや流木などが地下水路に流れ込まないように工夫していた。その分水点にあるのが、水番小屋。手前の小屋が会所です。それでも、井戸の中にフナが泳いでいる事があった。

 左の敷地が内藤家下屋敷。右側の道路が甲州街道で、その入口に大木戸の土塁があります。街道この先が内藤新宿の宿場街の始まりです。奥が追分に至り、現在の新宿駅になります。
 江戸東京博物館のジオラマより

話戻って、

 この先から新宿追分までが内藤新宿で、手前から下町、仲町、上町と呼び習わされ、東西9町10間余(約999m)ありました。約1kmですから、手前で遊べば、番頭さんの歩く距離は1km縮みますが、距離で遊ぶのでは無く、相方の善し悪しで決まるんですよね。そこまで言いながら鼻が落ちる病気持ちのヒドい女に当たってしまった不運な番頭さんです。
 他の四宿から混同されないように内藤新宿というのは、信濃遠野藩の内藤駿河守の下屋敷6600余坪が街道の南に有ったためです。現在はその屋敷跡を一回り大きくした新宿御苑という庭園になっています。
 明治に入って下町の花園公園(新宿一丁目21)の地に三遊亭圓朝が贅をこらした邸宅をこしらえて住んでいました。この近辺は花園町と過去言っていたところで、遊びの中心地だったのでしょう。現在はJR新宿駅に近い歌舞伎町にお株を譲ってしまいましたが、安心できるような小さな店が多く並んでいます。

 仲町に入ると、大宗寺が今でも大きな敷地に江戸の華やかな勢いを感じさせながら残っています。ここには、内藤新宿の閻魔様、しょうづかの婆さん(奪衣婆=だつえば)像、江戸の出入り口に造られた江戸六地蔵のひとつ銅製大仏、願が叶ったら塩を掛ける塩掛け地蔵尊などがあります。


 大宗寺の左から塩掛け地蔵尊、閻魔大王、奪衣婆、銅製大仏。クリックすると大きくなります。

 右図;大宗寺の閻魔様は片目だった。疱瘡に御利益が有るというので沢山の参拝者を集めていました。1847年3月6日の夜、水晶で出来た閻魔様の片目を抜き取った男が、像から転落するという事件が起きた。犯人は酔った鳶職人で、閻魔様に祈願したが、その甲斐なく子供が疱瘡で死んでしまった。それを恨んでの事であったが、犯行時に閻魔様の目が光って転落したという。その時の瓦版です。
江戸東京博物館蔵。2013.7.追記

 ここは宿場の中心地ですから、本陣、問屋(といや)場、高札場が設けられていました。
 大木戸から新宿通りを伊勢丹角までの表通りを歩きましたが、道路標示では甲州街道はその南に並行して走る、新宿御苑の塀づたいの細い道がそうで、甲州街道のバイパスとしてその南側地下を一気に抜けていきます。この細い道(バイパスが出来るまではもっと広かった)に玉川上水が走っていました。
 話を整理して、切り絵図と重ねると今歩いてきた表通りの新宿通りが江戸時代からの甲州街道で、その南に並行して走る細い道が玉川上水路(現在表示の甲州街道)です。

 新宿駅が近付くと賑やかさを増してきます。上町には、落語界のメッカと言われる新宿末広亭(新宿三丁目6)があり、お客さんを引きつけています。その先の明治通りに出ると、正面が伊勢丹、左に新宿三丁目交差点が有ります。この交差点が新宿追分で、内藤新宿ともお別れになります。


 新宿追分を伊勢丹側から、新宿通りを曲がった先を撮っています。左大木戸方向、右青梅街道。

 新宿通りを直進すると、新宿駅の前を通過して青梅街道となり、追分で左に曲がると甲州街道になり、直ぐ右に曲がって現在はJRの線路を陸橋で越えて街道は進みます。

 番頭の金兵衛さんを内藤新宿に置き忘れて来てしまいましたので、宿場に戻ることにします。

 

地図


  地図をクリックすると大きな地図集になります。 

写真



 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

麹町三丁目(千代田区麹町一と二丁目の境。麹町二丁目交差点)
 噺の中の質屋さんはこの辺にあったのでしょう。写真右側が突き当たって半蔵門です。新宿通りを左に向かって新宿まで。

内藤新宿跡(新宿区新宿一~二丁目)
 元内藤新宿の中心地のひとつ、赤い旗が立つ新宿末廣亭がある裏通りです。

浅草寺(台東区浅草二丁目)
 万屋右兵衛さんが日本一の嫁さんを探しに、願を掛に行った浅草寺本堂前です。この中におりえさんらしき人は居ますか。

本町(中央区日本橋本石町+日本橋室町+日本橋本町)
 おりえさんの実家があった本町の一部です。
 写真、左のビルが三井タワーで、その右を入ると突き当たりが日本銀行本店です。

南町奉行所跡(千代田区有楽町二丁目8マリオン裏)
 有楽町駅のホームから写真を撮っています。新幹線が通過する辺りに南町奉行所が有りました。正面の2棟のビルがマリオン、左が最近出来たイトシアと高層ビルのマルイです。この三点の一部が含まれています。 

                                                           2012年11月記

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