三遊亭円生の噺、「雁風呂」(がんぶろ)によると。
1.柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)
元禄15年4月明け方、柳沢邸の近くから出火、柳沢邸は類焼してしまった。すぐに将軍をはじめ諸大名から見舞いの金品が山ほど届き、美濃の焼け太り、と噂された。
しかし宝永6年2月19日(1709年3月29日)、権勢の後ろ盾とも言うべき綱吉が死去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣とその儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。同年6月3日(7月9日)、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号し、江戸本駒込の下屋敷(現・六義園)で過ごした。
変人将軍として知られる綱吉のお守りが唯一まともに出来た傑物であった。賄賂の横行を助長したとか、自分の保身と栄達の為に権謀術数を尽くしたなどと言われているが、一方で無欲で潔い人間だったとも言われており、その人物像についてはよく分からないところが多い。ただ、旧来の幕閣や忠臣蔵信者を中心とする連中から嫌われたのは事実で、本人の人格や資質がどうであれ多くの人に嫌われたことが現在に至るまでのマイナスイメージを醸成させたと考えられる。
現在でもどんなに素晴らしい首相が現れたとしても、野党からすれば批判をされるのと同じです。
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田沼意次(たぬまおきつぐ);享保4年(1719)−天明8年(1788)、十代将軍家治の側近で、彼ほど賄賂を盛んにした人物は居ない。賄賂を公然と認め、その多加によって動いたと言い、”賄賂の問屋”といわれ、周りにもその風潮を盛んにした。彼も六百石から五万七千石までになった。
■六義園(りくぎえん);(文京区本駒込6−16)柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園。元禄8年(1695)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、庭園部分約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を造り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。元禄15年(1702)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える。
柳沢家は次の吉里の代に甲府から大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。
明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園を整備された。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、昭和13年(1938)には東京市に寄贈され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。以後一般公開されるようになった。昭和28年、文化財保護法により国の特別名勝として指定されています。
■上屋敷;神田橋御門内(地図内上部)から常磐橋御門(同右端)までの広大な屋敷があった。江戸の後期の切り絵図(地図)で見ると、出羽鶴岡藩(山形)酒井左衛門尉忠発屋敷と越前福井藩(福井)松平越前守慶永屋敷を合わせた22万余坪の敷地を持っていた。落語「三味線栗毛」の酒井雅楽頭の屋敷の東側に当たります。現在の千代田区大手町。
地図をクリックすると、元禄7年(1694)の「江戸図正大図」部分で吉保の上屋敷が確認出来ます。
2.徳川光圀(とくがわみつくに)
■黄門(こうもん);唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名で、(中納言であったから)黄門という。 徳川光圀の異称、水戸黄門。(広辞苑)
水戸黄門;言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やTVドラマなどの題材とされた。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われる。『大日本史』の編纂に携わった中に助さんと格さんが居た。
■水戸家上屋敷;現在の文京区後楽、JR水道橋駅の北側。野球のメッカ、東京ドームがあるところで、一部に小石川後楽園として都立の庭園が残っています。落語「孝行糖」の舞台です。
■全国行脚;水戸黄門様は全国行脚しています。これはTVや小説の水戸黄門漫遊記などの世界で、実際は隠居後関東近辺から出ていません。
3.淀屋辰五郎(よどやたつごろう)
淀屋は、全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となり、幕府より闕所(けっしょ=財産没収)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国(ほうきのくに)久米郡倉吉(鳥取県中部)の地に番頭・牧田仁右衛門に暖簾分けして店を開き、後の世代に再び大坂の地で再興した。牧田家は八代目、孫三郎が没する明治28年(1895)まで続いた。
■米市(こめいち);江戸時代、米は経済の中心的な存在であった。年貢として納められた米は藩の蔵屋敷に蓄えられ、米問屋を介して現金化された。米は諸藩の財政の根幹をなし、米価の安定は経済の安定としても重要であった。しかし米の価格は仲買人によって無秩序に決められ、価格は米の質や量などを正しく反映したものではなかった。そこで淀屋は、米の質・量・価格の混乱を収めるため、全国の米相場の基準となる米市の設立を幕府に願い出て認められる事となった。
■闕所(けっしょ);江戸時代の刑罰のひとつ。死罪・遠島・追放などの付加刑として、田畑・家屋敷・家財のすべてまたはいずれかを罪の軽重などに応じて没収すること。欠所。
■淀屋橋;淀谷辰五郎が私財を出して架けた橋。大阪市の土佐堀川に架かる橋。中之島(北区)の南岸と船場側(中央区)を結ぶ。国の重要文化財に指定されている。またこの橋を中心とした地域名。
4.将監(しょうげん)
左から、サカツラガン、コクガン、マガン。広辞苑より。 これら全て雁。
■「松に雁金」;日本画には決まりというか収まりの良い組み合わせ、すなわち出会いがあった。松と言えば松に鶴、または松に日の出。雁と言えば、青田に雁、アシに雁、月に雁、月に坊主(ゴメン、花札は関係ない)等々。でもこの絵は松に雁では矛盾していると黄門一行は考え込んでいた。
「雁風呂や祈るばかりのもどかしさ」 ワシモ
6.遠州掛川(かけがわ)
右上図;「東海道五十三次の内・掛川」 広重画 そうそう、掛川は凧揚げでも有名なところです。
7.言葉
■常磐(ときわ)の国;日本の北にあったと思われていた雁が飛んでくる国。
■半双(はんそう);一双の半分。対(ツイ)をなすものの片方。「屏風半双」
■華奢(かしゃ);はなやかでおごること。はでに飾ること。貨車ではありません (^_-) 。
■3000両;没収された財産から比べて、雀の涙程度であった。現在の価格に直して、約2億数千万円。
■風呂;お風呂屋の事は、江戸では「湯〜屋」と言いました。上方では「風呂屋」。ここでもお分かりのように、この噺は上方の講釈から出ています。
■貸し金の催促に;淀屋辰五郎事件後にも、幕府の命令で大名貸しがチャラになる事があり、それを恐れた大店や金貸しが大名に金を貸さなくなった。金の入りどこを失った大名が結局一番困ったと記録に残っています。それでも、大名側からは「貸してくれ」ではなく、「何時いつまで、金○千両用意しろ」と命令口調で差し紙が届いた。ご用立て金は年賦で返済されたが、毎回完済されず打ち切られた。
8.ヤボ
一.淀屋が闕所を申し付けられたのが宝永2年(1705)です。その五年前の元禄13年(1700)に没した水戸光圀と、掛川で出会うことは不可能な事です。また、その息子とはなお不可能です。
二.前にもチョット触れましたが、水戸黄門は全国を漫遊していなかった。
三.将監の時代、そもそも雁風呂の風習はなかった。津軽地方または函館の古民話から題材を取ったと言っていますが、その原話が見付かりません。心優しき方が後世創作されたのでしょう。
四.もう一つ、雁は自分の体重からして、そんな重い枯れ枝を口にくわえて飛びません。また、足につかんでも飛びません。それは雁にすれば、一瞬であったらくわえるでしょうが、飛行中ず〜っとでは自分が落ちてしまいます。また、雁は水に浮く事が出来ますから、枯れ枝をくわえる必要はありません。
五.淀屋を取り潰した張本人の柳沢のところへ、「金返せ」は、ありえません。下手すると手打ちになるでしょうが、ここまで来ると、「雁風呂」の虚構は、虚構として完璧な美しさをもって仕上げられて、見事としか言えません。「講釈師見てきたような嘘をつき」の鮮やかなところです。
当時の人が、波打ち際に打ち上げられた小枝を雁がくわえてきたらと思い、この様な伝承を生んだのでしょう。心優しいイイ話です。
江戸地図(右が北)から、左側に江戸城があって綱吉が住んでいます。その大手門先に吉保の上屋敷がありますし、光圀は右側の水戸屋敷に住んでいます。いくら吉保の屋敷が大きいからと言って水戸屋敷にはかないません。右奥に隅田川が流れ、その手前に六義園が描かれています(六義園の先は省略されています)。中程下に上野の寛永寺と不忍池があり、その上に水戸家中屋敷(現東京大学)があります。舞台の位置関係が分かると思います。
六義園、上記絵図の右端、当時は江戸の範囲の外側に近く、在です。下屋敷の東側の道、日光御成街道をここから北に行くと飛鳥山、王子稲荷があります。風光明媚な郊外だったのです。
小石川後楽園、水戸屋敷を大きく二分割された西側の庭園部分が現在残っています。東側の屋敷部分は明治に入って陸軍歩兵工廠として武器や弾薬などを造っていました。小倉に移転後、東京後楽園が買い取り野球場を建設、その後様々な娯楽施設が出来、現在東京ドームに社名変更しています。で、当時の面影は全くありません。本題の庭園入口は西側にありますから、JR水道橋駅からより飯田橋駅の方が近いと言います。 地図
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六義園(文京区本駒込6−16)
柳沢吉保上屋敷跡(千代田区大手町)
後楽園(文京区後楽一丁目) 2011年7月記 |
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