落語「搗屋幸兵衛」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん朝の噺、「搗屋幸兵衛」(つきやこうべい)によると。
 

 町内を小言を言いながら一回りして帰ってきた。犬に小言を言って、天気にまで小言を言って、家では奥様に小言を言ってお茶を入れさせている。

 表通りの貸家を借りにきた男がいたが、借りる聞き方が悪いと小言。商売は豆腐屋で同業者も居ないから貨しても良いが、家族を聞くと「あっしとかかぁ一人だ」、「お前さんはカミさんを何人持つんだ」、「一人に決まってら」、「だったら、一人と断る事はない」。「子どもは」、「一人もひねり出さネェ〜。食べ物商売で、それが自慢だ」、「その一言で貸せない」、「おかしいな。普通大家は子どもが居ないと喜ぶんだが」、「そんな大家と一緒にするな。子宝と言って無くてはならないもんダ。だた、一・二ヶ月では出来ないが・・・」、「7年経ちます」、「7年経っても出来ない女だったら、別れて来い。子どもが出来る女を世話するから、別れろ」、「何だ、オマエに別れろと言われて『ハイ、そうですか』と言える仲ではないんだ。好いて好かれて、仲人無しで一緒になった仲だ。一緒になれないくらいだったら死んだ方がましだという仲だ。俺たちは一つの物を半分ずつ食うんだ。半分の物は四半分ずつ、四半分の物は四半半分ずつ・・・、無い物は食わネ〜。グズグズ言うと土手っ腹蹴破って汽車を叩き込むゾ、こんちくしょう」。と逃げていった。「貴方、あの人は上手い事言いましたね。汽車が通るなら、貴方のこの辺がステイションになりますね」。

 またお客さんが来た。「搗米屋で、空いていたら借りたいのですが・・・」と先程と違って丁寧な人だった。「搗米屋さんだったら、話があるからこちらにお上がりなさい」。
 「あすこは元、搗米屋さんが居たんですよ」、座布団を出して「チョイと話したい事がありましてナ。あの搗米屋さんは10年以上やっていました。私は大家になる前はあの搗米屋さんの隣で荒物屋をやっていました。初めての商売でした」、「それで、前の家はお借り出来るでしょうか」、「まァまァ、お聞きなさい。あとでトラブルにならないように、貴方が搗米屋さんだから言うんです。一生懸命に働いていたら、繁昌してきた」、「貸家の方は」、「ま、ま、お聞きなさい。その内、向こう横町の源兵衛さんが婚礼の話を持ってきた。まだ早いと言ったのですが、押し切られて婚礼の晩、嫁さんを見たら美人なんですよ。これは顔は良いが私の所に来るくらいだから、ダメ女なのかと思っていたら、よく働くし、その上私に親切だし・・・」、「私急ぎますので、このへんで」、「チョットお待ちなさいよ。借家の事で話しているんですよ。私は幸せだし、商売は繁盛するし良かったが、ままならない事が起こるもんです。ある時、早く体調を言えばいいものを土壇場で『休ませてくれ』と言った時は、手遅れで床の中から出られなかった。医者からも見放され、どうする事も出来なかった」、「誠にお取り込みの所、人に会う約束をしているので・・・」、「私の女房が生きるか死ぬと言う時に何て事を。貴方が搗米屋さんだから言っているんです。女房は気が付いて『私が亡くなった後は後添いをもらうでしょう。だったら、私の妹をもらってほしい』と懇願された。それは出来ないと言うと、枕元に妹を呼んで納得させた。仲人の源兵衛さんを呼んで経緯を話したら『分かった』と言ってくれたら、安心したのか帰らぬ人になってしまった」。
 「誠にご愁傷様です。それで、どうなりました?」、「美人の妹と一緒になったら、姉と違って若いし、よく働き、優しく私の面倒もよく見てくれた『お姉さんに言われてきたが、こんな幸せで良いんでしょうか』と言ってたが・・・、ウフフ、イイもんだ」、「結構じゃないですか」、「ところがしばらくすると、浮かない顔をして『姉さんが一緒になれと言ったが、ホントは焼き餅を焼いている』という。そんな事はない、どうしてなんだというと『朝、仏壇の掃除を済ませて、朝の仕事を終わらせて戻ると、お姉さんの位牌が後ろ向きになっている』、たまたまだろう『いえ、毎日の事です。やっぱり、お姉さんは私を恨んでいます』。私は翌日女房と一緒に仏壇の前で位牌が正面向いている事を確認し、朝の用事を済ませて仏壇の前に来ると、位牌が後ろ向きになっていた」、「ははぁ〜、それは不思議ですね。それでどうなりました」、「いくら出来た女でも、女の嫉妬は恐いな、と思ったが、妹はそれを気に病んで、床について、それがもとで亡くなってしまった」。
 「はぁ〜、なるほど」、「それでね、二人の菩提を弔い、二つの位牌を掃除して朝の仕事を片付けて戻ると、二つの位牌はそろって後ろ向き。私は怒って仏壇の中に大声で言いましたよ『私もこれだけ尽くしてきたのに、お前達二人はなんてイヤな事をするんだ』と怒鳴った。この地は草深いところだったから、狐狸が悪さをするのであろうと、その晩位牌を正面に向けて、タスキをして六尺棒を抱えて起きていた。夜がだんだん更けてきて深夜12時何もなかった。2時丑三つ時、何もなかった。身構えていたが3時になっても、4時になっても何もなかった。5時になると明るくなってきた。回りの家も起き出して戸を開け始めた。我が家も空けて、隣の搗米屋を見ると大戸を開けていた。直ぐ仕事に取りかかり、米を搗きだし、ズシン、ズシンと響いてきた。その響きに合わせて位牌が動き始めた。朝の仕事を終わらせて戻る頃、二つの位牌が後ろ向きになっていた」。
 「ははぁ〜、なるほど」、「先の女房は寿命で亡くなったから仕方がありませんよ。あとの女房は搗米屋が殺したのも同じなんだから。だから、搗米屋が越してくるなら仇を取ってやろうと待っていた。婆さん、薪だっぽを持って来い。女房の仇だ。動くな」、「冗談言っちゃいけない」。



 この噺は落語「小言幸兵衛」の一部を独立させた噺です。最初は豆腐屋さんが来て、次に現れる借り手が、この搗米屋さんです。その次に仕立屋さんが来て息子を心中させてしまい、店子は見付からない。3人も応対すると1時間以上の長い落語になってしまいますから、この様な分け方もありなのでしょう。

1.古川町(港区南麻布1−6の南半分の半分)
 古川の二の橋と三の橋の西側中程にある小さな小さな一画です。今行っても面積から小さな長屋が2〜3軒有ればいい方でしょう。でも今は象印マホービン(株)のビルが建っているだけで、長屋なんてありません。
 古地図で見ると、三角形の南側のとんがっている所は「三田古川町」と言い、今表通りになってしまいました。その東北側の角地は「麻布竜土地古川町」と言い、同じく表通りになってしまいました。その西側角地が舞台の「麻布古川町」です。東半分は歩道になり、かろうじて西側半分が道路から免れて今の象印マホービンのビルになっています。
 当時江戸の中心から見れば、江戸外れの草深い僻地です。それもそのはず、江戸市内の外れにやっと入っている町でした。そのまた小さな町が落語の舞台になるなんて、余程の何かがあったのでしょう。作者か演者が住んでいたとか、何か関わりがあったとかでなければ、このような地名を設定することがなかったでしょう。落語「小言幸兵衛」より
 草深く狐狸の出るところでしたが、地下鉄南北線、大江戸線が開通して、この近くの麻布十番駅を中心に、街は賑わいを深めています。

 

2.長屋
 江戸で代表的な長屋は、一番小さいサイズの「九尺二間」のワンルームです。間口1間半(9尺=2.7m)X奥行き2間(3.6m)。奥行き3尺の入口土間のタタキを入ると、1間巾の台所と言っても、へっつい(かまど)や水瓶、流しで満員。部屋が四畳半でそれっきりです。もう少し大きいのが「九尺二間半」で、部屋が六畳になります。どちらもトイレは屋外共同、井戸は長屋の真ん中に一つ、部屋には押入はありません。また、板敷きで畳は借り主が用意しました。隣との壁は薄く声は筒抜けですから、隣の状況は手に取るように分かり、近所づきあいも自然と良くなります。
 もう少し大きくなって、間取りも2部屋、その部屋も大きさが大小有って、手頃な大きさが選べます。その上に2階建てになって、下が台所と居間、2階に2部屋、落語「三軒長屋」の間取りがこれですし、稲荷町の正蔵(彦六)が住んでいた長屋がこれです。円生も柏木(新宿)の長屋で、いえ、マンションという現代長屋に住んでいました。

 右側の大通りに面した地主が裏側に長屋を構えています。また、大通りの店舗も貸家で商人に貸し出された(江戸東京博物館蔵)。 下図の略図でもその辺が分かります。

大家(おおや);大家は長屋の管理人だけではなく、町役(ちょうやく)も兼ねていましたから、役所に提出する書類から訴訟の弁護人までやりました。その為、不具合の住居人がいると、責任をかぶる事があり、大家の一存で立ち退き請求が出来ました。このため、商売の職種にまで気を使いました。住人に対して細かなところまで介入していましたから、「大家は親も同然、店子(たなご)は子も同然」と言われました。大家も大変で、株を買わないと大家には成れなかった。
 町人地に住む者たちは大きく分けて、三つの階層に別れていました。地主、地借(じしゃく)家持ち、店子(たなご)です。
地主とは、表通りに土地を持ち、家や店を構えている大商人や、御用達職人の棟梁といった旦那、親方衆です。
地借家持ちは、大通りに土地を借りて、自分の家や店を持つ、中堅の商人や職人層です。
店子は、土地はもとより家も持たない借家人で、表通りに面していない裏通りの住まい(裏店)、主として長屋の住人です。
 この噺の借家は表通りの、大きくはない空き店を借りに来る人達の情景を描いています。
解説の一部落語「小言幸兵衛」より 詳しくは左記に記述。

 

3.ステイション(ステーション)
 明治に入り、明治政府の肝いりで汽車が明治5年(1872)9月、新橋と横浜を営業運転で結びました。その時”駅”を庶民は”ステイション”と呼びました。東京の基点新橋駅の停車場は新橋ステイションと呼ばれていたのは、まだ訳語の停車場が生まれる前だったのです。


 完成直後の新橋ステーション アメリカ人建築家R・P・ブリジェンス設計の駅舎


 「東京名所之内新橋汐留蒸気車鉄道局停車館之真図」広重画

 その新橋駅は、中央停車場(大正9年の地図では東京停車場。現在の東京駅)が営業開始される大正3年(1914)に廃止され、それまで烏森(からすもり)と呼ばれていた駅に新橋の名を譲りました。その後、広大な敷地は貨物駅の汐留駅になりました。ステイション当時の駅舎は関東大震災で全焼、その後汐留駅の改良に伴い諸設備は解体されてしまったのです。

 昭和61年(1986)に入って貨物駅は廃止され、再開発が行われ汐留地区のビル群が出現しました。その中に過去の新橋ステイションを同じ所に(図面が無く写真を元に)同じ意匠で再建され、博物館の趣を持って「旧新橋停車場・鉄道歴史展示室」が開館されています。
 そのステイションを土手っ腹蹴破って叩き込むなんて、凄い啖呵です。下記その汽車です。

 浮世絵に描かれた汽車達です。左から150形蒸気機関車(第1号機関車)。160形蒸気機関車、輸入された10両の内4両がこれです。下等用客車、車長4.6m、定員30人、当時の客車は通路はなく座席の壁に個別の扉が付いていて、車掌が1枚ずつ鍵を開閉した。この項、写真等「日本国有鉄道・百年写真史」より 

  「新橋駅で発車を待つ列車」 開化写真鏡〜写真からみる幕末から明治へ〜大和書房刊 2011.8.追加

 

4.搗米屋(つきごめや)
 米屋さんには三種類の営業形態がありました。
一.精米されたお米を、五穀と一緒に販売するだけの店
二.店を構え臼をしつらえ、玄米を臼で挽いて、その精白した米を売る、お米屋さん。
三.注文のある家に臼を持ち込んで、そこで精米する搗米屋さん。
 この噺では二番のお米屋さんです。



 それと搗米屋さんには二種類の方法があって、
一つは、相手の家に行って搗く場合は臼を転がして杵を担いで出向き、そこで精米をした(上記三.の場合)。
もう一つは同二.の場合で、店の床に穴を掘り石で出来た臼をしつらえ、シーソーの足踏み式杵で搗いた。
上図;深川江戸資料館にて。これでは、ドスン、ドスンと地響きを立てるでしょうね。
 「しぶしぶに米屋の隣早く起き」 江戸川柳

  

荒物屋(あらものや);笊(ザル)・箒(ホウキ)・塵取りなどの日用雑貨を商う店。左図、細々と雑貨を扱っていた木戸番小屋。火付け等の番小屋の見張りですが、給金が安く雑貨や駄菓子の販売を認めた。
右図、臼を転がしてお得意さんの自宅まで出向き、そこで精米をした。どちらも熈代照覧より

 

5.言葉
小言;ぶつぶつ言う不平や文句。広辞苑では「小言幸兵衛」を、落語の一。口やかましい家主が、長屋を借りに来た人にさまざまな理由をつけて断る話。転じて、口やかましい人。
 志ん朝は小言を言う人を観察していると、小言を言っている時は喜々としていると言います。

仲人無しで;恋愛結婚。結婚は親が決めた相手とするのが当たり前の時代、それを好きあった同士が仲人も立てずに一緒になる事。

狸や狐;舞台の江戸の麻布は草深いところで、狸や狐は犬猫のように多く住んでいたところです。隣町に狸穴(まみあな)と言う地名があり、ロシア大使館がありますが、そのぐらい狸が多く住んでいたのでしょう。狸たちは上野公園にも3〜40年前まで当たり前に住んでいました。王子稲荷にも裏山の崖に狐の穴がありますし、落語「権兵衛狸」でも、頭を刈られた狸の舞台は王子になっています。「本所七不思議」で狸や狐に化かされたという話がありますが、つい最近まで信じられていたのです。

 



 舞台の新橋を歩く

 石川啄木の短歌「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」は、上野駅ですが、新橋駅ではどうだったのでしょう。江戸が明治になってまもなくの頃ですが、東京も神奈川も横浜も訛りは同じだったと言うより、日本全国から集まった新政府の役人達ですから、全国あらゆる方言がごちゃ混ぜになった状態だったのでしょう。その意味では懐かしさも郷愁も感じませんが、当時の人にしてみれば汽車は文明開化の最右翼でした。西洋館もガス灯も電話もざん切り頭もその数ではありません。人力車夫が負けるかと競争して当然負けた話や、初めて乗る列車に履き物を脱いで乗ったら降りる時に無かったなど、数え上げたらキリのない逸話があります。
 啄木は停車場という日本語訳を使っていますが、明治の5年頃は、今のパソコンと同じように日本語訳のない単語が溢れていた事でしょう。新しいシステムが導入されると、その開発国の言語がそのまま入ってきます。そのシステムが日本で根付き大衆のものになった時、本当の日本語の単語が生まれるのでしょう。ステーションが停車場になって、今では”駅”と呼ばれています。停車場ですら古き良き時代の語感を感じます。

 ステーションを新橋に見に来ました。汐留駅は国鉄時代の物流を支えた貨物操車場とセンター的な貨物駅でしたが、昭和61年(1934。この年国鉄民営化が国会を通過)貨物駅が廃止されて更地になっていました。汐留再開発地域と言う事で大手企業や特殊法人が大きな高層ビルを順次建設し、現在は完成された街並みになっています。日本テレビもここに本拠を移しています。その高層ビル群に囲まれた中に2階建てのクラシックな建物が北側の一角に建っています。それが日本で初めて鉄道開通した時の基点駅新橋駅の遺構の上に新しく建てられた旧新橋停車場です。当時の人がステイションと呼んだものです。
 鉄道は開通したが、搗米屋さんはまだ健在ですし、江戸のトップ商業地麹町は幕府倒壊と道連れになってその勢いを無くしますが、日本橋に対して銀座が商業の中心になっていきます。その銀座と新橋は目と鼻の先ですから、人の流れが変わるのでしょう。

 新橋駅の造りは終点駅(ターミナル)を頭に描いて造られています。路線を都心に延ばそうとしてもそれは不可能な事です。その辺の事情もあったのでしょう、新しい終着駅東京はその様には造られず、ターミナルでも通過駅の様相を最初から持っていました。その後、東京駅は北に路線を延ばし北の玄関口、上野から以北に路線がつながるのです。上野も終着駅タイプで造られましたが、現在の技術で2階化されたり、新幹線は地下に駅を造り東京駅に接続しています。技術の進歩が可能にしています。

 狸が出てもおかしくない草深い麻布古川町にも、新しい事象であるステイションがお婆さんでも理解していたのは、その情報伝達速度の早さに驚らかされます。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

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旧新橋停車場(港区東新橋1−5)
 汐留地区再開発事業で高層ビル群になった片隅に、元の位置に再建された新橋停車場駅舎。現在は鉄道歴史展示室になっています。
 新橋駅と横浜駅はR・P・ブリジェンス設計で、間口9.6m、奥行20.8mの2階建て2棟と、これを挟む平屋の中央広間とプラットホームからなっています。明治5年9月12日、ここに明治天皇ご来臨の上、開業式と横浜までの試乗がありました。

旧新橋停車場(同ホーム)
  ホームの長さ:151.5m、巾:9.1mありました。
 この元ホームから横浜(桜木町)に向けて、汽車は8時から18時まで毎時0分に発車していきました。所要時間53分(品川−横浜35分)です。(現在、東京−横浜間普通列車30分弱、特急22分前後です)。料金、東京−横浜が上等で1両2朱(直ぐ改訂され1円50銭)、中等3分(同1円)、下等1分2朱(同50銭)でした。(現在東京−横浜普通運賃480円)
途中駅、品川、川崎、鶴見、神奈川の4駅です。

旧新橋停車場(同0マイル基点)
 明治3年3月(1870.4)汐留の一角に、測量の基点として最初の杭が打ち込まれました。それがこの”0哩(マイル)”基点杭で、道路で言う日本橋の道路元標と同じです。頑張った結果、以外と早い鉄道工事だったのが分かります。 現在の鉄道基点は東京駅にあります。

 

旧新橋停車場(当時のレール)
 創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混ざった土を被せられ、路面電車のようにレールの頭だけが地表に出ていました(写真奥)。
 レール断面は上下対称の I 型で、双頭レールと呼ばれていました。このレールは錬鉄製で1873年イギリス製、官設鉄道で使われた後、新潟県柏崎市の精油所で使われたものを、寄贈されたものです。

東京駅(千代田区丸の内)
 東京駅は改修工事ラッシュです。東側の八重洲口は南北に高層ビルが建って、中央の大丸は撤去されて人口台地が造られ、南北を繋ぎます。西側の丸の内側は屋根ドームなどを新築当時にもどす工事をしています。駅前は美観上、今はグチャグチャです。

浅草・狸塚(台東区浅草2−3)
 汽車が走った同年に、上野を追われて浅草寺境内に住み着いた狸達が、乱行を始めたので、それを鎮めるために「鎮護堂」を建てた。数度の移転後、ここ伝法院の南に落ち着いた。
 ここには幇間の事を”たぬき”と呼んだ事から、「幇間塚」がある。久保田万太郎の句「またの名のたぬきづか春ふかきかな」が刻まれている。

                                                      2011年7月記

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