落語「羽織の遊び」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「羽織の遊び」(はおりのあそび)によると。

 

 

 遊びに行きたい連中が集まったが、遊びにと言っても裏の公園にブランコ乗りに行くのではない。吉原だから金がかかり、行きたいのに金が無い。スポンサーに伊勢屋の若旦那が候補に挙がったが、キザでイヤだというが。

 そこに伊勢屋の若旦那が通りかかった。「若旦那よってらっしゃいよ」、「こんつわ」、「ま、一服なさいよ」、「ちょと、いつふくやるかね」。座布団を出して下にも置かない体制を敷いた。「女湯では大評判」だと持ち上げ、「女の子がほっておかない顔だよ」と二の矢を放ち「昨夜はご自宅でお休みではないでしょ」と持ち上げ、「昨夜はロウに行きました」、「若旦那は牢に行ったんだって、小菅ですか」、「ロウとは青楼のことで、廓(くるわ)で遊んだ」。
 「どんな具合でした」、「昨夜2時半頃、婦人が起き上がって『そんなに眠いのは前の晩に夜通し起きていたからでしょ』と、カンザシ抜いて私の鼻の中に入れかき回した。痛かった」、「それは痛かっただろう」、「それから3時頃には、みぞおちのところを肘でグリグリとされたが、これも痛かった」、「急所だね」、「夜の明ける頃に、喉笛に」、「化け物だね」。
 「そんなにモテるところを見てみたいもんだ。お供させて下さいよ」と、ねだった。そのかわり我々は芸人が揃っているので退屈させない。しゃっちょこだちや鼻からうどんを食う。「あまり良い芸では無いな。私は一中ですな」、「越中ですか。昔はみんな締めたんだが最近は・・・」、「越中ふんどしではなく、一中で河東を知っていますか」、「加藤さんなら床屋の親父です」。
 「せっかくだからご同伴を願うか」、「ご同伴は落っこどしちゃった」、「品物ではなく、一緒に行くことで・・・」、「ではお願いします」、「今回は生花の朋友と言うことですから羽織が無ければいけません」。

 と言うことで、まちまちの羽織を着込んで集まった。熊だけは無いので勘弁してくれと頼んだが、ダメだときっぱりと断られた。

 

 あわてた熊は差配のところに借りに行ったが、あいにく出掛けて留守であった。「出掛けたのなら羽織を着ていったでしょ。それではもう、羽織は無いでしょ」、奥様「失礼ね。他にも何枚か有るわよ」。「では、見せてください。へ〜、何枚も有るんですね。これは紋付きで、紋はウワバミですね」、「そんな紋は無いよ。カタバミだよ」、「チョッと掛けさせてください。・・・紋付きはダメだ。落語家みたいで。これは、」、「結城だよ」、「さっき仲間が着てたやつだ。アッシが着てどうです」、「職人には嫌みが無くて良いよ」、「どうだい」、「案外粋になるね。家の人と同じでぴったり似合うよ」、「さようなら」、「おいおい、貸すとも何とも言っていないよ」、「貸してください。今夜、女郎(じょうろ)買いに吉原に行くんで、私だけ無いと行けないんです。一晩だから」、「ダメだよ。脱いで。吉原に行ったと言えば私が叱られる。祝儀不祝儀なら貸さないでもない」、「そう不祝儀です」、「誰が死んだんだね」、「あの〜、あの・・・、小間物屋の藤兵衛さん」、「いつ?」、「明け方」、「おかしいね。先程、荷を背負って家の前を通ったよ」、「しょうがない爺(じじい)だな。死んだことを忘れたんだな」、「誰なんだい」、「間違えちゃった。爺でなく、婆(ばばあ)だ。長屋の糊屋の婆ですよ」、「大きな声出すんじゃないよ。今、二階で仕事をしているよ」、「えぇ、二階で」、「ホントは誰が死んだんだよ」、
「その内、誰かが死にましょう」。ヒドいヤツが居るもんです。

 


 


1.小菅拘置所
(葛飾区小菅1−35)

  小菅は東京都葛飾区西部の地名。明治10年(1877)以来、小菅監獄(現、東京拘置所)が置かれた所。
 
 監獄→刑務所→拘置所と変わり、今は小菅刑務所とは言いません。刑事被告人を約3000名収容する施設で、日本最大の規模です。 あまりにも大きな施設なので、近くでは全景が見られません。出入り口は一ヶ所、堤防の様な塀の一部を切り抜いた城門のような殺風景な入口で部外者立ち入り禁止、撮影禁止の札が下がっていましたが、現在は病院や役所の入口みたいに垢抜けした感じに変身。
 2003年、中央管理棟・南収容棟が完成し、最新設備を持っています。屋上中央にヘリポートを持ち、地上12階、地下2階、高さ50mで中央部の中央管理棟と南北に両V字形に伸びる北収容棟、南収容棟がつながっています。約八万平方メイトルの延床面積。南北収用棟の屋上は収容者用の各運動場があります。

吉原(よしわら);江戸の遊郭。元和3年(1617)市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町に集めたのに始まる。明暦の大火後、千束日本堤下(現在の台東区千束)に移し、新吉原と称した。北里・北州・北郭などとも呼ばれた幕府公認の遊女屋街。昭和33年3月売春防止法により遊郭は消滅。
 吉原は文化の発信地であった。着物、髪型、化粧、言葉、芸者、幇間、四季のイベント、作法、料理、客の風俗、等々多岐にわたって江戸の流行をになっていた。花魁はスターであって、あこがれの的であった。その為、言葉にも吉原が付く言葉が多く残った。

よしわら‐かご【吉原駕籠】吉原遊郭へ通う遊客を乗せて往来した町駕籠。
よしわら‐ぐるい【吉原狂い】 吉原の女郎買いに夢中になること。また、その人。
よしわら‐ことば【吉原言葉】 江戸吉原の遊女などが奴詞(ヤツココトバ)をまねて用いた特殊な言葉。さとことば。ありんすことば。
よしわら‐さいけん【吉原細見】妓楼や遊女の名などを明細に記した江戸吉原の案内書。享保(1716〜1736)年間に初めて作られ、毎年刊行された。吉原細見。
よしわら‐すずめ【吉原雀】吉原の遊郭にしばしば往来して、その内情に詳しい人。また、吉原の素見客。
よしわら‐にわか【吉原俄】江戸吉原で行われた即興劇。
よしわら‐ようじ【吉原楊枝】 房の長い歯磨楊枝。吉原で用いられたのでいう。
広辞苑より

 

 

2.差配(さはい)
 所有主にかわって貸家・貸地などを管理すること。また、その人。差配人。大家。家守。
 「大家は親も同然、店子(たなご=借家人)は子も同然」と言れるように長屋の住人は一体感を持って暮らしていた。
 その中心的存在が差配(大家)であった。大家は株を持たないとその職に就けなかった。長屋の管理人であると同時に行政の代行までした。その為、大家の一存で店立て(追い出し=部屋の明け渡し)が出来た。
 大家と店子との関係を示した図が、上図です。(深川江戸資料館の資料による)

 大家の仕事として、大家は家守ともいい、家賃を取り立てることや、長屋を護ることは当然として、町役と言われ店子に対する以下の公私にわたる世話もあった。
1.土地や家屋の管理(賃借、修理、家賃の取り立て)
2.長屋内の出生、婚姻、死亡、勘当の届け出等
3.親子、夫婦喧嘩の仲裁、防火防災、警防等
4.犯罪人の監視、迷子・捨て子の取り扱い
5.奉行所への連絡・弁護人、お触れの伝達など

 

 家賃の相場は長屋によってまちまちなのは現在と同じですが、だいたい1ヶ月300文から500文が相場でした。なかには300文以下や、月極では払えない人用に8〜12文の日払いもありました。
 1ヶ月の収入が例えば1両(4千文)とすれば、12%位が家賃だったことになります。



3.言葉
■青楼
(せいろう);揚屋。女郎屋。妓楼。江戸では官許の吉原を私娼街と区別していう場合が多かった。

 

(くるわ);城廓と同じように周りを堀で囲まれた地帯。堀で囲まれた遊女屋の集まっている所。遊郭。遊里。東京では吉原。

 

カンザシ抜いて ;遊女は床に入るときはカンザシは頭から抜いていた。あんな長いもの差していたら、自分の頭を刺してしまいます。

 

しゃっちょこだち(鯱立ち);「しゃちほこだち」の転。逆立ち。

 

一中(いっちゅう);【一中節】浄瑠璃の流派の一。延宝(1673〜1681)の頃、京都の初世都一中の創始。早くから江戸にも伝わり、天明(1781〜1789)の頃以降は吉原を中心に伝承。曲風は渋く温雅で、伝統的に上品な浄瑠璃と見なされている。

 

越中(えっちゅう);【越中褌】(細川越中守忠興の始めたものという) 長さ1m程の小幅の布に紐をつけたふんどし。

 

河東(かとう);河東節の略。浄瑠璃の流派の一。1717年(享保2)に江戸の初世十寸見河東(マスミカトウ)が半太夫節から分派独立して創始。主に座敷芸として伝承。曲風は生粋の江戸風で優美華麗。代表曲「松の内」「水調子」「助六」。

 

羽織(はおり);長着の上におおい着る、襟を折った短い衣。

 

紋付き(もんつき);紋所を染めぬいた衣服。和装の礼服とされる。一つ紋・三つ紋・五つ紋などがある。

 

ウワバミ;【蟒蛇】(ハミはヘミ・ヘビと同源) 大蛇。特に熱帯産のニシキヘビ・王蛇などを指す。

 

カタバミ;紋所の名。カタバミの葉を図案化したもの。長宗我部・酒井氏などが家紋として使用。
ウワバミとカタバミは言葉は似てても大違い。

 

結城(ゆうき);結城紬の略。
 【結城紬】(ゆうきつむぎ);木藍で染めた細い紬糸で織り地質堅牢。絣(カスリ)または縞織。茨城県・栃木県を主な生産の場とする絹織物。単に結城ともいう。国の重要無形文化財指定品も有る。近現代の技術革新による細かい縞・絣を特色とした最高級品が主流。元来は木綿のように堅くて丈夫な織物であったが、絣の精緻化に伴い糸が細くなってきたため、現在は「軽くて柔らかい」と形容されることが多い。
 紬は丈夫なことから古くから日常の衣料や野良着として用いられた。このことから材質が絹であっても正装に用いてはならないとされ、外出着若しくはお洒落着として用いられることが多いが、近年では略正装程度であれば用いる場合がある。
 江戸期に贅沢禁止令が出された折に高価な絹物を着ることが禁止された。しかし富裕な町人たちは絹を着ることを諦めずに「遠目からは木綿に見える」ということで工夫され、絹であるのに木綿と言い張って着ることができるようになると、好んで着るようになった、とも言われる。

 

■祝儀不祝儀 ;祝儀は結婚式などのお祝い事、吉事。不祝儀は縁起の良くないこと、葬式など。凶事。

 

広辞苑より
 

 


 

 舞台の小菅と吉原を歩く

 

 (スイマセン地元の方には)小菅と言えば拘置所と決まっています。そのぐらい有名な施設です。2年前に行ったときは・・・、ええ?当然そこに収容されていたのではなく、落語「ぜんざい公社」の取材で訪れた時です。改修工事が進んでいて、外からは工事現場の鉄板の塀が続いていて、建物の様子も見極めることが出来ず、旧来からあったコンクリートの高い壁もあって、さも刑務所という感じでした。が、今はそれも無くなって背丈ほどのフェンスに囲まれているだけです。面会に訪れる人達も重苦しい雰囲気から開放されて入口をくぐることが出来るでしょう。私もカメラを持って建物の面会用玄関まで行きましたが、ガードマンも居ず出入り自由な感じですが、後でよく見たら至る所に警備用のカメラが設置されています。かえって、霞ヶ関の法務省や裁判所の方が警備が厳重で、一般人を寄せ付けない体制になっています。
 建物前庭から見る、差入屋が映画のシーンではありませんが、旧来のたたずまいで営業を続けています。

 

 小菅とはがらっと雰囲気が違う吉原です。何回か訪れた地ですが、外から見る吉原は煌びやかに飾り飾られた店が並んでいますが、さびれた街区のようにお客さんは見当たりません。昼の太陽が真上にある時間ではやむおえないのかもしれません。でも店先には「早朝サービス」の看板もありますし、どの店も入口にはキチッと背広を着込んだ客引きが勧誘をしています。聞くと、吉原は交通機関の駅からは離れているので、最寄りの駅から電話をすると店の車が迎えに来てくれます。でも、初会のお客さんでは無理で、お馴染みさんにならないと店も電話番号も分かりません。私も今度来るときは取材費を潤沢にもらって中から取材をしたいものです。
 吉原の奥、旧京町一.二丁目はマンションが多く建ち並び、大門(おおもん)寄りに歓楽街は集中しています。旧吉原の地は周りを堀(お歯黒どぶ)で囲まれていましたが、現在は全く無く道路に変身しています。ですから廓(堀で囲まれた一帯)の雰囲気はなく、全ての道は外部に接しています。仲之町の突き当たり水道尻(すいどうじり・みとじり)もそのまま外部に抜けて、右側には吉原神社、その先左側には花園公園があり、その中には吉原弁財天が祀られています。その先は縁起物の熊手を売る、お酉様で有名な鷲(おおとり)神社があります。

 

地図

 

 

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写真

 

 

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拘置所葛飾区小菅1−35)
 拘置所全景。2年前に訪れたときは工事中で、無粋なコンクリート塀があって、その一部をくり抜いたのが、正面ゲートに至る坂道でした。今は金網のフェンスで囲まれていて拘置所だとは分からない雰囲気です。こんな金網で囚人が脱獄しはしないかと思ったら、ず〜っと奥には高いコンクリートの塀がありました。

拘置所(葛飾区小菅1−35)
 拘置所正面。建物と道路を挟んだ先には小さな公園があって、そこには桜が満開です。建物いえ、施設とは不釣り合いな光景です。一般の人でもフェンスの中に入っていくことは出来ますが、わざわざ入って行くには気が重くなる施設です。やはり外の世界から見る施設です。

吉原仲之町(台東区千束三・四丁目の内)
 大門(おおもん)跡を通り越して、真っ直ぐ延びる道が仲之町。今と違って道に町名が付いていて、そこに面した家々がその町になります。大門を入って、吉原の奥を見ています。

吉原江戸町一丁目
 上記の大門を抜けて最初の信号を右に曲がると、江戸町一丁目。過日の遊廓は当然ありませんが、ソープランド街として賑わっていますが、お客さんは来るのでしょうか。写真の中にもいないのですが・・・。

吉原江戸町二丁目
 上記の大門を抜けて最初の信号を今度は左に曲がると、江戸町二丁目。

 

                                                        2012年5月記

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