三遊亭円生の噺、「一つ穴」(ひとつあな)によると。
落語「権助提灯」や「権助魚」の前半に良く似た噺です。前半を飛ばして、この噺のように中段から入る演じ方もあります。「悋気の独楽」では権助ではなく小僧が付いて行きますが、ご妾宅でお土産に独楽をもらいます。
柳橋は神田川が隅田川に流人する河口部に位置する橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、元禄10年(1697)に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、「柳橋川へ蒲団をほうり込み」と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。明治20年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1927)に完成しました。
3.言葉
■灰神楽(はいかぐら);火気のある灰の中に、湯・水などをこぼしたとき、灰の舞いあがること。
■皿小鉢(さらこばち);皿や小さな鉢。台所の瀬戸物類の総称。
■名主様(なぬしさま);(村名主) 江戸時代、郡代・代官の支配を受け、または大庄屋の下で一村内の民政を司どった役人。身分は百姓。主として関東地方での称で、関西では庄屋といい、北陸・東北では肝煎(キモイリ)といった。 舞台の柳橋を歩く
柳橋に大津屋さんの半兵衛さんの妾宅を探しに出掛けます。
現在の柳橋は南側の京葉道路の両国橋西詰め交差点を北に渡ると、柳橋が見える道に接続しています。南から北に行くと2〜3軒先には神田川の流れを見ることが出来ます。実際はコンクリートの土手があって川面を見ることが出来ませんが、橋まで来と右側には隅田川と両国橋、北側にはJR総武線の鉄橋が見えます。左側にはコンクリートの土手にへばりついた小さな船宿が何軒も有り、その川面には遊覧船の屋形船がもやってあります。その先が上流ですが、柳橋の上流には浅草橋が架かっています。ここまでの北側、すなわち、川向こうが柳橋街で、明治から昭和中頃までは花柳界として艶っぽい情感を醸した街でしたが、現在はその良さが無くなり、極普通のオフィスビル街とマンション街になっています。
柳橋を渡り、柳橋(町)に入ります。橋を渡った右側には隅田川に面した“亀清”こと料亭・亀清楼が有ります。この亀清楼も上層部はマンションになったビルに変身しています。昭和からの二階建て日本家屋の料亭は街の真ん中に1軒だけ残った“傳丸”が有るだけで、隅田川に面した“市丸”はギャラリーに変身しています。
権助が道案内をしないものですから、未だ解らず柳橋を右往左往しています。
柳橋(神田川最下流に架かる橋)
柳橋
柳橋から両国橋を見る
柳橋から見る浅草橋
料亭「傳丸」
ルーサイトギャラリー(台東区柳橋1−28)
柳橋一丁目の街並み 2012年2月記 |