落語「一つ穴」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、「一つ穴」(ひとつあな)によると。
 

 悋気は女の慎むところ疝気は男の苦しむところ、と言われているように悋気の噺です。

 奥様が焼き餅を焼いて、間に入る者が迷惑することは良く有ること。
 旦那のお供をしてきました、と奥様に報告。途中ではぐれたようにして、旦那の後を着けていくと、柳橋を渡って曲がりくねった先の格子作りの家に入った。黒板塀の節穴から覗くと、旦那は大きな赤い布団に横になっていた。そこに色白の綺麗な若い娘が出てきて、じゃれついていたが、覗いている足元を犬が噛んだので「痛い!」と声を上げてしまった。その声で障子が閉まって、中の様子が分からない。で、帰って来た。
 ところで、場所は解るかといえば、行けば何とか思い出す、の一言で奥様は出掛ける算段をしたが、旦那が帰ってきたら話しすれば良いとか、相手の陣地に乗り込むと五分の損が有ると諫めるが、奥様承知しない。「嫌がるところを見ると、それは旦那と同じ『一つ穴の狐』だね」、「狐だなんて言われたら承知できない」、「だったら早く行こう」、「行っても大きな声を出したり、喧嘩してはダメだよ」、と言うことで奥様は鏡台の前に座って、身綺麗にして同道で柳橋に。

 ここだね。お前はここで待っておいで。「大津屋さんの半兵衛さんは来ていますか」と女中に問えば、生返事で取り合わない。奥さんの勢いに押されて奥の部屋に駆け込んで御注進。「旦那さんには何かあると思っていたら、今四十がらみの良い身なりの粋な女が来たんですよ。半兵衛さんの下駄も解るし、名を聞けば『ババアが来たと伝えてくれ』と言うんですがイイ女なんですよ。姉さんどうします」、「いると言えば良いでしょ。生意気なヤツだね」。と言うことで女が玄関先に、「半兵衛さんは奥でお休みですよ」。それを聞いた奥様、悋気の虫が頭に上がって、「名前は、半兵衛の家内です」、女もまさかと思っていたので油断をしている隙に上がり、奥の八畳間に。
 枕元に座った奥様が旦那を起こした。旦那慌てて体制を取り直したが劣勢状態。押されに押されてしどろもどろ。敗北宣言を出したが、一緒には帰りたくないという。帰ろうと袂を引く奥様に反撃開始。奥様を押した弾みで火鉢のヤカンを倒し灰神楽が上がった。手元にあった刺身皿を投げると幸い奥様には当たらず、後ろの柱に当たって皿が割れ、お刺身が奥さんの頭の上に降り注いだ。お妾は便所に逃げ込み、女中は台所に逃げ込んだが皿小鉢を欠いて、猫が飛び出し魚をくわえて逃げ出した。

 見かねて仲裁に権助が飛び込んできたから旦那、ますます怒って、てめえは裏切り者だ、犬だと、罵しった。
こうなると、権助黙っていられず、
「おらあ国に帰ると、名主様から三番目の席に着こうという家柄だ。どこが犬だ」、
「何を言いやがる。あっちでもこっちでも嗅ぎ付けて、都合の良いことを言うから、犬だ」、
「みんなでよってたかって犬畜生扱いだ。ああそれで、あんたは犬だ犬だといい、お奥さんは一つ穴の狐だと言った」。

 


 
1.一つ穴 この噺は、戦時中の「禁演落語」の内の一つで、昭和16年(1941)10月30日、時局柄にふさわしくないと見なされて、浅草寿町(現台東区寿)にある長瀧山本法寺境内のはなし塚に葬られて自粛対象となった。廓噺や間男の噺などを中心とした53演目の一つです。戦後の昭和21年9月30日、「禁演落語復活祭」によって解除。建立60年目の2001年には落語芸術協会による同塚の法要が行われた。
 禁演落語になった噺は明烏、居残り左平次、お茶汲み、お見立て、親子茶屋、首ったけ、五人廻し、子別れ、権助提灯、三枚起請、品川心中、高尾、辰巳の辻占、付き馬、突き落とし、宮戸川、などがあります。
 このような艶笑噺では、禁演になる以前に、戦時色強くなる時期昭和10年代には「ダメ」だったでしょう。しかし、現在円生はサラリとお妾さんと旦那の関係を演じています。

 落語「権助提灯」や「権助魚」の前半に良く似た噺です。前半を飛ばして、この噺のように中段から入る演じ方もあります。「悋気の独楽」では権助ではなく小僧が付いて行きますが、ご妾宅でお土産に独楽をもらいます。
 下働きの男と言えば、落語の世界では“権助”と相場が決まっています。落語「ミイラ取り」では主人に忠義をつくし、吉原に若旦那を迎えに行きますが。

2.柳橋

 柳橋は神田川が隅田川に流人する河口部に位置する橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、元禄10年(1697)に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、「柳橋川へ蒲団をほうり込み」と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。明治20年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1927)に完成しました。



 上図、昭和36年当時の柳橋周辺。船宿小松屋蔵。左側が柳橋(町)、手前が神田川で柳橋上方で隅田川と合流する。現在と同じ所に船宿が有り、船は和船の手こぎ船です。柳橋の左向こうには亀清楼が日本家屋のたたずまいを見せています。左上の隅田川に架かる鉄橋は総武線の鉄道橋です。写真をよく見ると柳橋を渡り始めている白い車は有名なダイハツミゼット軽三輪です。

柳橋(町);子規の句で、「春の夜や女見返る柳橋」、「贅沢な人の涼みや柳橋」 と言われるように、隅田川に面していて両国橋西詰めから神田川が合流する、その際に架かった柳橋を渡ると、その北側には柳橋と言う町があり、その柳橋花柳界で江戸っ子は遊んだ。
 江戸が明治に変わり、新政府に仕える元武士達が東京に大勢入ってきた。その時江戸っ子はその者達を粋で無いと馬鹿にして軽蔑した。吉原でも同じようにその者達を軽蔑して楽しく遊ばせなかったので、彼らは柳橋や赤坂で遊ぶようになった。ために、柳橋は多いに賑わった。
 また、両国の花火では多いに賑わい、そのスポンサーとしての地位を築いていたが、隅田川の護岸が高くなり川面が見えなくなってしまった。その為、客が激減して営業が成り立たなくなり花火も中止になり、マンションや事務所ビルに変わっていった。しかし、現在でも幾つかの料亭は続いています。

3.言葉
一つ穴の狐;共謀して事をたくらむ者をいう語。また、別のように見えながら実は同じく悪者であるという意。動物が替わって「一つ穴の古狸」「一つ穴のむじな」となる場合もあり、いずれも意味は同じです。
むじなはアナグマの異称。混同して、タヌキをムジナと呼ぶこともある。
これらは、巣穴を掘る習性のあることと、古くから人を化かすといわれるのが共通点です。「穴ぽりメ」と罵ることもあります。

灰神楽(はいかぐら);火気のある灰の中に、湯・水などをこぼしたとき、灰の舞いあがること。

皿小鉢(さらこばち);皿や小さな鉢。台所の瀬戸物類の総称。

名主様(なぬしさま);(村名主) 江戸時代、郡代・代官の支配を受け、または大庄屋の下で一村内の民政を司どった役人。身分は百姓。主として関東地方での称で、関西では庄屋といい、北陸・東北では肝煎(キモイリ)といった。
   


 

 舞台の柳橋を歩く

 柳橋に大津屋さんの半兵衛さんの妾宅を探しに出掛けます。
 隅田川に架かる両国橋西詰めに立ちます。ここは江戸時代にはもう少し下流(南)に木橋の両国橋が架かっていましたが、西詰めは両国広小路と言って火除け地として、広い空き地になっていました。空き地では勿体ないと言うことで、何かの時には直ぐ取り壊せる、仮小屋の芝居小屋、曲芸、見世物などの小屋が建ち、隅田川に面して茶屋がありました。その間にも売り子達が食べ物などを売り歩いていて、賑やかを極めていました。
 その北側には神田川が流れ、柳橋、水戸街道の原点(基点は日本橋)浅草橋が架かっていました。その柳橋を渡ります。

 現在の柳橋は南側の京葉道路の両国橋西詰め交差点を北に渡ると、柳橋が見える道に接続しています。南から北に行くと2〜3軒先には神田川の流れを見ることが出来ます。実際はコンクリートの土手があって川面を見ることが出来ませんが、橋まで来と右側には隅田川と両国橋、北側にはJR総武線の鉄橋が見えます。左側にはコンクリートの土手にへばりついた小さな船宿が何軒も有り、その川面には遊覧船の屋形船がもやってあります。その先が上流ですが、柳橋の上流には浅草橋が架かっています。ここまでの北側、すなわち、川向こうが柳橋街で、明治から昭和中頃までは花柳界として艶っぽい情感を醸した街でしたが、現在はその良さが無くなり、極普通のオフィスビル街とマンション街になっています。

 柳橋を渡り、柳橋(町)に入ります。橋を渡った右側には隅田川に面した“亀清”こと料亭・亀清楼が有ります。この亀清楼も上層部はマンションになったビルに変身しています。昭和からの二階建て日本家屋の料亭は街の真ん中に1軒だけ残った“傳丸”が有るだけで、隅田川に面した“市丸”はギャラリーに変身しています。
 現在の黒板塀の妾宅なんて何処にも見当たりません。その妾宅があったとしても、玄関はキーでロックされたマンションの一室に構えているのでしょう。 

 権助が道案内をしないものですから、未だ解らず柳橋を右往左往しています。

 

地図

 

 
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写真

 


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柳橋(神田川最下流に架かる橋)
  橋の左側には佃煮と船宿の「小松屋」が有り、奥の茶色いビルが料亭「亀清楼」です。亀清楼は江戸情緒を残す老舗料亭で、落語「干物箱」にも登場します。橋の向こう側は隅田川と直角に交わっています。

柳橋
 「川口出口の橋」と呼ばれていたのが「矢の倉橋または矢の城橋」と呼ばれ、正徳頃(1711-15)に柳橋と呼ばれるようになった。現在の橋は昭和4年(1929)に竣工した。

柳橋から両国橋を見る
 神田川が隅田川に合流する地点で、右前方の赤い橋が両国橋、対岸は墨田区。隅田川に合流するこの地点で花火大会が行われていたが。昭和36年(1961)を最後に中止となった。以後、昭和53年(1978)上流で再開されるまで川開き花火大会は無くなった。

柳橋から見る浅草橋
 柳橋の上流、最初に架かる橋が「浅草橋」です。浅草橋は水戸街道を通す重要基点ですから、江戸時代には浅草御門として役人が詰めていました。落語「船徳」の徳さんが一人前の様子で、二人のお客さんを乗せて浅草に漕ぎ出したところです。

料亭「傳丸」(台東区柳橋1−6)
 柳橋の唯一の木造建設の店舗として残った老舗です。黒板塀で往年の料亭という感じです。噺の中で黒板塀の妾宅とはこの様な黒板塀だったのです。

ルーサイトギャラリー(台東区柳橋1−28)
 隅田川に面して過日は料亭「市丸」だったのが、今は陶芸家の展示場に変身しています。川を眺めながら抹茶セットがいただけます。

柳橋一丁目の街並み
 柳橋街並みの景観ですが、過日の花柳界を彷彿させる情景はどこにもありません。

                                                   2012年2月記

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