落語「成田小僧」の舞台を歩く
   

 

 柳亭こみちの噺、「成田小僧」(なりたこぞう)によると

 大旦那は小僧・長松(ちょうまつ)に深川の不動に、代参する若旦那のお供を言いつけた。長松は目端はきくがおしゃまでおしゃべり小僧。
 大旦那の注意する事に、一々混ぜっ返したり、揚げ足取ったりする長松。それでは蔵の中に入れるぞと脅かしても、仕事が休めると涼しい顔。黙って着いていくように注意した。

 「若旦那、道が違います。そちらは浅草には行けません」、「今日は深川のお不動様だからこれでいいのだ、いつもは成田まで行くが、今日は深川だ」、「電車じゃなくて自動車はイイですよ。乗り合いバスはいけませんから、タクシーで行きましょう」、「タクシーには乗らないよ。歩いて行くんだ」、「商売人の子供はしみったれでいけない、タクシーなら深川から浅草に行って、そこでおまんままが食べられます」、「今日は深川だけだ」。「あすこで湯気を出しているのは何ですか」、「饅頭だ」、「あれ買ってください」、「ダメだ」、「では、たたき売りのバナナは」、「それもダメ」。

 「ここですかお不動様というのは。つまんないお堂ですね」、「お賽銭をお前に上げるから、お願いしなさい」、「若旦那さんが何かご馳走してくれますように」と願を掛けて早々に歩き出した。「ここですよ。『平清』という料理屋さんです。先に入りますよ」。
 仲居さんにさんざん揚げ足を取って困らせている。「お姉さん、早く料理を持ってきてください。それより若旦那、若旦那〜、どうしましたか。」うたた寝をしている若旦那を起こし、「お不動様に行きますよ」、「今行ってきた」、「行ってませんよ。これから行くんです」、「う〜〜、夢か〜。うるさいお前の夢を見ていた。夢は小僧の疲れだ」。

 この噺には続きがあって、「三遊亭圓朝全集」成田小僧より引くと、

 父の代参で深川不動に参詣する若旦那・江崎清三郎のお供をし、途中、長松の強い勧めで深川の料理茶屋・松本で昼食。(夢など観ていなかった)

 座敷で食事をしていると、芸者が手洗いに来たのを長松が見つけ大騒ぎ。女中に聞けば、山谷堀・大和屋の売れっ子芸者、小千代。幇間の花洲と正孝といっしょに来ていた。長松は、幇間ともども部屋に呼んで、しめて五十両の散財。
 清三郎は「茶屋へ来たことさえお父っつぁんに知れたらどうしようかと思っているのに、私は勘当だ」と気弱になるのを、長松は「長男除きはできやぁしません。親子の縁の切れなくなったのは、王政ご一新のお上のありがたいところでゲス」などと、平気のへいざ。
 これが縁で、小千代と清三郎は切れぬ仲になるという馴れ初めの話です。

圓朝はここまでで、三遊亭円遊の噺で、後編を続けると、

 そんなことがあった後、二人は親密に付き合うようになった。時には旦那の名代で料理屋で、またある時は花洲共々船で成田まで行ったりしていた。

 吉原の幇間・花洲の家に大和屋の女将が訪れた。小千代が清三郎にぞっこんなのに、清三郎が8ヶ月も来ないので、小千代が恋患いになった。ついては花洲に見舞いに来てほしい、とのこと。出掛ける花洲と道であった幇間船八の二人が、連れ立って大和屋に病気見舞い。
 清三郎との思い出話に花が咲き、小千代の気も紛れるが、経緯の知らない船八は「若旦那は芸者を連れて逃げたそうです」とあらぬ事を言い出す。小千代は顔色を変えて、裏口から人力車に乗って飛び出した。慌てたみんなも車に乗って小千代の後を追いかける。

 その頃、清三郎が失踪した日を命日に定め、大旦那が菩提寺の深川・浄心寺に長松を連れてお参りに行った帰り道、遅くなった午後十時過ぎ、多田の薬師から吾妻橋へ。
 吾妻橋から女の身投げを長松が見つけ、旦那が引き留めて思い止まらせる。提灯を点けると女は小千代だった。清三郎には双子の妹がいたが、その妹が小千代と判明。小千代は「それを聞きましては、なおさら生きてはいられません」と、飛び込もうとするところに、店の番頭が駆けつけ、若旦那が外務省の役人とサンフランシスコにいるという手紙が届いたとのうれしい知らせ。一同、ほっと安心した。
 小千代は「兄妹と知れたら、なお生きていられない、死んで貞女の鑑を立てたい」と、
本郷春木町の塗物屋・十一屋大旦那は「なぜにおまえは貞女の鑑を立てる」と、小千代が、
「もとが塗り物屋の鏡台(きょうだい=兄弟)です」。

 



1.この噺について
 最初は上下に分かれていた噺で、初代(三代目とも。「鼻の」)三遊亭円遊が、「百花園」に明治22年5月に”上”を、23年11月に”下”を、5日と20日の二回に分けて速記を残しました。幕末から明治初期にかけて二代目春風亭柳枝(1822−74)が得意にしていました。
 柳枝の噺から”上”を三遊亭円朝も手掛け、角川書店版「円朝全集」に速記が残っています。
 もともと、陰気な因果噺だったのを、円遊が陽気なこっけい噺に改作しました。今はすたれた噺ですから、CDもテープもレコードにも音源がありません。現在演じ手は柳亭こみちしか居ないでしょう。
 柳亭こみちはこの”上”を下敷きに膨らませたと思われます。円遊の3分16秒のSP音源が残っていて、3分チョットの音源から取り上げる訳にいかず当代唯一の柳亭こみちから概略を取ります。
 ”二つ目の10人グループ”、夏TEN〜四年目のから騒ぎ〜 東京、神保町・らくごカフェよりの口演から取材。

■初代三遊亭 圓遊;数え方によって三代目とも言われる。嘉永3年(1850)5月28日〜明治40年(1907)11月26日、享年57。明治時代に活躍し、江戸小石川小日向生まれ。本名は竹内 金太郎(たけうち きんたろう)。明治元年(1868)頃、2代目五明楼玉輔に入門。明治3年(1870)、師匠が廃業したため(後に復帰)、明治5年(1872)頃に初代三遊亭圓朝門下に移り、圓遊に改名。明治13年(1880)4月、真打に昇進した。大きい鼻で知られており、「鼻の圓遊」とも呼ばれていた。
 寄席において、落語の後の余興として「ステテコ踊り」を披露して大人気を博し、「ステテコの圓遊」の名でも呼ばれるようになった。また古典落語を明治風に改作して演じ、好評を博した。明治時代の落語界において中心人物であり、全盛期には1日36軒の寄席を掛け持ちしたと言う伝説もある。
 辞世の句は「散りぎわも 賑やかであれ 江戸のハナ(華、鼻)」。

■二つ目 柳亭こみち(板垣愛)
 今、輝きを増しつつある女性落語家、柳亭こみち。大学卒業後、出版社に就職。「学生のころから演劇が大好きで。週に10本も観るときがありましたね」。
 ある日、観たい舞台に入れず、友人から寄席を勧められた。「噺家がたったひとりで江戸の情景が広がる。心をわしづかみにできるんだなぁ」と、一気に落語のとりこに。会社を辞め、2003年(平成15)、柳亭燕路へ弟子入り。2006年、二ツ目に昇進した。
 身長148cm。「日本で一番背の低い噺家」をキャッチフレーズに、メリハリのあるしっかりした口調が魅力で、「下品にならないことを心がけている」という。2010年1月 漫才師の宮田昇(34)とこみち(36)が結婚。(年齢は結婚時)
写真は落語協会のホームページより



2.深川不動(ふかがわふどう)
 成田山東京別院深川不動堂は現・江東区富岡一丁目17にある成田山新勝寺の東京別院です。江戸時代、元禄16年(1703)には、深川富岡八幡宮の別当・永代寺で成田不動の出開帳が初めて行われ、大盛況を博した。歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打って大当たりし、江戸庶民が成田不動を身近に感じるようになったためで、市川家の屋号は「成田屋」です。
 明治に入り永代寺は廃寺になり境内の一部は深川公園になった。独立の不動堂が建ったのは、永代寺の子院・吉祥院の跡地に明治2年、「深川不動堂」の正式名称が認められ、同14年には本堂が完成する。
 平成の大改修を行い、本堂、諸伽藍も一新され平成3年9月に平成大改修落慶法要が盛大に行なわれた。また、平成14年の開創300年を記念し内仏殿建立、お不動様のご本地仏、大日如来様を奉安した。
 新本堂は旧本堂の西側にある外壁に梵字(不動明王御真言)を散りばめてある建物。開創310年を期に平成23年(2011)4月に完成。旧本堂より本尊不動明王を遷座し、護摩供養は新本堂で行われている。


「成田不動尊」山本松谷画 参道と奥に本堂が見える。 明治東京名所図会 講談社刊

 当時、ませた子供を「成田小僧」と呼んでいましたが、それがこの噺からきたものと言われています。
こまっちゃくれた子が出てくる「真田小僧」の金坊とは違います。

本山成田山;成田山新勝寺。181話「寝床」でご覧下さい。

電車;現JR東日本は明治30年(1897)1月19日 成田鉄道(初代)が佐倉 - 成田間を開業。これによって両国−千葉−佐倉−成田が開通した。
 並行して走る私鉄・京成線は後れる事、昭和元年(1926)12月24日に津田沼 - 成田花咲町(仮駅)間を開業し、ここに東京と成田まで全線結ばれることとなった。

 二つ目さんの噺ですから、細かい事は言いませんが、この噺は深川不動・仮堂が開かれた明治2年以降ですが、鉄道が引かれた明治30年後になって創られた?。明治の初めの噺ですから電車はないでしょう。
 時代設定がグチャグチャです。
 円遊は「ガラガラッと車(人力車)で・・・」行きたいと言っています。原典の噺には他に乗り物の事は当然出てきません。歩いて行くのが極自然。噺を膨らませるのは大いに結構ですが、方向が違ってはいけません。
 人力車のガラガラは、車輪がまだ鉄輪であって、明治30年後半になるとゴム輪になって音がしなくなります。

 また、タクシーは大正15年(1926)6月東京に、登場。それまでは人力車(明治3年)であった。ただ、乗り合いバスは早く明治元年(1868)、鉄道馬車(東京馬車鉄道)は明治15年(1882)新橋−日本橋間が開通、その後東京電気鉄道(後の市電)と名を変えて明治36年(1903)、同じ軌道上を路線を延ばしながら走った。
 またまた、大正12年(1923)9月関東大震災により、東京市内は鉄道軌道が寸断され、人々の日常の足が奪われた。そこで、応急的な処置として東京市電気局がフォード車を改造した11人乗りのバスを導入したのが始まり。

 

 左;明治の始め銀座通りを走る乗合馬車。 右;同じく鉄道馬車。人力車も活躍しているのが良く分かります。
 江戸東京博物館ジオラマ

■浄心寺(じょうしんじ);現・江東区平野二丁目4。大旦那の菩提寺。万治元年(1658)通遠院日義上人の開山で、四代将軍家綱の乳母三沢局の冥福のために創建されました。万治3年(1660)には身延弘通所と定められ、将軍家より十万石の格式を許された、江戸十祖師(江戸にある日蓮宗の十大祖師)の随一といわれた名刹です。
 
(四〜八代)岩井半四郎、(初・二代)板東彦三郎ら歌舞伎役者や初代清元延寿太夫など芸人の墓が多い。その中で、天保改革で老中水野忠邦に抜擢された江戸奉行・矢部定謙(さだのり)の墓がある。矢部定謙は硬骨で能吏の旗本であり奉行に就任すると、出雲庄内の酒井家が転封を阻止するために忠邦に3千両贈ったという収賄を摘発した。「飼い犬に手を噛まれた」忠邦は定謙の町奉行を解職し、桑名藩預けにしたが、怒った定謙は断食で抗議し憤死した。 
 元・洲崎遊廓遊女達の投げ込み寺でもあり、墓所奥に洲崎廓追善墓があります。また、浄心寺門前は、「南総里見八犬伝」の作者・滝沢(曲亭)馬琴の出生の地です。

■山谷堀(さんやぼり);隅田川から今戸橋を経て、吉原、三ノ輪にいたる掘割。その土手を日本堤、または土手と言われ、吉原通いの道となった。現在は埋め立てられて、細長い「山谷堀公園」となって、堀も橋も土手も無くなりました。

 去年の4月桜の頃、山谷堀を埋め立てて公園になった山谷堀公園。今戸橋の上流新鳥越橋(吉野橋)上手。
吉原方向を見るが、堀の狭さが実感出来ると思います。

■平清(ひらせい);”こみち”だけがここに設定。江戸っ子は縮めて「ひらせ」と言った。しかし、江戸っ子は”ひ”と”し”が言い分けられなかったので、江戸訛りで”しらせ”と発音していた。富岡八幡の東側、三十三間堂があった土橋にあり、二軒茶屋の上をいく超高級料亭です。江戸一と言われた山谷の八百善に次ぐ深川烹家(ほうけ)の巨璧(きょへき)と「江戸繁盛記」は伝えています。文化の頃(1804〜18)から繁昌し明治に入ってからも続き、明治32年(1899)に廃業した。どちらも、一般庶民が入れるような、料理茶屋ではありませんでした。

江戸高名会亭盡「深川八幡前・平清」 広重画 2012.09絵図追加

松本楼(まつもとろう);富岡八幡宮の鳥居内にあった料亭です。伊勢屋とともに、二軒茶屋と称された名店でした。現在の八幡裏の数矢小学校辺りに有りました。深川で江戸以来の老舗は、平清、尾花屋、梅本に山本、ほかに小池がありました。

■本郷春木町(ほんごう_はるきちょう);現・文京区本郷三丁目北側の内で、大旦那の住まい。元禄9年(1696)から町地となりました。町名は、一丁目から三丁目まで有り、元和年間(1615-24)にこの地に滞在した、伊勢の御師・春木太夫に由来します。現在は北側に春日通りが走り、渡った北側が東京大学です。

  隣の本郷三丁目「かねやす」は、江戸時代からの小間物屋で、目貫(めぬき)、小刀や化粧品、口紅、白粉、かんざし等、こまごました物を売っていた。それが小間物で、小間物を売る店が小間物屋。 
 「かねやす」は、兼康祐悦という歯科医が乳香散なる歯磨き粉を売り出したところ、これが当たり、店を大きくした。芝神明前の「兼康」と本家争いがあり、芝は漢字で、本郷は「かねやす」と仮名に改めた。75話落語「札所の霊験」、85話落語「ねぎまの殿様」、140話落語「小間物屋政談」で訪れたところです。
 享保十五年の大火で、大岡越前は防災上、江戸城から江戸市内、今の本郷三丁目にかけて、塗屋、土蔵造りを命じた。大きな土蔵のあった「かねやす」は目立ち、川柳が出来た。
  「本郷もかねやすまでは江戸の内」  店の前に説明版があります。「小間物屋政談」より

 

上写真;「かねやす」暖簾(実物)。下;「かねやす店先」職人尽絵 兼康祐悦蔵 上下とも文京ふるさと歴史館展示
2011.11追記

多田の薬師;隅田川の東岸、墨田区東駒形1丁目15に有った薬師で、この北側に吾妻橋が架かっていた。現在葛飾区東金町(ひがし_かなまち)二丁目25に移転。落語91話「双蝶々」に詳しい。

吾妻橋(あずまばし);墨田区吾妻橋と台東区浅草を結び隅田川に架かる橋。毎回出てくる身投げの名所。落語142話「星野屋」、147話「浜野矩随」、210話「身投げ屋」などでご覧になれます。

 

3.出典
 三遊亭円遊の速記本は「口演・速記 明治大正落語集成」講談社によった。この噺は落語速記録掲載雑誌「百花園」東京・金蘭社刊に載ったもので、それを編纂して講談社版になった。
 「百花園」は明治22年5月創刊。明治30年9月までは毎月2回、以後33年11月までは月1回の刊行で、総計240冊が現在確認されている。落語講談速記雑誌の草分けであり、一流演者をそろえて大いに盛行した。

 

4.言葉
■夢は小僧の疲れだ;”こみち”が使ったオチの言葉。元来は「夢は五臓の疲れだ」をもじったもの。落語86話「ねずみ穴」に同じオチが使われています。

小僧と丁稚;商家の雑用を主にこなす新人男社員。上方では丁稚と呼び、江戸では小僧と呼んだ。題名にも成田小僧と使われています。

吉原の幇間(ほうかん);太鼓持ち。男芸者。吉原の幇間は普通、揚屋町に住んでいた。
 揚屋町には遊女屋は数えるほどしか無く、揚屋、芸者の置き屋、幇間、料理屋、髪結い、湯屋など吉原に必要な人達やお店が並んでいた。吉原五丁町(ごちょうまち)とは、江戸新吉原の五つの町を指し、江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角(すみ)町の総称で、揚屋町は含まれていない。

恋患い(こいわずらい);江戸から明治の時代、この病で亡くなる小説、落語の主人公は多かった。現在は病原菌が死滅したのか発症率はゼロになった。草食系になって患いまで行かない若者が増えたからでしょうか。




 舞台の深川を歩く


 江戸に家康が入府した時は、江戸市内から見て隅田川の向こう(河口と言うより広大な干潟)、深川の一帯は湿地帯であった。それを埋め立て深川地区の概要が浮かび上がり、その後、明暦の大火後の残骸や塵芥の投げ捨てを禁じ、深川地区まで船で運ばせた。その時から永代島が完成し、そこに永代寺や富岡八幡宮が出来た。深川地区は入植を図るため岡場所の規制も緩く、多いに発展した。
 明治の維新に永代寺が廃寺になり、その境内地に成田から来たお不動さんが、深川不動尊となって信者を集め多いに栄えた。
 この噺「成田小僧」は明治の初めの頃の話ですが、東京市中からは人力車や船での不動詣りでした。江戸時代からの名残で成田不動や八幡の周りには、高級料亭が何ヶ所もあった。その内の一つに揚がって食事となった。

 地下鉄門前仲町駅を出て、西側から街中を東に向かって歩き出します。左手に区立のただ広いだけの公園「深川公園」が現れます。この地は永代寺があった、その庭園跡で、名園中の名園でした。庶民は3月の時期だけ庭園に入ることを許されました。江戸名所図会(右図。部分。クリックすると拡大)にその様子が残っています。その先隣に現在の「不動尊」が建っています。
 参道を抜けると正面に木造の本堂とその奥に、内仏殿が建立され、その奥に見えた無粋な首都高速道路の高架橋がやっと目隠しされました。現在はその左に接するように新本堂が出来上がり、落慶法要を待ちわびています。その為、旧本堂は内部改装のため何も無いガランドウですが、その前に置かれた賽銭箱はそのままなので、お賽銭を投げ込んで空の建物に両手を併せる参拝者が多数です。これって、中の大工さんに願を掛けていることになり、知らぬは仏とはよく言ったものです。

 東隣の「富岡八幡宮」に足を運びます。表通りの鳥居をくぐると、左側に、伊能忠敬の測量に旅立つ像があり、御輿蔵があって江戸一番と言われる御輿が飾られています。参道の右側には名大関の碑があります。正面、社殿の右側から奥に行くと、横綱碑があります。その左(北)側は二軒茶屋の「伊勢屋」跡です。裏口から出た正面、数矢小学校の敷地が同じく二軒茶屋の「松本楼」が有った跡です。その小路を右側に回り込んでいくと永代島の東の堀川で、現在遊歩道になった上に架かる赤い橋が東京で一番古い鉄橋「八幡橋」です。その橋上から見ると対岸の河岸に「平清」が有りました。どの料亭も船で来ることが出来て、便利さも秀逸でした。
 渡った先は三十三間堂が建っていて、土橋(どばし)と呼ばれた地です。

 残念ながら、辰巳芸者と呼ばれた粋なお姉さん達は絶滅して一人も居ません。呼ぶことは出来ますが、向島や赤坂から来ることになります。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

深川不動堂(江東区富岡一丁目17)
 新本堂は旧本堂の西側にある外壁に梵字(不動明王御真言)を散りばめてある建物。開創310年を期に平成23年(2011)に完成。同年4月16日の夜間に旧本堂より本尊不動明王を遷座し、翌17日から護摩供養は新本堂で行われている。1日5回(縁日のときは6回)護摩供養が行われる。落慶法要は来年平成24年(2012)9月15日。

深川不動堂(新本堂の内部)
 内仏殿、旧本堂裏手にある4階建の建物。開創300年を期に平成12年(2000)に完成。1階には澤田政廣作の不動明王などの仏像、2階には四国八十八箇所の巡拝所などがあり、4階は大日如来を安置する宝蔵大日堂がある。4階の天井画は中島千波画伯の作。 撮影禁止

深川不動堂(参道)
 門前の参道は通称“人情深川ご利益通り”といい、毎月1・15・28日に縁日が開かれて賑わう。有名な菓子店や食事処がある。内仏殿よりの眺め。
正面山門より見ると

富岡八幡宮 (江東区富岡一丁目20)
 ご存じ、深川を代表する八幡様で、江戸一番の規模を誇る。ここを中心に料理茶屋や料亭、岡場所などがあった遊興地でもあった。
 この右手に平清、奥に松本楼があった。

平清跡(富岡八幡宮東、土橋。江東区富岡二丁目西側)
 八幡橋の写真左側にあった、江戸でも一.二を争う名店料理茶屋。
八幡橋は明治11年(1878)国内初めての鉄橋。旧弾正橋と言われたが、ここに移設され人道橋として利用されています。

松本楼跡(富岡八幡宮北、江東区富岡一丁目18数矢小学校)
 二軒茶屋の伊勢屋と並び称された料理茶屋。平清も二軒茶屋も船から揚がる事が出来たので、多いに利用された。

浄心寺(江東区平野町二丁目4)
 大旦那の菩提寺。 日蓮宗の寺院で法苑山浄心寺という。10万石の格式をもち、身延山からのご開帳が度々行われ、江戸十大祖師の随一の名刹。
洲崎遊廓の投げ込み寺で、洲崎遊廓の追善墓が有ります。

春木町(江東区本郷三丁目西側)
 本郷三丁目交差点東側で、東西に走る春日通りの南側です。北側には東京大学、東に進めば湯島天神から上野山下に至ります。
 写真は本郷三丁目交差点から撮っています。写真右方向が本郷三丁目交差点で、「かねやす」があります。
2011.11追記

                                                                  2011年10月記

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