落語「禁酒番屋」の舞台を歩く

 

 十代目桂文治の噺、「禁酒番屋」(きんしゅばんや)によると
 

 酒癖は人様ざま、イイ酒もあれば悪い酒癖もある。悪いのは酒乱です。森安芸守の藩中で月見の宴が開かれた。その宴席で酒癖の悪いのが絡んで、相手の若者を殺めてしまい、翌日目覚めて慌てたが後の祭り、切腹してしまった。酒のせいで若者二人を亡くした殿様が、禁酒令を出した。

  最初の内は禁酒が守られていたが、その内グズグズになって、禁酒令何処吹く風になってしまった。これではイケナイと、門の脇に番屋を建てて、飲酒の取締と酒の持ち込みを厳しく取り締まった。これを誰言うとはなしに禁酒番屋と呼んだ。

 酒好きな近藤様が贔屓の屋敷前の酒屋を訪れ、五合升に2杯旨そうに平らげた。金に糸目は付けないから、1升寝酒に届けるようにと言い捨てて店を出ていった。店の者は事情が充分判っているので困った。
 小僧の一人が、徳利を下げては門をくぐれない。最近売り出された”カステラ”を買ってきて、五合徳利2本を入れ替えて持ち込めば分からないと言い出した。すっかり菓子屋の支度を整えて番屋に、

 「その方は何者だ」、「向こう横町の菓子屋です。近藤様のご注文でカステラを持参しました」、「近藤は酒飲みだが菓子を食べるようになったのかな? 間違いがあっては困る、こちらに出せ」、「お使い物で、水引が掛かっています」、「進物か。それなら通れ」、「アリガトウございます。ドッコイショ」、「待て!今『ドッコイショ』と言ったな」、「口癖ですから」、「役目であるから、取り調べる。水引は自分で直せ。この徳利は何だ。徳利に入るカステラがあるか」、「最近売り出された”水カステラ”でございます」、調べるからと、水カステラならぬ酒を飲まれてしまった。その上「この偽り者。立ち帰れ」。
 店に帰って、経緯を話すと、今度は油屋に変装して”油徳利”だと言って通ってしまうと言い始めた。支度を整え、

 「お願いでございます」、「通~れェ」先程と違って役人は酔っている。「油屋です。近藤様の御小屋に油のお届け物です」、「間違いがあっては困る、こちらに出せ。油徳利であるが、水カステラの件がある、取り調べる。控えておれ。御同役、水カステラの味がする。棒縛りだ、この偽り者、立ち帰れ」。
 店に駆け戻ったが、「また飲まれてしまった。これで2升だ」、「番頭さん、『偽り者、偽り者』と言われて、黙っていられますか。今度は敵討ちに行かせて下さい。」、「ダメだよ。今度飲まれたら3升だよ」、「いえ、今度は酒を持っていかない。・・・小便です」、「そんな事したら後が大変だ」、「大丈夫です。小便屋が小便を持って行くのです。それを飲む奴がイケナイ。オ~イみんな、ここに出してくれ」と言う訳で、徳利一杯にして、持ち出した。

 「お願いでございます」、「通ォ~れェ」、先程以上に役人は酔って、ろれつが回らない。「近藤様の御小屋にお届けです」、「どちらだ」、「向こう横町の・・・、植木屋です」、「何を持参した」、「小便です」、「ん、なんて申した」、「小便です」、「バカ。小便を注文してどうする」、「松の肥やしに」、「出せ。これに出せ」、「どうぞごゆっくりとお調べの程」、「黙って出せ。間違いがあっては困るので取り調べる。最初は水カステラ、先程は油と偽って、今度は小便と偽って・・・、町人というのはたわいのない者だ。御同役、今度は燗を付けてきたようであるぞ。この偽り者め。控えておれ。(湯飲みに取り出して)燗が付きすぎたようで泡立ちしておる。(口まで運んで)・・・ん、○X△。かような物を持参して」、「最初から小便だと申しております」、
「う~~ん、正直者め」。

 


1.森安芸守
 安芸国(あきのくに)は、現在の広島県の西部にあたり、芸州(げいしゅう)とも呼ばれる。安芸守は江戸時代、浅野家が代々受け継いでいた。また、森家は江戸後期、播磨赤穂藩・二万石を治めていた。
 おなじみ“旗本退屈男“の活躍を描く痛快時代劇映画「きさらぎ無双剣」の中で、森安芸守が出てきますが、創作上の人物です。その森安芸守がここでも出てくるとは・・・、お釈迦さまでも気がつくめぇ。

安芸守上屋敷;千代田区霞が関二丁目。桜田門前の警視庁の地続きの南、総務省と国土交通省の庁舎が建っている地が上屋敷跡地です。
 (浅野)松平安芸守斉粛(なりたか)、42万6千石、敷地13万余坪。通りを挟んだ、現在の国会議事堂の場所に向屋敷(上屋敷に付随した屋敷地)7千余坪の敷地を構えていました。中屋敷は赤坂五丁目、現在のTBS放送局の敷地全域がそうです。
 幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行し、国内の反対勢力を安政の大獄で粛清したが、結果暗殺された。その事件を桜田門外の変という。その近江彦根藩の井伊直弼上屋敷がお隣にありました。

 

2.大名屋敷表門
 「旧因幡鳥取藩池田屋敷の表門(黒門)」が上野公園・東京国立博物館の前庭に移築されています。この表門は丸の内大名小路(現丸の内三丁目)に建てられていたが、明治25年芝高輪台町の常宮御殿の表門として移築された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれた。昭和29年修理を加え、上野公園に移築された。創建年代は江戸末期と思われる。屋根は入母屋造り、門の左右に向唐破風造りの番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。昭和26年重要文化財に指定された。

 

3.酒屋と油屋
 

  「酒屋」三谷一馬画 江戸見世屋図聚 中央公論新社より

 図中、中央の武士が近藤様でしょうか。その左、角樽(つのだる)を担いでいます。その左、子供とご新造さんが下げているのが徳利。当時酒は計り売りでしたので、容器は持参して希望の量を詰めてもらいました。左奥では五合升に酒樽に付いた飲み口から酒を取り出しています。近藤様が飲むのでしょうか。
 江戸の上質酒は上方から送られてきた。樽に詰められ、船便で富士山を左に見ながら揺られて来た頃には酒が練れて旨味を増した。これを富士見酒と言った。上方から来るので、下り酒として珍重した。現在の舶来品と同じ感覚です。下らないのは一段落ちたので、つまらないものの事を「くだらない」とはここから出た言葉です。

一升徳利;一般的に使われる一升(1.8L)徳利は貧乏徳利または源蔵徳利と呼び、落語または歌舞伎の忠臣蔵で有名な赤垣源蔵が討ち入りの前に家族との今生の別離という名場面 「赤垣源蔵 徳利の別れ」で使用されたために、その名にちなんで「源蔵徳利」と呼ばれています。大戦前まではこの徳利を下げて酒屋に買いに行くのが普通でした。狸の置物が下げている徳利が、この一升徳利です。
 右写真;貧乏徳利。左が1升徳利。江戸東京博物館蔵

面白い言葉が残っています。
 「小便変じて酒となる辻番所」 柳多留・壱四壱
この噺のために詠まれた川柳です。と、思ってもおかしくないくらいに、ズバリとハマった川柳です。
しかし、そうたやすく川柳子はおろしてくれません。実は武家屋敷の陰で立ち小便をしているところを辻番に見付かり平身低頭、後で酒を届けた、と言う内容なのです。各々方、ついつい等ということ召さるるな。

 「油屋」三谷一馬画 江戸見世屋図聚 中央公論新社より  この油屋では徳利ではなく、桶に入れています。

 

4.言葉
番頭(ばんとう);店の雇用体系は、 ご主人が居てその下に番頭が居て、手代、小僧(丁稚)が居た。番頭は店の一切を切り盛りして、店を盛り立てた。その下に手慣れた手代、新人の小僧がいた。時にはその下に見習いがいた。ご主人はオーナーなので細かい事は言わず、全て社長の番頭に任せていた。

棒縛り(ぼうしばり);幕府で行われる刑罰以外の罰の一つ。藩などで独自に行われる刑罰(私刑)の一つで、両腕を広げ棒を添えて手首を棒に結わえ付ける。その状態で晒したり、拘禁した。ヤクザなどは指つめや、痛めつけた後にムシロに簀巻きにして、海に投げ込んだ。 (落語「お富与三郎」)

カステラ;(ポルトガル人が長崎に伝えた) 小麦粉に卵と砂糖・水飴とをまぜて焼いた菓子。カステーラ。
水カステラなんて、良い響きの言葉ですが、私も見た事も食べた事もない。湯飲みに入れて飲むものだったら知っていますが。

 


 

   舞台の永田町・霞ヶ関を歩く


 国会議事堂正面に立ちます。後ろは皇居桜田濠で、冬の水鳥が舞い降りて盛んにお食事の真っ最中です。左手奥には警視庁の建物、その先に皇居前に入って行く桜田門(外桜田門)があります。左手には国土交通省のビルがあります。この国交省の建物とその坂下(東)側にある総務省の建物が、浅野安芸守上屋敷跡です。
 国会議事堂正面に突き当たる広い道路の左右には公園になっていて、左側には日本庭園が造られています。公園の中心には大きな池があり、その前にはテラス風の休憩所があり、お弁当を広げる人達がいます。木が鬱蒼としていて周りのビル街は見る事が出来ず、ここが国会議事堂前だとは誰も気がつかないでしょう。
 右側公園の中には、日本水準原点があります。これは明治23年(1891)に設置された、日本全国の標高を決める基準点で、標高24.4140mの印が水晶表面に刻まれています。しかし、平成23年(2011)東北地方太平洋沖地震の影響による地殻変動が観測されたため、平成23年(2011)10月21日に、東京湾平均海面上24.3900mと改定されました。日本列島はまさしく動いているんですね。

 その奥に憲政記念館設置されています。この公園とその一回り大きな敷地が、桜田門の変で暗殺された大老井伊直弼の屋敷跡です。

 

 名所江戸百景「外桜田弁慶桜の井」部分 広重画
 井伊直弼の上屋敷門前には三連の大井戸があり、道行く人の喉を潤していた。この井戸は、旧屋敷主だった加藤清正が掘ったと言われている名水。屋敷および門は残されていませんが大井戸の遺構が残されています。

 説明が後れた、正面国会議事堂が丁度見える範囲が浅野安芸守向屋敷(上屋敷の別邸)跡です。先程の公園と違って警察官の警備が厳重で、上から下まで視線でなめ回し、笑顔の中にも厳しさが伝わってきます。写真を撮ろうとすると、カメラポジションから身を引く親切さは残っています。
 国会議事堂の建物は、春先に外部を全面的にお化粧直しを施され、元の石の面が露出し明るさを取り戻しています。垢抜けしたと言えばいいのでしょうか。

 最初に立った位置(国会前交差点)まで戻ります。青山通りを渡って、国交省の建物を左に見ながら、その先の国交省建物に沿って左に下る坂道を霞ヶ関坂と言います。下った左側に総務省の建物があって坂は終わり、交差点になります。ここまで左側の敷地が、浅野安芸守上屋敷跡です。霞ヶ関坂下交差点を真っ直ぐ行くと、日比谷公園に突き当たり、一息入れても良いでしょうが、私は左に曲がります。その北側桜田門までが警視庁で、チャップリンだったら訳もなく身を隠したくなる場所です。



 総務省建物の通りを渡った右側の一角は法務省の関係の建物が並び、裁判所、弁護士会館、検察庁等が集中しています。その中の赤煉瓦の建物が法務省の旧建物(上写真)で明治の威風を漂わせています。3階の一部をギャラリーとして資料と建物内部を見学する事が出来ますし、2階は資料等の図書館になっています。残念ながら、建物の向こう側には洋風の素晴らしい庭がありますが、立ち入る事も、ギャラリーから写真を撮る事すら禁止されています。そんなに秘密にすべき、何かがあるのでしょうか。

 その先の桜田門は井伊直弼が暗殺されたところです。しかし、そんな事には関係無しに、ジョギングのランナーが切れ目無く通過していきます。

 「桜田門外之変図」茨城県立図書館蔵 法務省ギャラリーの説明板より
 安政7年3月3日雪が降る中、事前に警告が出ていたが、臆病と言われるのを嫌い、通常の人数と赤ガッパと赤い笠で出発した。雪には映えるが、浪士からは絶好の標的となった。外桜田門にさしかかった時、浪士の襲撃を受けたが、護衛側は刀が濡れるのを嫌い、刀袋を被せていたので、咄嗟の反撃が出来なかった。その為、10~15分で事件は終わった。井伊直弼46歳であった。またこの年、咸臨丸がアメリカより品川に帰港。
 井伊直弼を襲った薩摩・水戸浪士18名は捕まり、追放刑の一人を除き全員死刑になり、また、井伊家の護衛隊は闘死以外藩邸に逃げ帰った者は断首(一般犯罪者と同じ扱い)、怪我人は切腹(名誉の死)になった。太平慣れした藩士の弱腰が見て取れます。事件8年後、明治元年となります。

 

地図



  地図をクリックすると大きな地図になります。

霞ヶ関にあった道路案内板より

写真
 


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
 

旧因州池田屋敷の表門(上野公園・東京国立博物館の前庭)
 写真では正面の大戸が開いていますが、通常は閉じられていて、脇の潜り戸から出入りします。部外者は番小屋に「お願いでございます」と声を掛けて、番小屋から「何用だ」との声が掛かり、用件を伝え許可が出れば潜り戸を開けてもらえます。

旧因州池田屋敷の表門
 屋敷内より御門を見ると、あのいかめしさはありません。

国会議事堂(千代田区永田町)
 国会前の交差点から議事堂を眺めています。左側の公園は日本式公園で中央に池を配した素晴らしい別天地です。右側は井伊直弼邸があったところで、ここも公園になっていて外の騒音にくらべ静寂を保っています。議事堂が見える範囲が、浅野安芸守向屋敷跡です。

左側公園・日本庭園(国会議事堂前)
 (黒田)松平美濃守上屋敷跡の一部です。当時の道は潰されて新しく引き直したので、当時の道とは一致しません。新しい三角形の敷地は素晴らしい公園に生まれ変わって、野鳥も訪ねてきます。

右側公園・日本水準原点(国会議事堂前)
 井伊直弼上屋敷跡の公園ですが、この中に日本水準原点の建物が建っています。ギリシャの建物を模して造られたので、日本のそれには溶け込んでいません。残念ながら内部の水準点は見る事は出来ません。

井伊直弼元屋敷正門(右側公園北)
 大井戸の遺構が残る井伊家正面跡です。公園の入口もここには無く、碑だけが建っています。左奥に見えるのが、安芸守上屋敷跡の国土交通省の建物です。

井伊直弼屋敷から桜田門を望む(千代田区永田町一丁目)
 上記正門の上から皇居の桜田濠を見ています。中央奥に白く見えるのが桜田門の櫓です。直弼はこんな近い距離で暗殺されてしまったのです。
国土交通省(千代田区霞が関二丁目)
  浅野安芸守上屋敷裏側の屋敷跡です。左側が警視庁、右側は下記の霞ヶ関坂になります。

霞ヶ関坂(千代田区霞が関二-1と2の間)
 国土交通省の建物が終わった南面にある坂を、霞ヶ関坂といいます。
霞ヶ関の名の起こりは、この台地から雲や霞みたなびく先に絶景(海)があったからと言われますが、現在は中央官庁街の代名詞になっています。この坂の先には日比谷公園がありますが、そこは海だったのです。

総務省(千代田区霞が関二丁目)
 霞ヶ関坂下の総務省ビルが、上記浅野安芸守上屋敷の一部で、正面の門がありました。後ろが国土交通省です。左側の坂が霞ヶ関坂です。

桜田門(警視庁前の門)
 上記写真を右に行くと、警視庁を左に見て、右側の法務省赤煉瓦建物を見て、内堀通りを渡ると、そこが桜田門です。皇居一周のジョギングランナーはここから入って、二重橋のある皇居外苑に到着となります。

                                                              2011年12月記

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