古今亭志ん朝の噺、「搗屋幸兵衛」(つきやこうべい)によると。
この噺は落語「小言幸兵衛」の一部を独立させた噺です。最初は豆腐屋さんが来て、次に現れる借り手が、この搗米屋さんです。その次に仕立屋さんが来て息子を心中させてしまい、店子は見付からない。3人も応対すると1時間以上の長い落語になってしまいますから、この様な分け方もありなのでしょう。
1.古川町(港区南麻布1−6の南半分の半分)
2.長屋
右側の大通りに面した地主が裏側に長屋を構えています。また、大通りの店舗も貸家で商人に貸し出された(江戸東京博物館蔵)。 下図の略図でもその辺が分かります。
■大家(おおや);大家は長屋の管理人だけではなく、町役(ちょうやく)も兼ねていましたから、役所に提出する書類から訴訟の弁護人までやりました。その為、不具合の住居人がいると、責任をかぶる事があり、大家の一存で立ち退き請求が出来ました。このため、商売の職種にまで気を使いました。住人に対して細かなところまで介入していましたから、「大家は親も同然、店子(たなご)は子も同然」と言われました。大家も大変で、株を買わないと大家には成れなかった。
3.ステイション(ステーション)
その新橋駅は、中央停車場(大正9年の地図では東京停車場。現在の東京駅)が営業開始される大正3年(1914)に廃止され、それまで烏森(からすもり)と呼ばれていた駅に新橋の名を譲りました。その後、広大な敷地は貨物駅の汐留駅になりました。ステイション当時の駅舎は関東大震災で全焼、その後汐留駅の改良に伴い諸設備は解体されてしまったのです。
昭和61年(1986)に入って貨物駅は廃止され、再開発が行われ汐留地区のビル群が出現しました。その中に過去の新橋ステイションを同じ所に(図面が無く写真を元に)同じ意匠で再建され、博物館の趣を持って「旧新橋停車場・鉄道歴史展示室」が開館されています。
浮世絵に描かれた汽車達です。左から150形蒸気機関車(第1号機関車)。160形蒸気機関車、輸入された10両の内4両がこれです。下等用客車、車長4.6m、定員30人、当時の客車は通路はなく座席の壁に個別の扉が付いていて、車掌が1枚ずつ鍵を開閉した。この項、写真等「日本国有鉄道・百年写真史」より
「新橋駅で発車を待つ列車」 開化写真鏡〜写真からみる幕末から明治へ〜大和書房刊
2011.8.追加
4.搗米屋(つきごめや)
■荒物屋(あらものや);笊(ザル)・箒(ホウキ)・塵取りなどの日用雑貨を商う店。左図、細々と雑貨を扱っていた木戸番小屋。火付け等の番小屋の見張りですが、給金が安く雑貨や駄菓子の販売を認めた。
5.言葉
■仲人無しで;恋愛結婚。結婚は親が決めた相手とするのが当たり前の時代、それを好きあった同士が仲人も立てずに一緒になる事。
■狸や狐;舞台の江戸の麻布は草深いところで、狸や狐は犬猫のように多く住んでいたところです。隣町に狸穴(まみあな)と言う地名があり、ロシア大使館がありますが、そのぐらい狸が多く住んでいたのでしょう。狸たちは上野公園にも3〜40年前まで当たり前に住んでいました。王子稲荷にも裏山の崖に狐の穴がありますし、落語「権兵衛狸」でも、頭を刈られた狸の舞台は王子になっています。「本所七不思議」で狸や狐に化かされたという話がありますが、つい最近まで信じられていたのです。
石川啄木の短歌「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」は、上野駅ですが、新橋駅ではどうだったのでしょう。江戸が明治になってまもなくの頃ですが、東京も神奈川も横浜も訛りは同じだったと言うより、日本全国から集まった新政府の役人達ですから、全国あらゆる方言がごちゃ混ぜになった状態だったのでしょう。その意味では懐かしさも郷愁も感じませんが、当時の人にしてみれば汽車は文明開化の最右翼でした。西洋館もガス灯も電話もざん切り頭もその数ではありません。人力車夫が負けるかと競争して当然負けた話や、初めて乗る列車に履き物を脱いで乗ったら降りる時に無かったなど、数え上げたらキリのない逸話があります。
ステーションを新橋に見に来ました。汐留駅は国鉄時代の物流を支えた貨物操車場とセンター的な貨物駅でしたが、昭和61年(1934。この年国鉄民営化が国会を通過)貨物駅が廃止されて更地になっていました。汐留再開発地域と言う事で大手企業や特殊法人が大きな高層ビルを順次建設し、現在は完成された街並みになっています。日本テレビもここに本拠を移しています。その高層ビル群に囲まれた中に2階建てのクラシックな建物が北側の一角に建っています。それが日本で初めて鉄道開通した時の基点駅新橋駅の遺構の上に新しく建てられた旧新橋停車場です。当時の人がステイションと呼んだものです。
新橋駅の造りは終点駅(ターミナル)を頭に描いて造られています。路線を都心に延ばそうとしてもそれは不可能な事です。その辺の事情もあったのでしょう、新しい終着駅東京はその様には造られず、ターミナルでも通過駅の様相を最初から持っていました。その後、東京駅は北に路線を延ばし北の玄関口、上野から以北に路線がつながるのです。上野も終着駅タイプで造られましたが、現在の技術で2階化されたり、新幹線は地下に駅を造り東京駅に接続しています。技術の進歩が可能にしています。
狸が出てもおかしくない草深い麻布古川町にも、新しい事象であるステイションがお婆さんでも理解していたのは、その情報伝達速度の早さに驚らかされます。 地図 写真 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
旧新橋停車場(港区東新橋1−5)
旧新橋停車場(同ホーム)
旧新橋停車場(同0マイル基点) 旧新橋停車場(当時のレール)
東京駅(千代田区丸の内)
浅草・狸塚(台東区浅草2−3) 2011年7月記 |
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