落語「王子の幇間」の舞台を歩く
   

 

 八代目桂文楽の噺、「王子の幇間」(おうじのたいこ)
 

 店先が騒がしいので聞くと、神田の満壽美屋の野幇間平助が来ているという。一度店が分かるとのべつ来るし、来ると物が無くなるから困る、と主人に言わしめている。靴の片方を持って行って、後日もう片方を、足の悪い友人にあげるからと貰い受け、忘れた頃、靴を買い取って欲しいと来宅。ぴったりの靴だと言い、見るとそれは紛失した私の靴だった。
 二度と来ない方法は無いかとお内儀さんに問えば、平助は居ない者の悪口を言うので、奥に隠れていてさんざ悪口を言わして頃合いを見計らって出たら、どんな厚顔の者でも二度と来なくなるでしょうと、知恵を出した。

 店では平助が、小僧に取り巻き、嫌がられると、おなべどんに。誉めて持ち上げ、けなして落とし、あまりにも毒舌が過ぎて泣かせてしまった。婆やさんに声を掛け、負ぶさっている子供に愛想を使い、逃げられると横に鳶(とび)の頭(かしら)がいた。ウルサいヤツだと言われながらも取り付いて5円を下さいと手を出した。何でも良いから5円下さい。ハシゴ乗りの時、粋で格好良かった。ハシゴを登ってテッペンの灰吹きに座って見得を切ったときは役者衆より見事だった、稲本で三味線を弾いていたときはもっと良かった。案内した茶屋から、相方の花魁の性格まで言い当て、唄の内容までしゃべり始めた。出し抜けに平助の頭にゲンコツが飛んできた。ポカポカと殴られ、「ここは何処だと思っているんだ。御店(おたな)だぞ。吉原の2階で三味線弾いていたことが耳に入ったら信用問題だ」、「それは済まなかった。三味線を弾いていたのは・・・区役所」。

 やっと奥にたどり着いて、お内儀さんにご挨拶。店先でいい音がしてましたね、と皮肉を言われたが、「旦那様は」と伺うと、「4日も帰ってこないの。貴方が連れ歩いているんでしょ。その様子を旦那に頼まれ見に来たね。お前は旦那の間諜だね」。
 「それは濡れ衣だ」と言いながら、お内儀さんのお菓子を食べ、お茶を飲んでいた。
 居ないのだったら大秘密をお話ししましょうと言って、近々稲本の瀬川花魁を身請けするので、貴方を追い出して、その花魁がこの家に入るんです。悲しいと言って平助は涙をこぼしているが、目ざといお内儀さんは、目尻にお茶殻が付いているのを指摘、平助あわてず騒がず「私は悲しくなると、目からお茶殻が出るのです」。「私のことを悲しんでくれるのはうれしいよ」、「では大秘密をもう一つ」。
 「世間では私と貴方は姦通していると噂が出ている」、「そんな感じはしないんだが。旦那がそんな気なら、私はアンタと逃げても良いよ」、驚く平助、瓢箪から駒と大喜び。「ではこのツヅラを背負って下さい」と背負わせたが「重い」と悲鳴を上げた。「この中には金の延べ棒が63本、株券や債券があい紙の代わりに入っているの。猫の”ミー”を連れて行くから提げて、反対の手に鉄瓶を提げて」、「色男の図では無いな」、「私を好きだから叩いても怒らないわよね」と、やおら顔を叩いた。叩きやすいと言いながら赤くなるまで叩き、奥に向かって「旦那ぁ」。ツヅラを担いだ平助の前に旦那が出てきた。
「あ!旦那だ」。

 「バカ野郎、重いはずだ、このツヅラには石臼が2つ入っているんだ」、「悪いシャレだ」。
「猫と鉄瓶を提げて、平助!なんてざまだ」、
「旦那様、これは御近火のお手伝いです」。

 


1.題名の「王子の幇間」が上記粗筋では解りません。
 野幇間・平助が、居ないと思っているご主人の悪口をお内儀様に言うには、

 あの旦那はひどい人ですよ。
 この前、私が家を掃除していたらいきなり旦那がやって来ましてね、「朝飯を食いにいこう」と誘われ、両国に行ったら早すぎてまだ準備中。
  「”常盤屋”にでも行かないか」と言われて、歩き始めたら直前でわき道に曲がっちゃった。 柳橋に来たので”柳光亭”の鰻でも食べるのかと思ったら、
 「代地の”万里軒”(西洋料理)がいいか? 芳町の”鹿の子”がいいか? 蔵前の”宇治里”がいいか?」 と次々と質問され、実際に蔵前通りに来たところで、「線路(路面電車)沿いをズーッといって、電車が来ても避けなかったら15円やろう」。 何とか取り繕って許してもらったが、今度は三好町の”富士山”(牛肉)、駒形”川枡”(泥鰌)と引っ張りまわされ、やって来たのは浅草。
  「飯が美味くなるように、運動でもしようか?」 ”尾張屋”(蕎麦、現存)かな、”万金”かなと期待をしたが、旦那の言葉は「浅草寺の境内にいる鳩に、豆を買って撒いてやれ」。 お堂の周りを五回まわって、人造の富士山に七回も登らされてもうフラフラ。しかも、旦那の方を見ると、パンにバターをぬって食べていた。
 千住へ来たから、”尾彦”で(鮒の雀焼き)でも食べるのかと思ったら、橋場に引っ張り込まれてお茶を何杯もガブガブ。木母寺の「三遊塚」まで行ったと思ったら「俺の友達の墓があるから、その墓掃除をしろ」とのご命令。 仕方なく掃除を始めたら、たまたま水がかかった墓をすべて掃除させられ、都合238本もピカピカにする羽目に。
 結局王子の権現様でお百度を踏まされてバタン、キュー。 ”海老屋”という料亭に運んでいってもらい、腹いっぱい食べたが、綱渡りをさせられて落っこちた。

 スゴいですね。これがホントだったら・・・。ま、そう言う事で王子まで来て念願の食事にありつけたので「王子の幇間」と言います。文楽さんはこの部分を噺からスパッと削除しています。

 ★上記、地名等の解説をしていきます。



両国(りょうごく);中央区東日本橋の北側。隅田川に架かる両国橋西河岸で、対岸墨田区側のJR両国駅を中心にした両国ではありません。上図;「東都名所両国繁栄河開之図」歌川国郷画 江戸東京博物館博物館蔵

柳橋(やなぎばし);京葉道路の北側、柳橋を渡ると浅草柳橋(町)です。花柳界があって賑わった地です。落語「不孝者」、「一つ穴」に詳しい。

・代地(だいち);江戸の行政上や火災予防上、町を動かした。新しい土地に旧町名を付けて、○○代地と呼んで幕末、江戸町名の約1割に達した。この噺ではどこの代地だか分かりません。が・・・、
 代地で最も有名な所は、柳橋の隅田川寄りです。ここには「魚尽見立評判第初輯」(うおつくしみたてひょうばんだいしょしゅう・文久元年<1861年>)という見立番付に、江戸中の料理屋を集め、横綱の位置に代地・川長と有ります。柳橋には名店が多く、亀清もここで、柳橋・万八、柳橋・梅川、元柳橋・深川亭とあります。

芳町(よしちょう);柳橋から見て進行方向逆の、現・日本橋人形町の一部にあった。上記見立て番付によれば、櫻井、佃長などの名店があった。

蔵前(くらまえ);台東区蔵前。隅田川の西岸江戸通りに面した街で、現在蔵前橋を東西に渡す。

線路沿い;路面電車の線路で、雷門 - 駒形二丁目 - 厩橋 - 蔵前 - 浅草橋駅前 - 浅草橋を走っていた。
 開業はライト兄弟が初めて空を飛んだ翌々月、明治37年(1904)2月1日、 全線廃止は昭和46年(1971)3月18日であった。このことからこの落語は明治37年から海老屋が廃業するまでの7〜8年間の事です。

三好町(みよしちょう);浅草三好町。現蔵前二丁目16&18辺り、厩橋(うまやばし)西詰め南。

駒形(こまがた);浅草寺への入口の町。浅草寺の観音様が川から上がった所と云われ、駒形堂がある。

浅草寺の境内にいる鳩に豆;豆売りのお婆さんが居て、参拝者は鳩に豆をまいた。平成の頃から鳩による病原菌の蔓延を防ぐため豆を売らなくなった。

富士山に七回も登る;浅草寺の北側に有る浅間神社の山。現在は無いが、人造の富士山があり、その下の町を富士下と言った。毎年5・6月下旬に植木市が行われる。

千住(せんじゅ);北千住と南千住があったが、地理的に南千住。千住は江戸時代、日光街道最初の宿駅。

フナの雀焼き;小鮒を背開きにし、串を刺して網焼きにしタレを付けたもの。雀の焼き物に似たとこから云う。右写真。決して雀を開いて焼いたものではありませんが、裏から見るとそっくりなのには驚きます。

橋場(はしば);隅田川西河岸で現在の白鬚(しらひげ)橋わき。台東区橋場。江戸時代は風光明媚で風流人の別荘が多かった。

木母寺(もくぼじ)の「三遊塚」;橋場の対岸の北側に有る念仏堂(梅若堂)を持つ寺。境内には三遊塚がある。落語「松葉屋瀬川」に詳しい。

・権現様(ごんげんさま);JR王子駅前の王子神社。熊野権現を祀るので権現様。音無川を挟んで飛鳥山の隣。料亭扇屋、海老屋があり、どちらも一級の料理屋で有った。落語「王子の狐」に詳しい。

お百度(おひゃくど);願を掛けるため神仏の参道を百回往復して祈ること。人に見られると良くないと夜中に出掛け、裸足がイイとか言われます。
右写真;お百度道に奉納された記念碑。

・海老屋(えびや);扇屋、海老屋は兄弟で経営していたが、常に海老屋が上位にいた。残念ながら明治の末に廃業となった。下図;「王子 海老屋」葛飾北斎画 画本東都遊より

★町の名を言えば有名店が出てきたのでしょう。インターネット、電話帳で探すと何処も現存しませんが、浅草の蕎麦屋さんだけは検索に引っかかりました。ただし、噺の中の店舗と現在の店舗が合致するという保証はありません。
 両国橋から歩き始めて、行程だけでざっと18kmあります。いくら食事をおごってくれるからって浅草寺の周りを回ったり、お百度を踏んだり、墓掃除をしたり、ご苦労様でした。東京大縦断の落語「黄金餅」で下谷山崎町から麻布絶江釜無村までより距離があるんですよ。ご苦労様です。

 

2.幇間(たいこ)
 幇間(たいこ。ほうかん)、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける男。たいこもち。男芸者。

  「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味の職業となります。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びのプロが、幇間すなわち太鼓持ちである、ともいわれる。
 専業の幇間は元禄の頃(1688 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751- 64年)の頃とされる。江戸時代では吉原に属した幇間を一流としていた。現在では絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が途切れつつある。古典落語では多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。浅草寺の鎮護堂には昭和38年(1963)に建立された幇間塚(下記に写真あり)がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい_たますけ。本名、直井厳、1907年5月11日 - 1994年5月4日。右絵;山藤章二画)が挙げられる。

 正式な「幇間」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5〜6年の修業を勤め、お礼奉公をして、正式な幇間となる。芸者と同じように、見番に所属している。服装は、見栄の商売であるから、絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄または正目の通った下駄、扇子を鳴らしながら、旦那を取り巻いた。

  「幇間もち揚げての末の幇間もち」

 一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。 これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。 この噺の主人公も野幇間。
 落語の中では野幇間が大勢出てきますが、野幇間の1歩手前が、品川で居残りをした佐平次こと”いのさん”でしょう。落語「居残り佐平次」に詳しい。

 

3.言葉
■灰吹き
(はいふき);たばこ盆の中にある煙管の灰を捨てる竹筒。ハシゴのてっぺんが似ているから。

稲本(いなもと);吉原の中央、仲之町から角町に曲がったところにあった大見世「稲本楼」。

お内儀さん(おないぎさん);身分ある人の妻。転じて、他人の妻、特に町人の妻の尊敬語。

間諜(かんちょう);スパイ。

つづら;(「葛籠」と書く) 衣服等を入れる、アオツヅラの蔓で編んだかご。後には竹やヒノキの薄板で作り、上に紙を貼った。つづらこ。
江戸吉原で、遊女の夜具・蒲団をこの葛籠に入れて持ち歩いた男を”葛籠回し”と言った。

右図;「舌切り雀」ポプラ社 村上幸一絵 お爺さんが背負っている雀のお土産が入っている容器がつづらです。

■間紙(あいがみ);傷が付かないように、物と物の間に挟む紙。金券を普通の紙のように使い、金持ちだと云わんが為に、「お札で鼻をかむ」と同意語で使っています。

石臼(いしうす);石で造った臼。大きいものや重いもののたとえに用いる。
「舌切り雀」の中では、欲張りお婆さんが背負った葛籠の中にはこれが入っていた。

御近火(ごきんか);近所の火事。



  舞台の両国から王子まで歩く


 両国橋の西側は歓楽街として栄えた所、両国広小路ですが、現在は広い京葉道路を挟んでいたって静かな街になっています。橋を渡り東側の両国地帯は国技館、江戸東京博物館を始め、震災記念堂、旧安田庭園、回向院にちゃんこ料理屋さんが有って賑わっています。
 旧両国、西河岸に戻り、両国橋西詰めから上流を見ると新東京名所の東京スカイツリーが威容を誇っています。(右写真)。ここから北に行くと神田川の最下流に架かる柳橋に出ます。橋を渡ると柳橋という町で花柳界として賑わった所ですが、現在は芸者さんも絶滅して何軒かの料理屋さんを残して普通の街になってしまいました。
 平助が思うような料理屋さんは有りませんし、夜も華やいだ所はありません。神田川には屋形船がもやってあり、夜の食事付きで夕涼みに出掛けるグループが楽しそうに出船していきます。

 街の西に南北に走る国道水戸街道(江戸通り。蔵前通り)があり、その道を北に浅草を目標に歩きます。柳橋を出た所が浅草橋駅で人形屋さんが沢山並んでいます。また、造花を扱う店が多く、香りがすれば生花と間違えるほどですが、水を使っていないので直ぐ分かります。この道に過日、路面電車が走っていて、電車が来ても避けなかったら15円と言われた所です。現在はその路面電車(都電)も廃止になり、その地下に都営浅草線が走っています。
 蔵前通り、と言われるのは江戸時代幕府の御米蔵が隅田川側にあり、大変賑わった場所で、お米もお金も動いた所で、多くの金持ちが店を構えていました。現在はその櫛形の船着き場も米蔵も無く、誰も知らない間に蔵前橋で通す蔵前橋通りの交差点に出ます。ここを通り過ぎると、浅草橋からの喧騒が無くなります。この界隈はオモチャ問屋や扇子や昔懐かしい雑貨、提灯などが商われています。

 次の大きな交差点は春日通りとの交差点。右に曲がれば隅田川に架かる”厩橋”から本所、厩橋の南側に小さな街、三好町がありました。先程の交差点を左に曲がれば、落語「蔵前駕籠」で、身ぐるみ剥がす賊が潜んでいたという榧寺(かやでら)が有ります。
 次の大きな交差点は駒形橋を通る道で、手前には駒形のどぜうがあり、交差点の右先には浅草寺の観音様が示現した(川から陸に上がった)と言われるところで、ここに駒形堂が建っています。たまたま、ここで新婚さん、いえ、結婚式最中のお二人とご家族に出会いました。最近のお二人はなんだかんだといっても女性がリードしていますね。あ、いえ、女性がしっかりしています。

 次の交差点、吾妻橋の先にゴールドのウ○チのディスプレーを乗せたビルとスカイツリーが望めます。交差点の左は浅草寺に入っていく雷門と仲見世があり、その前の道は浅草広小路と云われた所です。私は道なりに真っ直ぐ行き、伝法院通りを左に入ります。仲見世を横切り右側の伝法院(でんぽういん。浅草寺の本坊で非公開)の南側に”鎮護堂”があり、その境内に幇間塚があります。毎年一回幇間衆が集まり供養を行っています。
 浅草寺本堂前に出ます。本堂から見て右側の五重塔と参道に挟まれた所が、過日、お婆さんが袋入りの豆を鳩の餌として売っていました。参拝者の頭の上や子供達の餌を待って鳩が集まっていました。現在は鳩に餌をあげないで下さい、との看板が出ていて鳩の姿は見ることが出来ませんでした。観音堂は回りを妨げる物は無いので、何回でも回ることが出来ますが、ジョギングの人は混雑した所を避けて通過するだけです。

 私も本堂を通過して浅草寺の裏側から言問(こととい)通りに出ます。
 雷おこしのゴロゴロ(5656)会館の脇を北に入って行くと浅草見番(右写真)に出ます。この2階の大広間では、落語会や芸者さんのお稽古、踊りなどの発表会で使われています。
 今活躍している幇間は、60歳代の若手を含めて6人はここに所属しています。女性も一人いるんですが、男芸者の名を返上しなければならなくなります。そして野幇間はいるのでしょうかね、野幇間まがいはいつの時代もいるのでしょうが・・・。
 その先、浅草警察署の前にある浅間神社に行きます。今、山はありませんが小高くなった境内に神殿が建っています。階段の上がり下りでも回数をこなせば、ダイエットにはなるでしょう。

 北側に進み涙橋(なみだばし)交差点から鉄道を越えると南千住の駅で、反対側には千住回向院があります。ここは処刑場小塚原があった所ですが、電車や車の騒音にかき消され、夏でも幽霊が出るスキもありません。
 先程の涙橋に戻り明治通りを東に進めば隅田川を渡す白鬚橋、その手前を右に入るとそこが橋場。過日は風光明媚な所だったのですが、駅が遠いせいかパッとした所ではありません。
 白鬚(しらひげ)橋を対岸に渡り、左に東白鬚公園を奥に入って行くと、水神社(すいじん_しゃ。隅田川神社)と木母寺が現れます。
 王子まで行かなければならないので、先を急ぎます。先程の白鬚橋を渡り、明治通りを西に、北にと道なりに進みます。王子駅前から左に飛鳥山、中の谷が音無川(石神井川)で対岸の崖上に鎮座するのが王子神社です。そこでお百度を踏んで動けなくなった平助を運んだのが谷を流れる音無川の河岸に有った一流料亭海老屋さんだったのです。現在は音無川は音無親水公園として親しまれています。残念ながら海老屋さんは現存しません。

 長い行程、お付き合いいただきご苦労様でした。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。

 厩橋際にあった「隅田川テラス周辺案内図」より

写真

 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

両国橋と柳橋
 隅田川を下る遊覧船。その前方、隅田川に架かる赤い橋が両国橋。正面の合流する川が神田川で、そこに架かるのが柳橋。その左側一帯に見える街が旧両国、柳橋の右側が柳橋(町)。

蔵前(台東区蔵前)
 ここは蔵前一丁目交差点。蔵前橋通りと江戸通りの交差点で、江戸通りを浅草方向を見ています。この通りに過日路面電車が走っていたのです。その電車を避けないと15円やるとは、なんとも酷いこと。この道を伝って、前方の浅草まで行きます。

三好町(台東区蔵前二丁目16&18辺り、厩橋西詰め南)
 次の厩橋交差点の手前にある小さな区域です。現在16番地の大部分は建設予定地で駐車場になっています。その先と、右側の建物と駐車場が元・三好町になる一画です。ホントに小さな町だったんです。残念ながらこの地には食べ物屋さんは何処にも有りません。

駒形(台東区駒形)
 駒形堂の裏が隅田川でそこに架かる水色の橋が駒形橋。駒形堂の前で人力車に乗る結婚式に行く二人。
 駒形と云えば”駒形のどぜう”でしょう。川桝の泥鰌は無いので、ここを紹介しておきます。

浅草寺鳩の豆売り場跡(浅草寺境内)
 正面浅草寺さんの右前に有った私が立っている場所が、過日鳩の餌を売っていた所です。今は、鳩に餌をやらないで下さいと看板が出ています。そのせいか鳩は何処にも居ません。

浅間神社(台東区浅草五丁目3)
 富士にある浅間さんを祀った神社で、人工の山を築いていたが、現在は2m程の高台に神殿が乗っています。で、人工の山は現存していません。

南千住(荒川区南千住)
 JR南千住駅には、JR常磐線の他、地下鉄日比谷線、つくばエクスプレスが乗り入れています。またこの地は処刑場小塚原が有ったところで、その跡地に、受刑者の回向のために回向院が建てられました。写真の背中に位置します。

橋場(はしば。台東区橋場)
 隅田川・橋場から望む白鬚橋。この後ろ側(下流)には人道橋の桜橋があり、そこには新東京名物のスカイツリーが見えます。

権現様(北区王子本町一丁目1、王子神社)
 音無川(石神井川)の北側にある神社で、地名の元になった古社です。落語「王子の狐」に出てくる王子稲荷とは違います。

海老屋・扇屋跡(北区王子本町一丁目1)
 音無親水公園脇に新扇屋ビルがあり、その2階で扇屋さんは営業をしていたが、今では1階の小さなスペースで玉子焼きだけを売っています。

吉原稲本跡(台東区千束四丁目)
 鳶の頭が三味線を弾いて遊んでいた吉原の稲本楼。何処からどう見ても区役所には見えません。(^_-) 当然吉原時代の稲本楼はありませんが、角町と云われた同じ所でホテルとして営業しています。

幇間塚(台東区浅草二丁目3・浅草寺伝法院南・鎮護堂内)
 鎮護堂(ちんごどう)は通称お狸さまと呼ばれる。幇間の別名は狸と呼ばれ、この境内に幇間物故者の供養のため、幇間有志が昭和38年塚を建立した。浅草生まれの久保田万太郎の句で、
「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」と刻まれている。

                                                                  2012年9月記

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