落語「おかふい」の舞台を歩く
三遊亭円生の噺、「おかふい」(おかふい)
この噺「おかふい」は放送禁止用語のさえたる噺です。現在は放送は勿論、寄席でも演じられない噺になってしまいました。例えば・・・、おっと、ここにも記述することは遠慮しましょう。昭和52年(1977。35年前)に放送されたテープから起こしました。この頃は、そんなに厳しい条件は付けずに大らかに放送されていたのです。ので、そのままの内容から概略を記しました。
右上図;人倫訓蒙図聚「御典医の調剤」医師 往診先で患者を診、御典医が十徳を着て調剤をしている。
「きたいな名医難病療治」国芳画 弟子達が難病人を治療しているが、幕府批判にもなっている。
■入れ鼻「高い鼻の物争い」
江戸時代にも、この様な木で鼻を作る施術が有ったのでしょう。三両二分は30万円位だが、余程の金持ちで無いと喧嘩になるでしょう。別の話では鼻を着けてもらったものとは別に、赤いのをスペアとした。酒に酔った時用で、用意周到な入れ鼻です。
2.麹町(こうじまち)
かつて国府に行く道の始点であったことと、半蔵門から入って江戸城内を通って竹橋(たけばし)に抜ける通路(代官町通り)の出入口でもあったことから警護も厳しく、幕末に「桜田門外の変」が起きた際には半蔵門竹橋間は一般の往来も禁止された。
明治2年(1869)に東京府が五十番組に区分され、麹町一丁目は第二十三番組に所属し、明治4年(1871)に大区小区に再区分されて第三大区第二小区の一部となった。次いで明治11年(1878)に十五区制となり「麹町区」として分立した。さらに太平洋戦争後、昭和22年(1947)に隣接の神田区と統合し、千代田区内の町となり現在に至っている。
麹町は武家地と町人地とが隣り合う江戸の中枢であった。その性格は今も継承され、国会、官庁、裁判所、大使館、そして皇居に囲まれた商業地として、賑(にぎ)やかだが品格のある町並みを回復した。政治・文化・商業のミックスされた、ユニークな町である。内堀沿いの風景も美しい。いつまでもこの景観が保たれることを願う。
番町は麹町の隣にあって江戸城の西側、外堀と内堀の間に広がっていた役職付きの旗本たちの住む武家地であった。その四谷寄りの六番町は今年2012年地価公示価格の公表によって、住居用土地の一番高い値が付いた所です。番町、麹町は、現在都心の住宅一等地。
■新宿(しんじゅく);江戸時代、四宿の一つ。内藤新宿と言われ、甲州街道の江戸から見て第一番目の宿駅だった。どの街道も一番目の宿は泊まると言うより遊所として栄えた。落語「文違い」の舞台で、そちらで詳しく説明しています。
■淺草(あさくさ);台東区浅草。浅草寺を中心として栄えた地で、浅草と言えば通常浅草寺を指す。
■本町(ほんちょう);現在の日本銀行、日本橋室町三丁目三井ビル、日本橋本町三丁目の各北側の道路を挟んだ地。落語に出てくる大店(おおだな)と言えばこの地です。
■南町奉行(みなみまちぶぎょう);江戸には北町奉行所と南町奉行所が有った。両奉行所は月輪番制で一月おきに請願を受け付けた。南町奉行所は現在の有楽町駅前のマリオン北側に有った。大岡越前守忠相が有名。
3.言葉
江戸見世屋図聚「質屋」三谷一馬画
■梅毒(ばいどく);円生は「梅の毒」といって逃げた言葉遣いをしています。性病のひとつで、スピロヘータによって起る慢性感染性疾患。患者の陰部・口腔粘膜から、また、先天的には母体から感染。第1期は病菌侵入部に初期硬結を、次いで無痛性横痃を生じ、第2期は全身に菌が分布して発疹を生じ、第3期は皮膚・内臓・筋肉・骨などにゴム腫を生じ、第4期は麻痺性痴呆症・脊髄癆(ロウ)などをおこす。コロンブスのアメリカ到達、シャルル8世のナポリ攻撃(1494~95年)以来欧州から世界にひろがり、日本では1512年すでに記載がある。瘡(カサ)。瘡毒(ソウドク)。
■天女が天下った;天界に住む女神たち。多く首飾り等をつけ、羽衣を着け空を飛ぶ姿に表される。その天女がこの地に舞い降りたほどの美女。
右図;浅草寺本堂天井画より「天人之図」 堂本印象(どうもといんしょう)画
■縁談(えんだん);結婚や養子縁組の相談。結婚話。今は自由恋愛の時代で、この言葉も死語?
■髪を切る;江戸時代髪は男女とも大切なもので、仏門に入る等以外は髪は切らなかった。それを亭主のためスパッと切ってしまった貞女。
■一枚紙(いちまいがみ)を剥がすように;「薄紙をはがすように」とも。薄い紙を一枚一枚はがすように、病気が日一日と快方に向かう様子。順調だけれども、一気に治らないもどかしさがこもる表現。ここでは、そんなまどろっこしい事ではなく一気に治ること。
舞台の麹町から内藤新宿まで歩く
私は、麹町の東の始点を皇居の半蔵門として歩き始めます。終点の内藤新宿の終わり、新宿追分まで約3.7kmで、極おおざっぱに言えば1里で、江戸時代の人は1時間弱で歩きます。吉原、四宿の五ヶ所を比べるとここ新宿が麹町から一番近くにありました。質屋の番頭さんは、楽しみに行くのですから足早に歩き、なおかつ、スタート地点もゴール地点ももっと手前で、3~40分で行ったことでしょう。馬に乗れば早い?いえいえ、手綱を引いている馬子さんの歩く速さです。
皇居(江戸城)の西の門、半蔵門を背中に、正面の新宿通り(甲州街道。国道20号線)を西に歩き始めます。最初の大きな交差点は麹町一丁目交差点で、一丁目と二丁目の境を走る道と交差します。その道の下を地下鉄半蔵門線が走り、そこに半蔵門駅が有ります。江戸時代ここが麹町三丁目で、万屋右兵衛という質屋があって、堅物の番頭の金兵衛さんがいました。彼と一緒に歩き始めることにします。現在は麹町全体で見ても質屋さんは一軒も存在しません。都心中の都心ですから当たり前かも知れません。
四ッ谷駅前の北側に外堀に沿ってJRの線路が走っていますが、手前の土手が切れた所が四ッ谷見附の遺構(右写真)です。
新宿通りを1kmも歩くと四谷三丁目の交差点右側に消防博物館を併設した四谷消防署が有ります。ここは無料で入れて、消防に関する資料が多く集まっています。この交差点を左に曲がり直ぐの左門町を左に入ると、四谷怪談の於岩稲荷があります。落語「ぞろぞろ」をご覧下さい。
左図;四谷大木戸水番所
左の敷地が内藤家下屋敷。右側の道路が甲州街道で、その入口に大木戸の土塁があります。街道この先が内藤新宿の宿場街の始まりです。奥が追分に至り、現在の新宿駅になります。
話戻って、
この先から新宿追分までが内藤新宿で、手前から下町、仲町、上町と呼び習わされ、東西9町10間余(約999m)ありました。約1kmですから、手前で遊べば、番頭さんの歩く距離は1km縮みますが、距離で遊ぶのでは無く、相方の善し悪しで決まるんですよね。そこまで言いながら鼻が落ちる病気持ちのヒドい女に当たってしまった不運な番頭さんです。
仲町に入ると、大宗寺が今でも大きな敷地に江戸の華やかな勢いを感じさせながら残っています。ここには、内藤新宿の閻魔様、しょうづかの婆さん(奪衣婆=だつえば)像、江戸の出入り口に造られた江戸六地蔵のひとつ銅製大仏、願が叶ったら塩を掛ける塩掛け地蔵尊などがあります。
右図;大宗寺の閻魔様は片目だった。疱瘡に御利益が有るというので沢山の参拝者を集めていました。1847年3月6日の夜、水晶で出来た閻魔様の片目を抜き取った男が、像から転落するという事件が起きた。犯人は酔った鳶職人で、閻魔様に祈願したが、その甲斐なく子供が疱瘡で死んでしまった。それを恨んでの事であったが、犯行時に閻魔様の目が光って転落したという。その時の瓦版です。
新宿駅が近付くと賑やかさを増してきます。上町には、落語界のメッカと言われる新宿末広亭(新宿三丁目6)があり、お客さんを引きつけています。その先の明治通りに出ると、正面が伊勢丹、左に新宿三丁目交差点が有ります。この交差点が新宿追分で、内藤新宿ともお別れになります。
番頭の金兵衛さんを内藤新宿に置き忘れて来てしまいましたので、宿場に戻ることにします。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
麹町三丁目(千代田区麹町一と二丁目の境。麹町二丁目交差点)
内藤新宿跡(新宿区新宿一~二丁目)
浅草寺(台東区浅草二丁目)
本町(中央区日本橋本石町+日本橋室町+日本橋本町)
南町奉行所跡(千代田区有楽町二丁目8マリオン裏) 2012年11月記
|
SEO | [PR] !uO z[y[WJ Cu | ||