落語「茗荷宿」の舞台を歩く
   

 

 十代目金原亭馬生の噺、「茗荷宿」(みょうがやど)
 

 飛脚が京都と江戸の間を月に三度往復するという凄腕(足?)の者も居た。しかし、生身の人間だから間違いもあって、石につまずいて走れなくなってしまった。その上、雨も降ってきて次の宿までは行くことが困難であった。薬はあるから明日になれば治ってしまうのだがと、見回すと旅籠・茗荷屋と看板が掛かった家があった。ここ間宿(あいのしゅく)で一晩を過ごすことにした。

 真っ暗な宿の中から、気のない返事が聞こえてきた。お客だと分かりガラリと態度が変わった。奥様も同じように最初は信じられなかった。すすぎ水で足を洗うと腫れた足が出てきた。持ち合わせの薬をドンブリから出して練ってもらって足首に手ぬぐいで縛った。風呂も入らないで、食事をしてすぐに寝るから、この挟み箱を預かって欲しいと言った。重いので聞くと50両が二つ入っているという。
 飛脚は何でも食べるというので、物忘れがして100両忘れていったら良いとの思いで、屋号にちなんで茗荷をたらふく食べさせることにした。茗荷ならいくらでも生えているし、ダメで元々、食べてもらうことにした。茗荷の漬け物から出して、美味と誉められた。味噌汁の具も茗荷、甘酒の中にも茗荷が刻んで入っている、飯の中に茗荷が入った茗荷ご飯、いくら茗荷が好きでもここまで来ると・・・。でも、たらふく食べて朝を迎えた。

 「おはようございます」、「おはよう。何だか朝からポ〜っとしているんだ」、その言葉に喜ぶ親父。急いでいるから早く食事にしてくれと頼むと、茗荷の味噌汁から始まって全て茗荷料理。お客が出発だからと奥様をせき立てるとポ〜っとしている、「だって、残り物の茗荷料理、勿体ないからみんな食べちゃったから」、「お前は食べなくても良いんだ」。
 「新しいワラジも出しておきましたので、道中お気を付けて」、無事送り出した。挟み箱を忘れて。夫婦揃って喜んでいると、飛脚が戻ってきた。忘れ物の挟み箱を受け取ると一目散に走り去った。「何か忘れていった物は無いかね」、「あぁ、宿賃もらうのを忘れた」。

 


1.茗荷(みょうが)
 ショウガ科の宿根草。高さ50〜100cm。樹下に自生し、庭などに栽培。葉は広披針形でショウガに似る。夏に根元から広楕円形の花穂を出す。芳香を有し、若い花穂をみょうがの子などといい、花が付く前にこの部分を薬味・漬物として食用とする。

 日本では本州以西で各地に自生し、古くからインドや中国にも野生種はあるが、 野菜として栽培しているのは、日本だけ。熊の足からツバメの巣まで食べてしまう中国にしては食べないとは珍しい。
 通常「花みょうが」、「みょうが」と呼ばれるものが花穂で、内部には開花前の蕾が3〜12個程度存在する。そのため、この部分を「花蕾」と呼ぶ場合もある。右図(花蕾)の状態で食し、花が咲いた物はブカブカになって不味い。
 一方若芽(タケノコ状になった茎)を軟白し、弱光で薄紅色に着色させたものを「みょうがたけ」と呼ぶ。「花みょうが」は、晩夏から初秋にかけ発生し、秋を告げる風味として喜ばれ、一方「みょうがたけ」は春の食材です。

 もう少し詳しい茗荷についてのホームページが有ります。
みょうがのレシピと育て方ガイド」 http://www.myou-ga.com/ 

 「もの忘れがひどくなる」という俗説から、落語にも登場する茗荷。 むかし、
 釈迦の弟子で禺鈍第一の周到槃特(しゅり_はんどく)の塚から生えた草を鈍根草と名付けた。槃特は、自分の名も覚えられないで、その名を書き付けた物を荷(にな)って歩いたというので、名を荷う、名荷とは鈍根草のことだという。その後、名荷は茗荷になった。槃特の話はその様に伝わったが、この名荷の話は日本人の創作だという。「食べ物語源辞典」清水桂一編より

茗荷谷(みょうがだに。文京区小日向);江戸時代、ここから早稲田にかけては茗荷畑が多かったので、ついた地名が茗荷谷という。昭和41年(1966)、文京区茗荷谷町は同区小日向に組み入れられたので、行政上の町名は存在しないが、地下鉄丸ノ内線の駅名に残っています。また、商店名やマンション名に小日向より茗荷谷を被した名称が多くあります。

 「口上を忘れて戻る茗荷谷」 古川柳

 

 茗荷谷駅を中心にした高低マップ。茶色が台地、緑が低地。文京区は台地が北西の方から張り出して、南の神田川、東の上野・不忍池に落ちています。文京区はこの地図で解るように、やたら坂が多い区です。小日向は落語「真景累ケ淵」で訪ねたところで、神田川に沿って南に早稲田の地があります。


2.旅
 江戸時代には多くの庶民が神社仏閣の参拝名目で旅に出ました。それは街道が整備され庶民でも旅が出来るようになり、経済的にもそれを可能にしたのです。近くでは大山(落語「大山詣り」)、江ノ島、箱根の湯治、足を延ばして富士、伊勢参り、京大坂、四国八十八箇所巡り、等盛んに行われました。
この噺では東海道を行く飛脚の話です。

 旅の経費を考えてみましょう。江戸、中・後期で宿泊代が約200文でした。江ノ島見物だと、4泊5日の遊山で宿泊費は800文、渡船代26文、昼食代5日で100文、で合計約1000文。お土産やお茶代が入ると倍くらいの2000文が必要であった。また、一番の出費は夕食時の酒肴と遊興費、この使い方で費用の桁が違ってきた。

 「東海道五十三次之内 赤阪」部分 広重画 有名な宿の情景ですが、飛脚が泊まったのは間宿の滅多に客が来ない宿。その落差は大きいものです。

間宿(あいのしゅく);江戸時代、正規の宿駅間に設けられた旅人休憩の宿(しゅく)。宿泊は原則禁止されていました。

飛脚(ひきゃく);急用を遠くへ知らせる使いのプロ。信書・金銀・貨物などの送達を業とした者。すでに鎌倉時代に京・鎌倉間の鎌倉飛脚・六波羅飛脚などがあったが、定置的な通信機関として江戸時代に発達。継飛脚(幕府お抱え)・大名飛脚(各大名お抱え)・町飛脚(大名や商人、庶民の配送)など。町飛脚は江戸市内を配達区域としたものと、街道を走る飛脚とがいた。

  

 左;「東海道五十三次之内 平塚 縄手道」部分 広重画 藩から御用を請け負った町飛脚。
 右;「富嶽百景 暁の富士」部分 葛飾北斎画 天保6年(1835)幕府公用の継飛脚。昼夜リレーしながら走り、夜間は相方が御用と書かれた高張り提灯を掲げて走り、江戸−大坂間を4〜5日で駆け抜けた。

■三度飛脚(さんどひきゃく);江戸時代、毎月3度、定期に江戸と京都・大坂間を往復した町飛脚。3〜10日で到着したことになります。プロの中では異常なことではなく、毎回このペースで仕事をしていた。超特急便で昼夜走って2日半で走ることも出来たが、庶民が旅として歩くと半月かかった。

■挟み箱(はさみばこ);外出や大名行列に際し、具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱。また、飛脚が書状や貨幣等を入れて担いだ箱。

■すすぎ水;足を洗うための水または湯。水とは言いますが例外で、通常はお湯またはぬるま湯を使った。足元はワラジなので道中してきて汚れているので、部屋に上がるときは必ず足は洗ってから入った。どの宿でも女中さんが洗ってくれました。
ワンちゃんや猫ちゃんだって座敷に上げるときは、足を洗ったり拭いたりします。人間だったら尚更のこと。

■どんぶり;職人などが着ける腹がけの前に着いていた大きなポケット。銭、小物などを入れた。ドラえもん、なんでもポケットはその変形。そのどんぶりから小銭を計画性無く出して使うのをどんぶり勘定といい、現在でも使われています。

 

3.言葉
■50両がふたつ
100両。1000万円位。小判は50両づつ紙に包まれ封印されて流通していた。これを包み金と言った。夫婦が生唾を飲み茗荷責めにするのもうなずけます。

■100両の重さ;私にしては大金中の大金、持ったことも触ったことも無いので・・・、まぁ、冗談は別にして、天保小判100両で約1.1kgです(江戸東京博物館調べ)。入門用の一眼レフカメラぐらいの重さ、以外と重いような軽いような。




  舞台の茗荷谷を歩く


 この舞台は東海道の間宿です。私がどんなに暇人でも、茗荷が採れる間宿を探して歩くわけにも行きません。で、都内の茗荷が採れた地を訪ねます。

  地下鉄丸ノ内線「茗荷谷駅」で電車を降ります。茗荷および茗荷谷の名を被した地名(?)は駅名にしか残っていません。駅の周りは駅名にちなんで(?)、ビル名や店舗名に茗荷谷の名前が付いています。
 ちなみに、落語「井戸の茶碗」のくず屋の清兵衛さんが住んでいたところが麻布茗荷谷です。今の首都高の谷町インターで、アークヒルズがある現在のビジネス街の一等地です。どちらも、谷間の湿ったところで、住むには一等地というわけにはいきません。

 話戻って、駅の北側は地下鉄に平行した大通りの春日通りで、それに比べ南側の生活道路の細い道が今回の探訪の街です。駅前はスーパーもあり、きちんとした品ぞろえがお客を満足させるのでしょうが、その駅前の通路に出店が出ていて、そこに何と”茗荷”のパッケージが並んでいます(右写真)。「地元産だ!」(?)と声が出てしまうほどです。

 南の細い道に入っていきますが、そこが茗荷坂。左からと右側からと台地が迫り、その間を谷間のように下っていく坂道です。左の台地に登る坂が、坂ではなく急な階段になっています。買い物帰りの主婦が苦しそうに、その階段を登っていきます。
 坂が下りきったところに、右側に拓殖大学、左側に林泉寺。林泉寺には縛られ地蔵(右写真)があって、願を掛ける人は縄で地蔵を縛り、叶ったらその縄をほどきます。約半年で目のところがかすかに見えるほどグルグル巻きになってしまった地蔵です。叶わなかった人が大勢居たのでしょう。暮れには綱ほどきが行われ、新年から新しい願掛けが始まります。
 その南隣が、深光寺。ここには帰ってきた鐘と宝井馬琴の墓があります。
 また、深光寺に登る参道の入口、言い換えると拓殖大学東門の脇に茗荷が群生しています。街の由来が見えるようで楽しくなります。それと、深光寺の庫裡前にも茗荷の群生があります。

 この谷から抜けるには、急坂を息を切らせて登らなくてはなりません。地下鉄の高架橋の下を抜けて、釈迦坂や藤坂(富士山が見えたから富士坂)から春日通りに登ります。もう一度蛙坂を登って、キリシタン屋敷跡を見るのも楽しいかも知れません。
 この地区は、文教都市として先程の拓殖大学やお茶の水女子大学、跡見学園、貞静学園などがあり、その付属の学校があり、登下校の折は学生、生徒や児童が歩道を埋めています。

 茗荷に親しむ皆さん、以外と”ぽ〜〜”とした人や”物忘れの激しい”人は居ない明るい街でした。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

茗荷谷駅(文京区小日向四丁目6)
 地下鉄丸ノ内線は丘陵地帯をトンネルで、低地は高架で走り抜けています。地下鉄だからと言って、盲目的に地下に下りようとしても、駅が上に有るという事があります。この駅もビルの中にありますが、ワンフロア下がったところが駅です。南の方から高架上や開削地帯を走り抜けてきて、ここから地下に潜ります。

茗荷坂(小日向四丁目と大塚一丁目の境の坂)
 車が1台やっと通れるほどの細い道ですが、近隣の生活道路として、地域に密着しています。写真でも解るように、左側は台地が迫ってこの坂で終わっています。と言うより、台地のヘリをナゼルように坂があるのです。

拓殖大学(小日向三丁目4)
 茗荷坂を下ってくると、右側に拓殖大学があり、細い上り坂を登ると正面に出ます。両側から台地が迫りその間に坂と言うより”谷”が走っているのです。

林泉寺(小日向四丁目7)
 拓殖大学から茗荷坂に戻った所に有るお寺さんが林泉寺。同じように台地のヘリを登るように建っています。南蔵院(葛飾区東水元)と並んで有名な”縛られ地蔵”があります。南蔵院の縛られ地蔵は落語「七面堂」に有ります。

深光寺(じんこうじ=小日向四丁目9)
 山門を入るとS字型の坂道を登り本堂前に出ます。滝沢馬琴の墓が本堂左側にあります。明和4年〜嘉永元年(1767-1848)、江戸後期の著名な戯作者。”南総里見八犬伝”、”椿説弓張月”など多くの作品を残した。晩年、髪を下ろして、曲亭馬琴と号した。また、本堂前には”帰ってきた鐘”が鐘楼に下がっています。大戦の折、金属と言うことで供出されたが、終戦後無事にここに戻ってきた。

茗荷(茗荷坂の下、拓殖大学東門横)
 茗荷坂のチョッとした空間に茗荷が押しくら饅頭しながら、谷のいわれを語っています。
 この辺りは昭和41年小日向と呼ばれる前は「茗荷谷町」と呼ばれていた。茗荷谷の由来は古くから茗荷の産地で、多くの畑で茗荷を栽培していたので、里俗に呼ばれるようになった、という。

キリシタン屋敷跡(小日向一丁目24)
 江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改め役に任じ、キリスト教を厳しく取り締まった。
 この付近は宗門改め役の政重の下屋敷があったところ。正保3年(1646)屋敷内に牢屋を建てバテレンを収容し弾圧をした。享保9年(1724)火災により焼失し、以後再建されず、寛政4年(1792)廃止された。

藤寺傳明寺(小日向四丁目3)
 前面の春日通りに出る急坂を藤坂(富士坂、禿(かむろ=河童)坂)と言った。その登り口にある傳明寺を藤が美しかったので、藤寺と言われる。

                                                                  2012年8月記

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