落語「遠山政談」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「遠山政談」(とうやませいだん)によると。
 

 奉行・遠山金四郎が在職中に変わった事件があった。
 石町二丁目に越前屋という生薬屋があった。奉公人を二十何人と使って、手広く商いをして繁昌している店であったが、女中が居付かないで困っていた。半月ぐらいで、短いので2〜3日で女中が辞めていった。その訳は若い奉公人20以上が一人の女を引っ張るからで、1〜2人なら何とかなるでしょうが、全員に競争で引っ張られたらたまらない。女中もたまらず辞めていく。越前屋の主人は頭を痛め、器量の悪いのをと桂庵に頼んでいたが、美人と言ってもなかなか居ないように、選りすぐった悪いのもなかなか居なかった。
 下総の四街道の出で、”お染め”という十七になる娘を連れてきた。娘十八番茶も出端と言われるが、お染めは三つの時、疱瘡を患い治ったが顔中ヒドイあばただらけになってしまった。その上、七歳の時、部屋で遊んでいると、切ってある囲炉裏に落ち、自在鉤に吊されていたヤカンの熱湯を頭からかぶってしまった。二目と見られない顔になってしまった。それに背が低くて横に大きく転がった方が早い体格であった上に、少々頭が弱かった。主人は至れり尽くせりの娘だと、手を叩いて喜んだ。

 驚いたのは奉公人で、今朝見てびっくりしたのや、昨夜見て恐くて夜寝られない者まで出る始末。あんなお化けを置くことないと、お染めと誰も呼ばず、お化け、お化けと呼んでいた。勝手口に来た者が2〜3人目を回すというので、路地の所に救護班が待機していた。主人もこんな女中に手を出す奴は居ないだろうと安心した。

 番頭の久兵衛さんの甥っ子”佐造”は旗本の若党頭を務めていた。ちょくちょく店に顔を出していたが、お染めに目を付け、こんな女はどうであろうかと、世の中には物驚きしない男もあった。
 お染めは生まれて初めて人間らしい扱いを受けたので、夢中になり、佐造の言うことは何でも聞いた。佐造は博打を打つので、金をせびりだし、無くなると給金の前借りをさせて、それも出来なくなると着物を持ち出して金に換えた。その内、因果なことにお染めが妊(はら)んだ。それを知った主人が閑を出した。お染めは佐造に相談を持ちかけたが、国に帰れとのらりくらりと逃げるだけだった。

 佐造の友達が本郷の加賀様にいるから、そこで子供が生まれるまでやっかいになろうと言い出したが、自分は顔が知れているから入れるが、お前は入れない。荷物の俵だと言って屋敷に入るから、俵に入れとそそのかした。入れて背負ってみたが重いこと、石町を出まして神田須田町から昌平橋を渡り、明神坂を上がって、本郷三丁目、真っ直ぐ行けば加賀様のお屋敷ですが、右に曲がって御徒町に出る途中の切り通しで俵を置いて一休み。お染めは寝息を立てて寝ていた。寝たのを良いことに俵を捨てようと広小路から御徒町を抜けて右に曲がり、松永町から和泉橋にさしかかった頃には四つ半、今の夜11時頃、欄干に俵を置き一息入れて俵に声を掛けたがお染めは熟睡していた。これ幸いと俵を川の中に投げ入れた。幸か不幸か引き潮時で川の端であったのでヘドロの上に落ちた。

 そこに釣り人二人が舟で帰ってくるところだった。俵を見付けて、良い拾い物だと引き上げてみると、中の女が気が付いたと見えて「う〜〜ん」と、うなり声を上げたのでビックリ。俵を開けて中を見ると、昼見てもお化けなのに、深夜月明かりで見ると「化け物だ〜」と驚いた。水を飲ませ、話を聞くとこれこれと言う。和泉橋の大番所に届けると、憎っきは佐造と捕り方が動き出した。その頃、隅田川の間部(まなべ)河岸で佐造は俵が流れてくるのを見張っていた。そこに捕り方が来て捕縛、遠山金四郎の裁きを受けることになります。

 


 
1.石町二丁目
 石町(こくちょう)と約さず正式に言うと本石町と言います。現在の日本橋室町三丁目と四丁目を挟む道路の両側の街(室町三丁目交差点東側の街)。現在も本石町二丁目という番地はありますが、それは西側の日本銀行本店があるところで、江戸時代の場所とは少々違っています。南北に走る表通りの現中央通りは日本橋まで大店が並んでいて越後屋(現三越)もここに有り、大繁華街。

下総の四街道(よつかいどう);千葉県千葉市の北側に接する市。農業の発達した地域で落花生は有名です。しかし、現在は東京、千葉に近接しているので首都圏のベッドタウンとして発展してきた。

本郷の加賀様;石川県の加賀藩上屋敷。石高102万石、敷地10万坪。現在の東京大学の敷地。

神田須田町;千代田区神田須田町。中央通りと靖国通りが交差する須田町交差点の周辺の街。落語「大蔵次官」の中心的な町でした。

昌平橋(しょうへいばし);神田川に架かり神田淡路町から外神田に抜ける。現在の万世橋の上流に架かる。元禄4年(1691)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで昌平橋と命名した。
 右図;歌川広重画 名所江戸百景「昌平橋聖堂神田川」。中央に流れるのが神田川で、右下の欄干が昌平橋。右側の土手上の道が昌平坂、現在の外堀通りで、その右側の木立に囲まれたところが湯島聖堂。
昌平橋の変遷が見られます

明神坂;湯島聖堂(昌平黌)の北側を走る中仙道で、神田明神前の坂を言う。

上図;江戸名所図会より「湯島聖堂」。 手前の川が神田川(外堀)、奥の北側に大聖堂が描かれ、その奥の北側に(絵では見えない)右から左に上る坂道があります。その坂道が明神坂。 当然その奥に神田明神があります。

本郷三丁目;現・本郷通りと春日通りが交差する交差点。「本郷もかねやすまでが江戸の内」と言われるかねやすが有る地。この交差点を真直ぐ行くと右側に加賀様のお屋敷、右に曲がると湯島天神から御徒町。

切り通し;湯島天神の北側を通る坂道。江戸時代は道幅狭く急坂であった。
 文京区が設置したプレートには、次のように書かれています。
 「御府内備考」には「切通は天神社と根生院(今は無い)との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車(都電)が開通してゆるやかになった。

広小路;上野広小路。上野寛永寺南、黒門から御徒町松坂屋までの火除け地として道を広くとった道路。江戸で賑やかだった浅草広小路、両国広小路と、ここが三大広小路の一つ。
 右図;広重画「上野広小路」部分。手前の商家「いとう松坂屋」は、現在の松坂屋。大通りが御成街道(中央通り)で、突き当たりが上野山下、寛永寺がある上野の山です。寛永寺の部分は薄雲が立ちこめぼかしてあります。

御徒町(おかちまち);JR上野駅の南隣の御徒町駅東側周辺。徒歩で行列の供をしたり警固にあたったりする侍が多く、特に、江戸時代、徒組に属する者が住んでいた、その屋敷町。

松永町(まつながちょう);JR御徒町の南隣・秋葉原駅東、昭和通りの西側に細長く接する神田松永町。

和泉橋(いずみばし);神田川に架かり昭和通りを渡す。この和泉橋の北に藤堂和泉守高虎の屋敷地があり、橋の名はこれに由来するといわれる。 現在、屋敷跡の地を神田和泉町といいます。神田川上流(西)にJR鉄道橋、万世橋、昌平橋の順に架橋されています。
昌平橋、和泉橋間600m位しかありませんが、佐造は坂もある道をよくも大回りしてきたものだと感心します。

間部河岸(まなべがし);隅田川に面した両国橋の下流旧矢ノ倉町、現在の東日本橋一丁目・日本橋中学校南の河岸。俗に大川端とも言われた。


2.遠山金四郎(とおやまきんしろう)
【生没】寛政5年〜安政2年(1793〜1855)。享年六十三歳。
【伝説・歴史】左衛門尉。名は景元。隠居して帰雲と号した。家系は以下のように複雑である。旗本遠山景好に子無く、景晋を養子として家督、その後景好に実子景善が生まれた。景晋は、寛政5年8月に出生した景元を届け出ず、寛政6年に先に生まれた景善を養子として家督を継がせた。景善は享和3年(1803)景元を養子とし、後に生まれた実子景寿を旗本堀田家へ養子に出した。実父景晋の代から景元は通称を金四郎といい、知行は千石。父景晋は、寛政六年の学問吟味で名を現し、幕末の外交政策に深く関わるなど、異例の出世を遂げた能吏で、知行地下総国夷隅郡では、年貢米免除などの政策のため領民に慕われ、「遠山講」と称して崇敬し続けられている。
 景元の履歴は、文政8年(1825)新規召出、西丸小納戸。頭取格・頭取・小普請奉行・作事奉行・勘定奉行を経て、天保11年(1840)3月北町奉行、天保14年2月大目付となり、弘化2年(1845)3月再び町奉行(南)、嘉永5年(1852)3月24日辞任。安政2年(1855)2月29日没。
 北町奉行時代が天保の改革と重なり、市中取締などに大きな功績を残した。寄席や芝居に対する政策では、水野等の強硬な姿勢に対し、芸能の存続を訴えた。裁判官としても有能で、両板倉・根岸肥前守・大岡越前守等と並び称された。佐久間長敬「江戸町奉行事跡問答」によれば、天保12年の上聴裁判の折に褒賞を与えられ、将軍も、吟味の様子を、利害の趣など行届き、奉行たるものはこうあるべきだと賞賛したという。長敬は南町奉行時代に景元の裁きを実見し、毛太く丸顔、赤い顔の老人で、声が高く、威儀の整った、老練の役人であったと語り、彫り物をしていたとも述べている。しかし、家族談によると彫り物はしていなかったという。
勉誠社 【参考文献】藤田覚「遠山金四郎の時代」(校倉書房、平成四年)(小二田誠二)

 墓所は落語「二番煎じ」で訪れた、明暦大火供養塔がある本妙寺(豊島区巣鴨5−35)にあります。写真をクリックすると大きくなります。

 実父景晋は昌平黌(しょうへいこう)で大田南畝と成績を争った秀才で、長崎奉行から作事奉行、勘定奉行を歴任している。遠山金四郎は父親の血を濃く受け継いでいるのでしょう。また、裁判のやり方などを伝授されていたかも知れません。二代続いた名裁判官の家庭だったのです。
 
遠山政談(とおやませいだん)
  天保時代の町奉行、遠山金四郎景元を主人公とした講談などの総称。
【伝説・歴史】旗本、遠山景元は、天保11年(1840)から天保14年まで北町奉行、大目付をはさんで弘化2年(1845)から嘉永5年(1852)まで、南町奉行を勤めた。このうち北町奉行時代は、老中水野忠邦が天保の改革を行ったときで、南町奉行の鳥居耀蔵とも重なっている。平生遊び人の金さんとして市中を徘徊し、白洲で悪人と対決する時、片肌脱ぎで啖呵を切る、いわゆる刺青奉行の伝説に関しては、現在のところ、当然ながら江戸時代の資料や文芸作品が見つかっていない。
 実在の景元が刺青をしていたという証言は、幕末の軍艦奉行として名高い木村芥舟『黄梁一夢』(明治16年)の、「以其左腕黥花紋」が最も早く、ついでこれを引く角田音吉『水野越前守』、中根香亭「帰雲子伝」(ともに明治26年)と続くが、明治25年頃採録されたと考えられる、佐久間長敬の『江戸町奉行事跡問答』にも、「身体にほりものと唱墨を入れ」と見える。下情に通じ、放蕩無頼であったことも、佐久間長敬の、「書生の間はどのような場所へも立入り、よく下情を探索して後年立身の心掛け厚く、学力世才に長じ、有為の人物だったが、外見からは放蕩者で身持悪しく、身体にほりものをし、武家の鳶人足や大部屋、中間にまで交際し、遊び歩いたなどという評判を受けた」などの証言を始め、明治時代から伝えられている。裁判上手であったこともこれらの記事に見え、上聴裁判で褒賞も得ている。佐久間長敬は、晩年の景元に接していたから、これらの伝説は強ち根拠のないことではない。実際の景元の関与した裁きについては、「藤岡屋日記」などに若干の記録がある。
 金さん伝説が巷間に流布したのは、明治20年代のようで、竹柴其水作「遠山桜天保日記」(明治26年明治座)など、景元を主人公とした芝居や講談が上演されはじめてからです。
勉誠社 【参考文献】藤田覚「遠山金四郎の時代」(校倉書房、平成四年)(小二田誠二)

  

写真;左、北町奉行所のあった八重洲口大丸口と、右側はその銘板。(クリックすると大きくなります)

北町奉行所;現在の東京駅八重洲口北辺りにあった奉行所で、南町奉行所(数寄屋橋北)と対になって仕事をこなしていた。場所の目印として、八重洲口北側の大丸入口の外側に銘板が埋め込まれています。
 遠山金四郎は遠山左衛門尉景元といい、北町奉行として有名ですが、南町奉行としての在任期間の方が長い。北は39ヶ月、南は倍以上の86ヶ月、通算123ヶ月(10年3ヶ月)であった。この数字は奉行の延べ人数、99人いたが再任された者が居たので、総人数は91人で、平均在任期間は79ヶ月(6年7ヶ月)、この数字からしても長い方でした。在任最短記録は松浦越中守の5日、最長は神尾備前守の281ヶ月(約20年)です。ちなみに大岡越前は彼より早い就任で14代目、19年半務めた。

 

3.言葉 
生薬屋(きぐすりや);薬草のまだ刻まず、調剤してない漢方薬。しょうやく。その生薬を売る店。漢方薬の店。 転じて、売薬店。薬舗。薬種屋。
 右図;江戸名所図会より「本町薬種店」。 絵をクリックすると大きくなります。石町の店でもこの様な雰囲気だったのでしょう。

桂庵(けいあん);私設職業紹介所。奉公人宿。人宿。就職口が見付かるまで宿泊させる周旋屋。

奉公人;主家に仕える従者。召し使われる人。やとわれにん。

勝手口;台所の出入口。台所に通ずる入口。

旗本の若党;旗本は江戸時代、将軍直属の家臣のうち、知行高が1万石未満の直参で御目見以上の格式のあった者。御目見以下を御家人という。若党は若い武士。武士の従者。近世には武家奉公人の最上位で、戦闘に参加したが馬に乗る資格のない軽輩を指す。

大番所;警備の役人が詰めている大型の番所。和泉橋の際にはなく、隣(上流)の筋違い橋(現・万世橋)に筋違い御門と大番所が有った。

引き潮時;江戸市中を流れる隅田川は、東京(江戸)湾の干満の影響を大きく受けていた。それに合流する神田川もその影響を受けて、干潮時は水位を下げていた。

 

4.似た話
『事々録』(著者不詳)にあり、それによると、

 弘化4年(1847)9月初めのこと。本所あたりにある武家屋敷の下男が、下女とねんごろになった。やがて、女は妊娠した。下女は、連れて逃げてくれと迫る。進退窮まった下男は一計を案じた。「お屋敷の門は出入りが厳しいから、おめえと一緒に出ては怪しまれる。ちょっとの間だ俵の中に入ってくれ。俺が肩にかついで、届け物をするようなふりをして、門を抜け出るから」、ことば巧みにもちかけ、日が暮れてから、下女を俵のなかにもぐりこませた。下男は俵をかついで外に出るや、歩いて上野下谷あたりまで来た。
 すでにあたりは真っ暗である。和泉橋まで来るや、下男は橋の上から俵を神田川に投げ落とした。そのまま、走り去った。たまたま、和泉橋の下に舟を出し、夜釣りをしていた人がいた。ザブーンと水音がしたかと思うや、俵が浮いたり沈んだりしている。俵のなかから手足が出て、「助けてーッ」と叫んでいた。釣りをしていた人は驚き、船頭に命じて舟を近づけさせ、俵を引きあげ、下女を救った。これで、下男の悪だくみはすべて明らかになり、町奉行所に召し取られた。

 俵に人を詰めて捨てると言うこの事件を元に四代目の圓生が作った噺とも言われる。

 



 舞台の俵を担いだ道を歩く

  私も石町二丁目から出発して、和泉橋から間部河岸まで歩きます。重いおもい俵を担がず歩くのですが、歩き通せるか心配です。あ、大丈夫、夜の道ではなく昼間の明るい時間ですから。

 石町二丁目は、当時の商業の中心地、繁華街で有名老舗や大手の会社が集まっています。日本橋に抜ける中央通り周辺は、三井不動産が中心になって再開発を進め高層ビル化が進んでいます。この一画に落語「百川」の百川楼が明治初期までありましたが、現在はその近くにあった福徳稲荷が新しい境内を取得して日本橋地区の憩いの場所として再建されます。

 歩き始めます。中央通りを北進して神田駅のガードを抜けて、神田須田町に出ます。交差点の手前から進行方向が二叉に分かれていますが、本線は右側で万世橋を渡って、秋葉原電気街、御徒町の広小路から上野駅に出ます。この噺の道順では、左(直進)方向に入って行くと元交通博物館跡は高層ビルの建設中です。JRのレンガ作りの高架にそって行くと昌平橋に出ます。

 神田川に架かる昌平橋を渡って右側の秋葉原電気街を見ながら、と言っても電気街はオタクの街に大変身中です。次の交差点、神田明神下の信号を左に曲がり、坂を上がっていきます。

 この坂を明神坂と言って、左に湯島聖堂、坂を登り切った右側に神田明神があります。江戸三大祭りの一つ、神田祭は勇壮・盛大で、この坂を埋め尽くしますが、今は自動車以外私を含めてわずかな人が歩いているだけです。道なりに真っ直ぐ行きます。この道路は本郷通りと言い、国道17号線・中仙道です。白山通りと名を変えて板橋を抜けて戸田橋から大宮に向かいます。

 まもなく春日通りとの交差点・本郷三丁目に出ます。左手前が江戸のキワ、かねやすがあります。左に曲がると坂を下って春日町の交差点、後楽園が名を変えて久しいのですが私はなじめずドームと直ぐに出てきません。ドーム球場は巨人軍の本拠地です。もどって真っ直ぐ行くと右側に加賀百万石のお屋敷があったところです。

 本郷の加賀様は広大な敷地を持っていたので、その跡地が東京大学となりました。現在も当時を偲ばす赤門が残っていて東大のシンボル門です。赤門は文政10年(1827)藩主前田齋泰に嫁いだ十一代徳川家斉の息女容姫のために建てられた御守殿門で、重要文化財です。
 夏目漱石の三四郎の舞台になった三四郎池や、発掘された土器が弥生(町)だったので、地名をとって弥生土器と命名され、弥生時代の原点がここで見付かったことや、天皇陛下が治療を受けられた東大病院等々数え上げたら切りがありません。奥の東側は根津神社や不忍池が有ります。

 もとの本郷三丁目交差点に戻って俵を背負った佐造にあわせ春日通りを右(東)に曲がります。左手に本郷消防署、本富士警察署に並んで、東大構内にバスも入っていく竜岡門があります。道が曲がっているので正面に湯島天神が見えます。

 道は天神の北側をなめるように下っていきますが、この坂を切り通しと言いました。切り通しの北(左)側に湯島切通町があり、その坂道が町名になるほど急で名が知れていました。現在の広い春日通りは後年通されたものですから、当時の道は坂を下りきったところで、北側の不忍池沿いに進む池之端通りと南に並行して走る湯島天神裏門坂通りの2本に別れます。北側に行けば不忍池で俵を捨てれば良いし(落語「臆病源兵衛」)、南に道を取れば神田川に近道です。
 右写真;「湯島天神男坂から見る広小路に抜ける道」クリックすると大きくなります。

 その近道を行くと上野広小路の南端にある交差点、渡ると松坂屋の本館と新館の間の道になります。

 松坂屋を抜けると目の前はJR御徒町駅南口です。ガードを抜けると(右写真、クリックすると大きくなります)宝石、貴金属、輸入雑貨、食べ物屋など雑多で活気のある御徒町ですが、江戸時代は御徒屋敷が連なっていた屋敷町でした。昭和通りに出て右に曲がります。

 上部を首都高速が走る広い昭和通りを秋葉原駅に向かって南に向かいます。道の中程で松永町になります。言葉に出てくるくらいの町名ですが、繁華街の一部で、秋葉原電気街が近いのを予感させます。特に変わった様子もない普通の街並みです。

 総武線の高いガード下にJR秋葉原駅と地下鉄日比谷線の秋葉原駅入口があります。越えた先の神田川に架かる橋が、この噺のポイントになる和泉橋です。橋は度々の火災で焼け落ち、明治25年(1892)に初めて鉄橋になり、大正5年(1916)に架け替えられましたが大正の関東大震災で被災し、その時昭和通りを拡張したのにともない、昭和2年(1927)に帝都復興事業の一環として拡張されました。長さ35.8m、巾44mの長さより幅の広い橋になりました。川もしゅんせつされヘドロの川底はありませんし、両側の土手部分は切り立った刑務所のコンクリート塀のようで、美観より水を流すだけに力点が置かれています。
 神田川を下ると、美倉橋、左衛門橋、そして毎回出てくる浅草橋、そして柳橋を過ぎて隅田川に合流します。合流したところが両国橋の直ぐ上流で、ここで3回まわって浅草に向かう徳さんの舟にお別れして・・・、あらら、落語船徳になってしまいました。話戻して、両国橋をくぐって右岸の所が間部河岸と言われたところです。

 

地図

 

 
  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

 

 

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

石町二丁目(日本橋室町三丁目と四丁目を挟む道路の両側の街)
 江戸通り(6号線、水戸街道)と中央通りの交差点、室町三丁目交差点の東側の街。この交差点を北に行くと、目的の須田町から本郷に行けます。また、反対方向は中央通りですから、街道の起点日本橋です。写真はこの交差点から北方向見ていますから、今川橋の先、正面に神田駅ガードが遠望できます。

神田須田町(千代田区神田須田町)
 室町の交差点を背に中央通りを歩き始めて、神田駅をくぐって須田町の交差点に出ます。写真のY路地を右に入って行くと本線の中央通りで、万世橋を渡り秋葉原から上野に出ます。交差点、左に直進すると神田川に接しながら、下記の昌平橋に出ます。

昌平橋(神田川に架かり神田淡路町から外神田に抜ける)
 秋葉原電気街の南西の端に位置し、上流には総武線神田川橋梁と聖(ひじり)橋、下流には万世橋が架かる。 神田川は江戸城から見て外堀ですから、その外堀通りを渡し、外堀通りは堀に沿って左に曲がります。橋の中央は車道専用で、その両側に歩行者専用の橋が架かっています。写真の高架橋を渡っているのがJR総武線、その先にJR御茶ノ水駅があります。

明神坂(神田明神前の坂)
 この写真の交差点は明神下交差点といい、道路標示にもあるように日本橋から2kmです。ここから上り坂になって神田明神の入口で最頂部になります。登り始めると左に湯島聖堂、その長い塀が続き
、登り切ったところの右側に神田明神があります。

本郷三丁目(本郷通りと春日通りが交差する交差点角の街。)
 中仙道を右に道なりに曲がって、その先に現れる交差点が本郷三丁目です。左に曲がると坂を下って後楽園。真っ直ぐ行くと右に加賀様の屋敷。右に曲がると御徒町。この交差点までが江戸の内です。

本郷の加賀様(石川県の加賀藩上屋敷。現在の東京大学の敷地。)
 先程の本郷三丁目交差点から真っ直ぐ来ると、直ぐ右側に加賀様の屋敷跡が現れます。この屋敷跡が東京大学の構内です。その入口の一つが、写真の赤門。

切り通し(湯島天神の北側を通る坂道)
 本郷三丁目交差点を右に曲がった佐造は、この坂道を俵を背負って下ることになります。写真で言うと左に湯島天神、その先が本郷三丁目交差点です。坂道を下ると左手に不忍池が現れます。

広小路(上野広小路)
 現在に道を不忍池を左におきながら進むと上野広小路交差点に出ます。写真正面奥が上野公園の小高い山?になっています。

御徒町(JR上野駅の南隣の御徒町駅東側周辺)
 広小路を横切って現在の御徒町駅(写真)を通り越して昭和通りに出ます。この辺り一帯が御徒組の屋敷が並んでいたところで、現在はその面影は微塵もありません。

松永町(JR秋葉原駅東、昭和通りの西側に細長く接する神田松永町)
 昭和通りに接するこの街は秋葉原の電気街の外側になるのでしょうか。ここにも日本橋から2kmの標柱が建っています。進行方向に秋葉原駅があります。

和泉橋(神田川に架かり昭和通りを渡す)
 神田川に架かる橋ですが、橋の長さよりも巾の方が広いという交通量の多い橋です。上部には首都高が走っています。南には柳原から馬喰町、北には秋葉原駅を過ぎて上野から三ノ輪に至ります。夜も交通量が激しいので、物を捨てるという行為は不可能でしょうし、整備された川ですからヘドロもありません。

間部河岸(隅田川に面した両国橋の下流旧矢ノ倉町、現在の東日本橋一丁目日本橋中学校南の河岸)
 両国橋のすぐ下流から見た対岸の間部河岸です。対岸の右端が日本橋中学校。その左(南)に薬研堀に架かる元柳橋がありました。そこから、写真左、首都高の赤い橋辺りまでを間部河岸と言いました。

北町奉行所跡(東京駅八重洲口北・大丸)
 東京駅八重洲口北側にある高層ビルの低層階に大丸が入っています。写真の右側です。そこから新幹線のホーム下まで北町奉行所が有りました。現在では東京駅の一部に取り込まれてしまいました。

南町奉行所跡(有楽町駅前マリオン際)
 有楽町駅ホームから覗いています。正面の大きな二つのビルが、商業ビルのマリオン。手前の商業施設イトシア。このイトシアと新幹線が駆け抜ける辺りに南町奉行所が有りました。大岡越前も遠山金四郎もまさか自分の役所の上を新幹線が通るなんて夢にも思わなかったでしょう。

                                                      2012年6月記

次のページへ    落語のホームページへ戻る

 

 

 

 

 

広告 [PR]  再就職支援 冷え対策 わけあり商品 無料レンタルサーバー