落語「またかのお関」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭圓朝作、三遊亭円生の噺、「またかのお関」(またかのおせき)によると。
 

 お関は元品川の女郎であった。器量は良かったが、手癖が悪く枕探しと言ってお客の紙入れから中身を抜き取るなどは2回や3回ではきかず、”またか”と言われるほどで、またかのお関と呼ばれたしたたか者であった。

 車坂に邸宅を構え、静観堂(せいかんどう)という女易者の札を下げていた。これと夫婦になっていたのが広小路で名を売っていた、きんちゃっきりの小僧平吉(へいきち)。平吉が元勤めていた店の若旦那、惣次郎(そうじろう)という一人息子が、吉原の江戸町一丁目にある松葉屋の常盤木(ときわぎ)花魁に入れ込んでいた。年期(ねん)があけたら一緒になろうと約束までしていた。しかし、もう一人三ノ輪の天城豪右衛門(あまぎ_ごうえもん)という剣術指南が横恋慕していた。なびかないなら身請けしようと話が進んだが、常盤木はイヤさから死のうとしたが、先に身請けしてしまえばいいと惣次郎は方々に金策に回った。平吉に頼んだら請け合ってくれた。しかし、いくら平吉でも100両の大金、女房お関に話をしてもまとまらなかった。

 お関は肩が凝って流しの按摩を呼び入れた。
 その按摩は偶然にも品川時分の夫婦であった悪仲間の市五郎、別名新助であった。新助は毒薬ほしさに医者に奉公し医者殺しをして持ち出した。追っ手が恐いので按摩に化けて商いをしていたが、いい仲間になれるので一緒に江戸を離れて二人で仕事をしようと持ちかけた。耳かき一杯で人が死ぬという毒薬を見せた。捕まった時それを持っていたら逃げようがないと言って毒薬を預かり、酒の席になった。泊まっていくからと用意をさせるが、その毒薬を盛られて新助は絶命。懐を探ると75両が出てきたので、手持ち合わせて松葉屋に身請けを申し込んだ。常盤木は喜んだが、先約は三ノ輪なので挨拶に平吉が伺う事になった。

 道場に行って話をしたが聞き入れられず、弟子達に死ぬほど木刀でたたかれ放り出された。やっとの事で車坂に戻るとお関もビックリ、介抱して治ったが気がおさまらなかった。お関は私に任せなさいと時期を見計らっていた。

 梅雨の雨が降り続く日、女乗り物に乗って三ノ輪にやってきた。手前の若主人が入門したいからと酒肴、二千疋(びき)、金貨に直すと5両を渡し、門弟にと1両を別に包んだ。大した入門だと歓待され、お関も二十八九で色白、品もあって目元に色気を漂わせ、お召しも四五千石の大名の女隠居にしか見えなかった。北割り下水に住む横田織部の女隠居と自己紹介して挨拶が終わると、酒肴が運ばれ、酒が回るとお関の色香に豪右衛門もまいっていた。雨が強くなって泊まる事になった。
 酒を飲み過ぎたので、胸がつかえると湯の中に薬を入れて呑んだ。先生も如何かと薬(新助が持っていた毒薬)を加えて飲ませ、一番弟子藤三郎にも飲ませた。二人が苦しむのを見て、亭主平吉が出てきてこないだの仕返しだと告げ、自分と同じように木刀でたたくと新助のように黒いヘドを吐いて二人は死んでいった。連れてきた子分は先程渡した金子を探し出し、その上にせっかく入ったのだから金目のものはもらっていくという。
 「さて、この収まりはどの様に相成りますか、またかの折りにお話することにいたします」。

 


 この噺は三遊亭圓朝作の「緑林門松竹」(みどりのはやしかどのまつたけ)の後編です。
 前編があって、若旦那惣次郎が吉原の花魁常盤木に入れ込んで、身請けの資金(ここでは200両)が必要。上野池之端で会った平吉に50両の手形を渡され、これで現金に換えてこいと言われたが、ホントに現金に成るかと車坂の女易者に相談する。美人局(つつもたせ)のように酒を飲ませて色仕掛けと脅どしで手形を巻き上げられる。翌日、それを聞いた平吉が、素人のなりで女易者のところに押し掛け、押し問答をするが、奥から出てきた用心棒が昔世話をした男であった。それなら、ノシを付けて返すと言い、ちょくちょく通う内にお関と平吉は夫婦の仲になった。ある夜、按摩を頼むと、昔品川で夫婦になっていた、新吉であった。
 

「車坂」江戸名所図会  図をクリックすると大きくなります。

1.車坂
 上野寛永寺に登る東側の坂道。江戸時代、下寺と言って寛永寺の子院が東の崖下に11寺並んでいましたが、
現在はその地にJR上野駅があります。その為、登り口にあった車坂門とその上の車坂は当然無くなってしまいました。その場所は子院があって町屋はありません。登り口の下に小さな町屋があってそこにお関が住んでいた車坂町がありました。現在の上野駅前、台東区東上野7−3に当たります。また、その北側、東上野7−14にも同名の町がありました。

広小路;江戸に有名な広小路は3ヶ所あって、両国橋の東西橋詰めの「両国広小路」、浅草雷門前の「浅草広小路」、そして上野山下の「下谷広小路」がありました。 この噺では上野寛永寺下の広小路を言い、現在も御徒町駅前の交差点に広小路の名前が残っています。
 右図;「下谷広小路」広重画 現在の御徒町角の松坂屋デパートから上野山下とその先の上野の山を望む。

三ノ輪;台東区三ノ輪。天城豪右衛門(あまぎ_ごうえもん)という剣術指南が横恋慕していた。その道場があった地。

北割り下水;墨田区本所には北割り下水と南割り下水があった。通常南割り下水を単に割り下水と呼んでいて、埋め立てられて現在は北斎通りになっています。北割り下水も埋め立てられて春日通になっています。この地から浅草の吾妻橋を渡って真っ直ぐ西に向かえば上野山下から広小路に出ます。

 

2.江戸町一丁目(台東区千束四丁目32.33&40.41)
 吉原遊廓内江戸町一丁目松葉屋常盤木(ときわぎ)花魁に若旦那は入れあげていた。
 右図、当時の現物から切り取っていますから、白く虫食いの跡がある切り絵図から見ます。右側、日本堤の通りから曲がった五十間通りを入り、大門を入ると吉原でそこは奥まで通じる仲之町通り。最初の角を右に曲がると、そこが江戸町一丁目。その中に松葉屋が有ったのでしょう。

吉原(よしわら);江戸でただ一つ幕府が公認した遊廓。


明治東京名所図会「吉原各楼」 山本松谷画

品川(しながわ);江戸四宿の一つで、東海道、江戸から最初の宿場の品川新宿。ここには旅人が泊まるより遊女を置いた店が多く、岡場所と言われ男達が遊んだ。吉原より一段と遊女(飯盛り女)の質が落ちた。

花魁(おいらん);遊廓で働く遊女、娼妓、女郎。

年期(ねん);年期と書いて江戸では”ねん”と発音した。花魁は遊廓で働く年数が決まっていて、その期間を働けば廃業して遊廓から出る事が出来た。

身請け(みうけ);年期があければ自由ですから、好きな男と一緒に成れた。そこまで待てなければ、自分専用にトレードする事を身請けと言った。店で人気があって稼いでいる花魁や高額で入った花魁は、野球でも同じだが金額がかさんだ。通常、100両と言っても店に払うお金であって、この他にも仲間の花魁や下働きの者全員、回りの者にも祝儀を配り、店で祝いの盛大な宴会を開いた。 大変です、吉原で入れ込んでしまうと。

 

3.言葉
きんちゃっきり;スリ。

女乗り物;駕籠ですが女性用に意匠を凝らしたもの。

ひき【匹・疋】;銭を数える単位。古くは鳥目10文を1疋とし、後に25文を1疋とした。広辞苑
円生は「二千疋(びき)、金貨に直すと5両」と言っています。1両は江戸前期で公定相場4000文=400疋(10文1疋として)、5両で2000疋。
 なお、江戸後期で1両8000〜10000文=320〜400疋(25文1疋として)、5両で1600〜2000疋。
物価上昇があっても、疋で数えると同じ値を示します。江戸の知恵でしょう。

100両;毎回出てくる貨幣価値ですが、800万円から1000万円です。花魁一人身請けするのにピンからキリまで有りますが、高い遊女だったんですね。

器量が良くて悪女;お関のように女盛りで、器量が良くて品があっての外見とうって変わって内面が悪女であったりすると、見破るのは至難の業です。心の美女と莫連崩れ(ばくれんくづれ)の違いが分かるようになるには難しい。この様な女にえてして、男は引っかかってしまうんですよね。落語「名月八幡祭り」の縮屋新助や落語「笠と赤い風車」の常吉みたいなものです。
 



 舞台の下谷広小路を歩く

 

 御徒町駅を降りて西に湯島天神方向に向かいます。春日通りの車道側は言うにおよびませんが、歩道側の人通りもいつ来てもごった返しています。左手には御徒町で有名な清酒の陳列量ではダントツの吉池、先隣の松坂屋デパート、その先の交差点が上野広小路交差点です。広小路の表示が残っている交差点ですからうれしくなりますが、上野山下すなわち上野公園の上がり口までは、火災予防上火除け地として、道路を広く取っていましたから、そこまでを広小路と呼んでいました。

 交差点を右に曲がって上野山下に向かいます。左手には世界でここだけという落語の定席、上野鈴本演芸場が有ります。最近はいつ来ても満員だと言う事が不満の対象で、入りたいのに素通りして、次の不忍池南端から来る広い道に合流します。その前にあった、細い道の池之端仲町商店街が江戸からのメインストリートだったのです。この交差点に、不忍池から流れでる忍川に架かった橋が三橋で落語「黄金餅」で渡った橋ですし、「お富の貞操」で出てきた橋です。私には全く縁がない甘味処の”みはし”がここにあります。正面に上野の山に登る広い坂道が、公園正面入口です。その下、地下に降りていく入口が京成電車上野始発駅で、成田空港へ直接接続するスカイライナーが投入され元気です。中央通りの向にある最近出来た三角形のビルが、ヨドバシカメラで江戸時代までここに五条天神がありました。今は公園内の東照宮手前にご遷座しています。

 道路の左側には上野名物の”聚楽台”というデパートの最上階にある大衆食堂がありました。この下には安売りのお土産やさんが有りましたが、現在は老巧化のため取り壊されて、西郷さんの銅像の足元まで崩されて、建物が新築されています。今までは、西郷さんの銅像(上野の山)から山下や上野広小路が見渡せたのに、残念ながら工事中のためそれが出来ません。

 道路はJRのガードをくぐって、上野駅の正面に出ます。そこが江戸時代から言われていた山下です。
 駅前ロータリーの北端に出てくる街並みが車坂町で小さな町の中に、お関が看板を出していたのです。
上野駅正面口を背に真っ直ぐ東に向かえば、正蔵(彦六)が住んでいた稲荷町を越して浅草に、ロータリーを出て高速下の昭和通りを北に向かえば剣術の先生天城豪右衛門が道場を開いていた、三ノ輪から江戸時代の千住宿、北千住に出ます。ここは日光街道ですから、当然日光に至りますが現在は高速の東北自動車道路を使って移動します。はい、時代が変わりました。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

車坂町(台東区東上野7−3)
 上野駅東口正面。ロータリー左側が車坂町。左に車に並んで入って行ったところが、車坂入口ですが、現在は駅舎と上野駅があって、当時の面影は全くありません。正面の道を行くと稲荷町から浅草に至ります。

山下(上野駅南側)
 上野の山から見下ろしていますが、駅と山との間の上り坂の登り口。ガード下辺りから駅のロータリー(上記写真)にかけての地。バスが出てきたところから道は左に曲がると下記写真の広小路に出ます。三角形のビルがヨドバシカメラですが、そこに五条天神がありました。

上野広小路(上野四丁目に接する中央通り)
  上野公園南口から中央通り南を望んでいます。見える範囲が上野広小路と言われたところで、道は右にくの字に曲がっています。写真正面白いビルが松坂屋デパート、その交差点に広小路の表示があります。広重の浮世絵とは逆方向から見ています。

吉原入口の老舗(台東区日本堤一丁目)
 (日本堤)土手通りを吉原方向から渡って直ぐの店。左から桜鍋(馬肉料理)の「中江」、天麩羅屋の「伊勢屋」、路地を挟んで日本蕎麦屋「大村そば店」、みんな美味い店だから外まで並んでいる事が多い店です。

吉原遊廓江戸町一丁目(台東区千束四丁目の内)
 日本堤から衣紋坂と言われる五十間通りを抜けて、大門(おおもん)跡を通り、最初の角・交番前交差点を右に曲がると江戸町一丁目と言われたところです。冷やかしも居ない昼間の吉原はやはり色気がありませんね。なのに腰が引けた私ですから、その交差点から写真を撮っています。

三ノ輪(台東区三ノ輪)
 国道4号線・日光街道と都内を一周する明治通りが交差する要衝です。写真は三ノ輪交差点を背中に吉原入口の見返り柳方向を見ています。正面には高さ634mに達した東京スカイツリーが見えます。  

北割り下水跡(墨田区春日通り)
 現在埋め立てられて墨田区を東西に横断する春日通りになってしまいました。西端は隅田川に架かる厩(うまや)橋で、御徒町の上野広小路交差点に出ていきます。北割り下水の名称も、それを思い起こすようなものも有りません。

                                                    2011年6月記

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