柳亭こみちの噺、「成田小僧」(なりたこぞう)によると
■初代三遊亭 圓遊;数え方によって三代目とも言われる。嘉永3年(1850)5月28日〜明治40年(1907)11月26日、享年57。明治時代に活躍し、江戸小石川小日向生まれ。本名は竹内 金太郎(たけうち きんたろう)。明治元年(1868)頃、2代目五明楼玉輔に入門。明治3年(1870)、師匠が廃業したため(後に復帰)、明治5年(1872)頃に初代三遊亭圓朝門下に移り、圓遊に改名。明治13年(1880)4月、真打に昇進した。大きい鼻で知られており、「鼻の圓遊」とも呼ばれていた。
2.深川不動(ふかがわふどう)
当時、ませた子供を「成田小僧」と呼んでいましたが、それがこの噺からきたものと言われています。 ■本山成田山;成田山新勝寺。181話「寝床」でご覧下さい。 ■電車;現JR東日本は明治30年(1897)1月19日 成田鉄道(初代)が佐倉 - 成田間を開業。これによって両国−千葉−佐倉−成田が開通した。 二つ目さんの噺ですから、細かい事は言いませんが、この噺は深川不動・仮堂が開かれた明治2年以降ですが、鉄道が引かれた明治30年後になって創られた?。明治の初めの噺ですから電車はないでしょう。 また、タクシーは大正15年(1926)6月東京に、登場。それまでは人力車(明治3年)であった。ただ、乗り合いバスは早く明治元年(1868)、鉄道馬車(東京馬車鉄道)は明治15年(1882)新橋−日本橋間が開通、その後東京電気鉄道(後の市電)と名を変えて明治36年(1903)、同じ軌道上を路線を延ばしながら走った。 左;明治の始め銀座通りを走る乗合馬車。 右;同じく鉄道馬車。人力車も活躍しているのが良く分かります。 ■浄心寺(じょうしんじ);現・江東区平野二丁目4。大旦那の菩提寺。万治元年(1658)通遠院日義上人の開山で、四代将軍家綱の乳母三沢局の冥福のために創建されました。万治3年(1660)には身延弘通所と定められ、将軍家より十万石の格式を許された、江戸十祖師(江戸にある日蓮宗の十大祖師)の随一といわれた名刹です。 ■山谷堀(さんやぼり);隅田川から今戸橋を経て、吉原、三ノ輪にいたる掘割。その土手を日本堤、または土手と言われ、吉原通いの道となった。現在は埋め立てられて、細長い「山谷堀公園」となって、堀も橋も土手も無くなりました。 ■平清(ひらせい);”こみち”だけがここに設定。江戸っ子は縮めて「ひらせ」と言った。しかし、江戸っ子は”ひ”と”し”が言い分けられなかったので、江戸訛りで”しらせ”と発音していた。富岡八幡の東側、三十三間堂があった土橋にあり、二軒茶屋の上をいく超高級料亭です。江戸一と言われた山谷の八百善に次ぐ深川烹家(ほうけ)の巨璧(きょへき)と「江戸繁盛記」は伝えています。文化の頃(1804〜18)から繁昌し明治に入ってからも続き、明治32年(1899)に廃業した。どちらも、一般庶民が入れるような、料理茶屋ではありませんでした。 江戸高名会亭盡「深川八幡前・平清」 広重画 2012.09絵図追加 ■松本楼(まつもとろう);富岡八幡宮の鳥居内にあった料亭です。伊勢屋とともに、二軒茶屋と称された名店でした。現在の八幡裏の数矢小学校辺りに有りました。深川で江戸以来の老舗は、平清、尾花屋、梅本に山本、ほかに小池がありました。 ■本郷春木町(ほんごう_はるきちょう);現・文京区本郷三丁目北側の内で、大旦那の住まい。元禄9年(1696)から町地となりました。町名は、一丁目から三丁目まで有り、元和年間(1615-24)にこの地に滞在した、伊勢の御師・春木太夫に由来します。現在は北側に春日通りが走り、渡った北側が東京大学です。 隣の本郷三丁目「かねやす」は、江戸時代からの小間物屋で、目貫(めぬき)、小刀や化粧品、口紅、白粉、かんざし等、こまごました物を売っていた。それが小間物で、小間物を売る店が小間物屋。 上写真;「かねやす」暖簾(実物)。下;「かねやす店先」職人尽絵 兼康祐悦蔵 上下とも文京ふるさと歴史館展示 ■多田の薬師;隅田川の東岸、墨田区東駒形1丁目15に有った薬師で、この北側に吾妻橋が架かっていた。現在葛飾区東金町(ひがし_かなまち)二丁目25に移転。落語91話「双蝶々」に詳しい。 ■吾妻橋(あずまばし);墨田区吾妻橋と台東区浅草を結び隅田川に架かる橋。毎回出てくる身投げの名所。落語142話「星野屋」、147話「浜野矩随」、210話「身投げ屋」などでご覧になれます。
3.出典
4.言葉
■小僧と丁稚;商家の雑用を主にこなす新人男社員。上方では丁稚と呼び、江戸では小僧と呼んだ。題名にも成田小僧と使われています。
■吉原の幇間(ほうかん);太鼓持ち。男芸者。吉原の幇間は普通、揚屋町に住んでいた。
■恋患い(こいわずらい);江戸から明治の時代、この病で亡くなる小説、落語の主人公は多かった。現在は病原菌が死滅したのか発症率はゼロになった。草食系になって患いまで行かない若者が増えたからでしょうか。
地下鉄門前仲町駅を出て、西側から街中を東に向かって歩き出します。左手に区立のただ広いだけの公園「深川公園」が現れます。この地は永代寺があった、その庭園跡で、名園中の名園でした。庶民は3月の時期だけ庭園に入ることを許されました。江戸名所図会(右図。部分。クリックすると拡大)にその様子が残っています。その先隣に現在の「不動尊」が建っています。
東隣の「富岡八幡宮」に足を運びます。表通りの鳥居をくぐると、左側に、伊能忠敬の測量に旅立つ像があり、御輿蔵があって江戸一番と言われる御輿が飾られています。参道の右側には名大関の碑があります。正面、社殿の右側から奥に行くと、横綱碑があります。その左(北)側は二軒茶屋の「伊勢屋」跡です。裏口から出た正面、数矢小学校の敷地が同じく二軒茶屋の「松本楼」が有った跡です。その小路を右側に回り込んでいくと永代島の東の堀川で、現在遊歩道になった上に架かる赤い橋が東京で一番古い鉄橋「八幡橋」です。その橋上から見ると対岸の河岸に「平清」が有りました。どの料亭も船で来ることが出来て、便利さも秀逸でした。
残念ながら、辰巳芸者と呼ばれた粋なお姉さん達は絶滅して一人も居ません。呼ぶことは出来ますが、向島や赤坂から来ることになります。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
深川不動堂(江東区富岡一丁目17)
深川不動堂(新本堂の内部)
深川不動堂(参道)
富岡八幡宮
(江東区富岡一丁目20)
平清跡(富岡八幡宮東、土橋。江東区富岡二丁目西側)
松本楼跡(富岡八幡宮北、江東区富岡一丁目18数矢小学校)
浄心寺(江東区平野町二丁目4)
春木町(江東区本郷三丁目西側)
2011年10月記
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