落語「雁風呂」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、「雁風呂」(がんぶろ)によると。
 

 水戸黄門様がわずか3人の供を連れて東海道を江戸から上ってきた。遠州掛川に着いた時、中食のため町はずれの茶屋に入った。そこにあった屏風の絵が立派で土佐派の将監(しょうげん)光信(みつのぶ)筆とまでは判った。見事な絵であると感じ入っていたが「松に雁金」とは妙な絵だと思った。その意味が判らなかった。

 そこに大坂の旦那と喜助の二人連れが入って来た。江戸に行っても上手くいくかどうか不安な旅で気が重かったが、喜助に七転び八起きだと励まされた。
 喜助に良いものを見せてあげると、奥の屏風を指さした。喜助は直ぐに『将監の雁風呂』と見抜いた。「でも、あの絵は評判が悪い。『松に鶴なら判るが、松に雁金はない。将監は腕に任せて絵空事を描いた』と判らない者達は酷評した」と、その裏側まで話していた。その上、武士でも判らないのが居て、武士ブシと言っても鰹節にもならないし、目は節穴だと腐(くさ)していた。
 それを聞いていた黄門様は松に雁金の絵解きを聞きたいからと、呼び寄せた。

 お解り無い事はないでしょうが、旅の徒然とお笑い下さって、親から聞いた話で、と語りだした。
 「描いてある松は、函館の浜辺にある俗に『一木(ひとき)の松』というのやそうです。日本を離れたはるか遠い所に常磐(ときわ)という国がござりまして、秋になりますと雁金が日本へ渡ってきます。春になると常磐に帰ります。雁は、故郷を出る時に柴をくわえて飛び、疲れるとそれを海の上に落としてそれに止まって休みます。何度も繰り返し、やっとの思いで函館の『一木の松』まで来ると、松の下へ柴を捨て、春になるまで日本中を飛び歩くのでございます。戻る時にまた要るだろうと、土地の人が直しておいて、春になると松の下に出しておきます。これを雁がくわえて常磐の国へ飛び立ち、あとにおびただしい柴が残りますと、その数だけ日本で雁が落ちたのかと憐れんで、土地の者がその柴で風呂を焚きます。行き来の難渋の者、修行者など、一夜の宿を致しましてその風呂に入れ、何がしかの金を持たせて発たせまするのも、雁金追善供養のためと、いまだに言い伝えております、函館の雁風呂というのはこれやそうです。
 それを将監が描いたので、『松に雁金という絵はない。腕に甘んじて絵空事を描いた』と言われては、苦心をした将監が気の毒じゃと親どもが話していたのを又聞きをしたので、間違っていたらお詫びをいたします。
 これは半双もので判りにくいのですが、一双ものには函館の天守台がちょっと見え、その下に紀貫之様の歌があって、
  ”秋は来て春帰りゆく雁(かりがね)の羽がい休めぬ函館の松“
でございましたか。これは『函館の雁風呂』と申すものです。」

 いたく黄門様は感じ入って、名前を問いただしてきたが、不淨の者だからと遠慮した。家来が「これ以上、名を伏すのは失礼に当たる。ここにおられるのは水戸黄門様だ」の声を聞いたとたん、土間に飛び降りて平伏していた。重ねて聞かれたので、「華奢に溺れた咎(とが)で、お取り潰しになった大坂の町人淀屋辰五郎せがれ、二代目淀屋辰五郎目にございます」。江戸に下るという淀屋に、用件を聞くと「親が存命中、柳沢様に三千両をご用立てしたがそのままで、昔日(せきじつ)ならともあれ、今の淀屋ではお返しいただかないと困るので、お屋敷に伺うところです」。
 「美濃守が借りっぱなしと言う事もないだろうが・・・、『雁風呂』の話を聞かせてもらったお礼にと」文をしたため、判がドンと座った。「これを持って美濃守殿に行き、もし下げ渡しがない時は水戸上屋敷に持参すれば早速金子御下げ渡しになる。三千両の御目録である。」と、渡された。
 西と東に別れて黄門様は出発。

 「お前ぐらいだ。黄門様を節穴にしたのは」、「旦那様ご安心なされ。三千両のお墨付き、柳沢様で払ってくれなければ、水戸様で払ってくれる。生で握っているようなもんでっせ。雁風呂での話で三千両とは高いカリ金ですな」、「その筈じゃ。貸し金を取りに行くのじゃ」。

 


1.柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)
 美濃守。江戸人物事典によると、柳沢 吉保 (やなぎさわ よしやす) 万治元年〜正徳4年(1658〜1714)。享年五十七。五代将軍綱吉(犬公方)の寵愛を一身に受け、破格の出世を遂げた、将軍綱吉の側近。綱吉が将軍就任以前の上野国館林藩主の頃から綱吉に仕えた。綱吉が将軍となって幕臣となってからは、数度の加増と昇進で、500石余りから15万石を超える大名に異例の出世を遂げた。老中上座として幕府最高権力者となり、元禄時代の幕政を主導した。松平姓と綱吉の一字を賜り、松平吉保と改名するなど、将軍のあまりの寵愛に様々な憶測も流れたが、川越藩主としての評判もよく、実直な人柄だったという。

 元禄15年4月明け方、柳沢邸の近くから出火、柳沢邸は類焼してしまった。すぐに将軍をはじめ諸大名から見舞いの金品が山ほど届き、美濃の焼け太り、と噂された。
 吉保は綱吉の絶大な信頼を得ていて、当然諸大名の昇進や更迭権を握っていた。そのため多くの賄賂も流れたであろうし、家宝の品を大名にねだることもあった。仕事熱心であった吉保が江戸城に残ることがあったが、各大名は競って夜食を差し出そうとした。しかし、幾日も先までその順番が決まっていて、割り込むことは出来なかった。

 しかし宝永6年2月19日(1709年3月29日)、権勢の後ろ盾とも言うべき綱吉が死去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣とその儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。同年6月3日(7月9日)、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号し、江戸本駒込の下屋敷(現・六義園)で過ごした。

 変人将軍として知られる綱吉のお守りが唯一まともに出来た傑物であった。賄賂の横行を助長したとか、自分の保身と栄達の為に権謀術数を尽くしたなどと言われているが、一方で無欲で潔い人間だったとも言われており、その人物像についてはよく分からないところが多い。ただ、旧来の幕閣や忠臣蔵信者を中心とする連中から嫌われたのは事実で、本人の人格や資質がどうであれ多くの人に嫌われたことが現在に至るまでのマイナスイメージを醸成させたと考えられる。 現在でもどんなに素晴らしい首相が現れたとしても、野党からすれば批判をされるのと同じです。

* 田沼意次(たぬまおきつぐ);享保4年(1719)−天明8年(1788)、十代将軍家治の側近で、彼ほど賄賂を盛んにした人物は居ない。賄賂を公然と認め、その多加によって動いたと言い、”賄賂の問屋”といわれ、周りにもその風潮を盛んにした。彼も六百石から五万七千石までになった。

六義園(りくぎえん);(文京区本駒込6−16)柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。元禄8年(1695)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、庭園部分約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を造り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。元禄15年(1702)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える。 柳沢家は次の吉里の代に甲府から大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。 明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園を整備された。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、昭和13年(1938)には東京市に寄贈され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。以後一般公開されるようになった。昭和28年、文化財保護法により国の特別名勝として指定されています。

上屋敷;神田橋御門内(地図内上部)から常磐橋御門(同右端)までの広大な屋敷があった。江戸の後期の切り絵図(地図)で見ると、出羽鶴岡藩(山形)酒井左衛門尉忠発屋敷と越前福井藩(福井)松平越前守慶永屋敷を合わせた22万余坪の敷地を持っていた。落語「三味線栗毛」の酒井雅楽頭の屋敷の東側に当たります。現在の千代田区大手町。

地図をクリックすると、元禄7年(1694)の「江戸図正大図」部分で吉保の上屋敷が確認出来ます。

2.徳川光圀(とくがわみつくに)
 寛永5年6月10日(1628.7.11)〜元禄13年12月6日(1701.1.14)、常陸国水戸藩第二代藩主。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・久子。徳川家康の孫に当たる。寛文元年(1661)頼房死去に伴い藩主となる。この間、放蕩無頼の行動が多かったが、18歳の時『史記』伯夷伝を読んで感動し、学問に志す。父・頼房の方針を継承し、藩政の整備に務め、水戸城下への上水道を創設した。また、寺社改革(寺院の半数を破却)や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行なわせた。
 明暦3年(1657)から、本格的な漢文の紀伝体による日本通史『大日本史』(全402巻。完成明治39年(1906)、着手後250年かかった。下図)の修史事業に着手し、平行して『礼儀類典』(朝廷における年中行事・践祚・国忌などのあらゆる儀礼に関する史料を集録した書。510巻、序目2巻、図絵3巻。)、および、
 『万葉代匠記』(契沖(けい ちゅう。万葉仮名を解読)著。1683年、徳川光圀の依頼を受けた下河辺長流の推挙によって着手、20巻・総釈1巻。)等を完成させ、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。また、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持ったが、生類憐れみの令に反対したため綱吉から嫌われた。元禄3年(1690)退隠し翌日、権中納言叙任された。退隠後西山荘に住み、文事に専念したが、気性の激しいところは治らなかった。水戸光圀としても知られる。 

黄門こうもん);唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名で、(中納言であったから)黄門という。 徳川光圀の異称、水戸黄門。(広辞苑)
中納言は全て黄門と言ったが、黄門と言えば光圀を指すようになった。

 水戸黄門;言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やTVドラマなどの題材とされた。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われる。『大日本史』の編纂に携わった中に助さんと格さんが居た。
左図;黄門様が使った実物印籠。ドラマの中の印籠とは違います。

 ■水戸家上屋敷;現在の文京区後楽、JR水道橋駅の北側。野球のメッカ、東京ドームがあるところで、一部に小石川後楽園として都立の庭園が残っています。落語「孝行糖」の舞台です。

全国行脚;水戸黄門様は全国行脚しています。これはTVや小説の水戸黄門漫遊記などの世界で、実際は隠居後関東近辺から出ていません。

 

3.淀屋辰五郎(よどやたつごろう)
 江戸で紀伊国屋文左衛門、上方では鴻池や淀屋辰五郎らの豪商が居た。
 宝永2年(1705)淀屋辰五郎の闕所(けっしょ)処分を受けたのは、その時期からしても廣當(こうとう。広当=ひろまさ)の時代であった。最後の当主、五代淀屋廣當、本名岡本三郎右衛門広当、辰五郎は通称、号は个庵(こあん)。貞享元年(1684)? - 享保2年12月21日(1718年1月22日)。元禄15年(1702)、十八歳で家督を継いでいます。各説有り。
 噺の中では、「先代が闕所処分を受けたので」と言っていますので六代目が水戸光圀と会ったのでしょうか。

 淀屋は、全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となり、幕府より闕所(けっしょ=財産没収)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国(ほうきのくに)久米郡倉吉(鳥取県中部)の地に番頭・牧田仁右衛門に暖簾分けして店を開き、後の世代に再び大坂の地で再興した。牧田家は八代目、孫三郎が没する明治28年(1895)まで続いた。
 淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。

米市(こめいち);江戸時代、米は経済の中心的な存在であった。年貢として納められた米は藩の蔵屋敷に蓄えられ、米問屋を介して現金化された。米は諸藩の財政の根幹をなし、米価の安定は経済の安定としても重要であった。しかし米の価格は仲買人によって無秩序に決められ、価格は米の質や量などを正しく反映したものではなかった。そこで淀屋は、米の質・量・価格の混乱を収めるため、全国の米相場の基準となる米市の設立を幕府に願い出て認められる事となった。
 淀屋は自身が拓いた中之島に米市を開き、また中之島に渡るため淀屋橋を私費で土佐堀川へ架けた。米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷が中之島には135棟も立ち並んでいた。また1620年代、全国の米の収穫は約2700万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約500万石が市場で取引きされていた。その4割の約200万石が大坂で取引きされていたと言われている。
 米市の取引きは場所を取る米を直接扱わず、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するという事が行われていた。それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する事になった。この淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされている。淀屋の米市は二代目の言當、三代目の箇斎、四代目の重當の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。井原西鶴は「日本永代蔵」の中で淀屋の繁栄ぶりを記している。
 その後の米市は、元禄10年(1697)に対岸に開拓された堂島新地(現在の堂島浜一丁目)に設立された堂島米市場に移された。堂島米市場では現物米を扱う正米取引のみが行われ、現物米と交換するための米切手を売買する事は禁じられていた。享保元年(1716)頃より始められた帳合米取引が、享保15年(1730)8月13日、幕府より公許され世界初の公設先物取引市場堂島米相場会所となった。

闕所(けっしょ);江戸時代の刑罰のひとつ。死罪・遠島・追放などの付加刑として、田畑・家屋敷・家財のすべてまたはいずれかを罪の軽重などに応じて没収すること。欠所。
 宝永2年(1705)5月、五代目の淀屋廣當が22歳の時(諸説有り)に幕府の命により闕所処分となった。廣當の通称である淀屋辰五郎の闕所処分として有名。
 闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万五千貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と各地の土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。また諸大名へ貸し付けていた金額は元利とも銀1億貫(100兆円超)にも上ったと言われる。
 闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが本当の理由であろうとされている。
 
その上と言うより主刑が、追放刑で江戸、京都、大坂に住む事を禁じられた。関西の主要都市だけの説もあり。細かい部分は伝説の領域になっています。
 しかし、真相は手代など5人が獄門(打ち首の上さらし首にする)に処せられ、広当は闕所で済んでいるのは、手代達が謀書、謀判のような幕府が死罪をもって対処するような大きな事犯があった。(朝日日本歴史人物事典)

淀屋橋;淀谷辰五郎が私財を出して架けた橋。大阪市の土佐堀川に架かる橋。中之島(北区)の南岸と船場側(中央区)を結ぶ。国の重要文化財に指定されている。またこの橋を中心とした地域名。

 

4.将監(しょうげん)
 将監は役職の名称で、名前は土佐光信(とさ・みつのぶ);生没年不詳(1434-1525 の説もあり)。 室町中・後期の土佐派の代表的な宮廷お抱えの絵師。絵師として最高の従四位下を受け、所領は5ヵ所におよんだ。土佐家系図は大永5年(1525)92歳で没したとするが、大永元年を期に記録から消え、同時に次代の光茂がそのあとを継いでいることから没年もこのころと推定される。
 応仁の乱のさなか文明元年(1469)に宮廷絵所預(長官)となり半世紀にわたりこれを独占した。さらに室町幕府の御抱絵師的な役割も果たしており、寺社、地方大名などにも関連した広範な画事に従事した。現存作品も多く、絵巻作品には「槻峯寺縁起」(1495、フーリア美術館蔵)、北野天満宮「北野天神縁起」(1503)、「清水寺縁起」(1517、東京国立博物館蔵)などの本格的なものから、「硯破草子」(1495)、「地蔵堂草子」などの小絵の作例がある。画風は水墨画法を導入して、これまでの土佐派のやまと絵画風を一変させた。
 
大画面の屏風作品にも才腕を振るったとされ、「松図屏風」(左図、東京国立博物館蔵)は将監作と伝承されている。風俗画の図様創案にも功績があった。
 画事のみではなく、三条西実隆をはじめ、甘露寺親長、中御門宣胤ら当時の文化人たちと交わり、晩年は連歌会にしばしば顔をみせ頭役なども務めている。(朝日日本歴史人物事典より要約)

5.雁(雁金とも書く)
(読み)かり;ガンがこの様に鳴くから、転じて、ガンのこと。
(読み)がん、かりがね;カモ目の大形の水鳥の総称。ハクチョウより小さく、カモより大きい。体形・生活状態はカモ類に似るが普通雌雄同色。北半球北部で繁殖し、日本では冬鳥。マガン・ヒシクイなどが多い。かり。秋の季語。

  

左から、サカツラガン、コクガン、マガン。広辞苑より。 これら全て雁。

 ■「松に雁金」;日本画には決まりというか収まりの良い組み合わせ、すなわち出会いがあった。松と言えば松に鶴、または松に日の出。雁と言えば、青田に雁、アシに雁、月に雁、月に坊主(ゴメン、花札は関係ない)等々。でもこの絵は松に雁では矛盾していると黄門一行は考え込んでいた。

「雁風呂や祈るばかりのもどかしさ」 ワシモ
「雁風呂の長湯あとのがさきになり」 柳樽
「念仏にとる風呂蓋や雁供養」 冬葉、
「雁風呂やあはれ幾羽のあたたかみ」 文岱


6.遠州掛川(かけがわ)
 静岡県掛川市。東海道五十三次で26番目の宿。江戸から箱根越えをして25番目の宿・日坂に入り、日坂から掛川まで約7km、掛川から袋井まで約10kmの地点、この先桑名、大津、京都に向かいます。江戸から約224km。
 江戸時代に東海道の主要宿場町として、また掛川城を核とした城下町から発達した静岡県西部の都市。茶の生産全国一の牧之原台地のすぐ西に位置している。

右上図;「東海道五十三次の内・掛川」 広重画 そうそう、掛川は凧揚げでも有名なところです。
右下図;「大池橋」明治の頃。上記広重が描いた橋で、掛川の宿を江戸から見て出たところにあります。
 秋葉山(あきばやま。現在の浜松市天竜区春野町。広重画の右上の山)を経て、信濃国へ通じる塩の道が交差している掛川宿でもあった。塩の道は、江戸時代以降は秋葉参詣のルートの一つとして秋葉街道とも呼ばれ、秋葉街道が分岐する大池橋より仰いだ図。現在も街道名として残る。
 両図共クリックすると大きくなります。

 

7.言葉
中食(ちゅうじき);昼食

常磐(ときわ)の国;日本の北にあったと思われていた雁が飛んでくる国。

半双(はんそう);一双の半分。対(ツイ)をなすものの片方。「屏風半双」

華奢(かしゃ);はなやかでおごること。はでに飾ること。貨車ではありません (^_-) 。

3000両;没収された財産から比べて、雀の涙程度であった。現在の価格に直して、約2億数千万円。

風呂;お風呂屋の事は、江戸では「湯〜屋」と言いました。上方では「風呂屋」。ここでもお分かりのように、この噺は上方の講釈から出ています。

貸し金の催促に;淀屋辰五郎事件後にも、幕府の命令で大名貸しがチャラになる事があり、それを恐れた大店や金貸しが大名に金を貸さなくなった。金の入りどこを失った大名が結局一番困ったと記録に残っています。それでも、大名側からは「貸してくれ」ではなく、「何時いつまで、金○千両用意しろ」と命令口調で差し紙が届いた。ご用立て金は年賦で返済されたが、毎回完済されず打ち切られた。

 

8.ヤボ
 せっかくここまで謎解きをしてきたのですが・・・、ヤボを承知で、

一.淀屋が闕所を申し付けられたのが宝永2年(1705)です。その五年前の元禄13年(1700)に没した水戸光圀と、掛川で出会うことは不可能な事です。また、その息子とはなお不可能です。

二.前にもチョット触れましたが、水戸黄門は全国を漫遊していなかった。

三.将監の時代、そもそも雁風呂の風習はなかった。津軽地方または函館の古民話から題材を取ったと言っていますが、その原話が見付かりません。心優しき方が後世創作されたのでしょう。
 と言う事は、将監の「雁風呂の絵」も無かったことに・・・。特に国宝級の将監の屏風が、地方の小さな茶屋に現存する訳がありません。

四.もう一つ、雁は自分の体重からして、そんな重い枯れ枝を口にくわえて飛びません。また、足につかんでも飛びません。それは雁にすれば、一瞬であったらくわえるでしょうが、飛行中ず〜っとでは自分が落ちてしまいます。また、雁は水に浮く事が出来ますから、枯れ枝をくわえる必要はありません。

五.淀屋を取り潰した張本人の柳沢のところへ、「金返せ」は、ありえません。下手すると手打ちになるでしょうが、ここまで来ると、「雁風呂」の虚構は、虚構として完璧な美しさをもって仕上げられて、見事としか言えません。「講釈師見てきたような嘘をつき」の鮮やかなところです。

 当時の人が、波打ち際に打ち上げられた小枝を雁がくわえてきたらと思い、この様な伝承を生んだのでしょう。心優しいイイ話です。
 



 舞台の大名庭園を歩く

 江戸地図(右が北)から、左側に江戸城があって綱吉が住んでいます。その大手門先に吉保の上屋敷がありますし、光圀は右側の水戸屋敷に住んでいます。いくら吉保の屋敷が大きいからと言って水戸屋敷にはかないません。右奥に隅田川が流れ、その手前に六義園が描かれています(六義園の先は省略されています)。中程下に上野の寛永寺と不忍池があり、その上に水戸家中屋敷(現東京大学)があります。舞台の位置関係が分かると思います。

 六義園、上記絵図の右端、当時は江戸の範囲の外側に近く、在です。下屋敷の東側の道、日光御成街道をここから北に行くと飛鳥山、王子稲荷があります。風光明媚な郊外だったのです。
 現在は都心のど真ん中ですが、隣の駅、巣鴨の南側に最後の将軍徳川慶喜が明治30年になって屋敷を構えて住んでいました。しかし、北側に鉄道建設(現在の山手線)が始まると、うるさくなると言って4年後文京区小日向に移っていった。そんな閑静なところだったのです。
 JR駒込駅を降りると南側に六義園があります。東京都が管理している庭園ですからいつ行っても素晴らしく四季を問わず美しいのですが、やはり、春の桜、ツツジ、秋の紅葉が見応えあります。その時期だけ駅の近くの北側の門が使えますが、通常は吉保が造った正門近くが出入り口です。園内は下記の写真集をご覧下さい。
 六義園の東側に走る日光御成街道を綱吉の気分になったつもりで江戸後期の切り絵図を参考に、私流で江戸城に向かいますと、左に八百屋お七で有名な吉祥寺、その先右側から合流する中仙道との交点が、駒込追分けです。その左手に水戸中屋敷があります。その先隣が加賀百万石のお屋敷で現在の東京大学、赤門もここにあります。本郷の街を抜けて湯島に入ると左に神田明神、右に昌平坂学問所の聖堂、昌平橋を渡って、南に道を取ると、神田橋です。渡って左が柳沢吉保美濃守上屋敷、右の酒井雅楽頭屋敷を右に回り込めば大手門です。総勢400人近いお供連れでの行列でした。

 小石川後楽園、水戸屋敷を大きく二分割された西側の庭園部分が現在残っています。東側の屋敷部分は明治に入って陸軍歩兵工廠として武器や弾薬などを造っていました。小倉に移転後、東京後楽園が買い取り野球場を建設、その後様々な娯楽施設が出来、現在東京ドームに社名変更しています。で、当時の面影は全くありません。本題の庭園入口は西側にありますから、JR水道橋駅からより飯田橋駅の方が近いと言います。
 ここも大名庭園ですから、都心にある日本庭園ではダントツの一級庭園です。春の花と秋の紅葉時期が見頃で、今回のような梅雨時の訪園は居ないと思ったら、来園者は切れません。ここも、六義園と同じように3月11日の大震災によって被害が出ています。文化財なので勝手に直すことが出来ず、文化庁の審査と予算が付かないと出来ないと嘆いています。今回も見て回った中でも、名所地点で行き止まりが各所にあります。地震災害では高層ビルや公共施設に目を奪われ勝ちですが、この様な自然に近い史跡の破損が多いのには驚きです。 

地図

  六義園前の地図から 

   小石川後楽園パンフレットより

地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

 

六義園(文京区本駒込6−16)
  柳沢吉保の下屋敷跡の大名庭園。吉保の「六義園記」では、日本風に「むくさのその」と呼ばせていましたが、現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから、「りくぎえん」と読みます。
クリックすると六義園内を案内します。

柳沢吉保上屋敷跡(千代田区大手町)
 神田橋西側(皇居より)から常磐橋の際まで吉保の上屋敷がありました。江戸後期の切り絵図で見ると酒井鶴岡藩邸と松平越前福井藩邸を合わせた広さの敷地にお屋敷を構えていました。
クリックすると大手町を案内します。

後楽園(文京区後楽一丁目)
 水戸家の上屋敷跡。水戸徳川家の初代藩主・頼房が造ったもので、二代藩主・光圀の代に完成した大名庭園。池を中心にした回遊式築山泉水庭で、文化財保護法で特別史跡、特別名勝に指定されている。園名の後楽園は「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」からきています。クリックすると小石川後楽園内を案内します。

                                                    2011年7月記

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