三代目三遊亭円歌の噺、「紺田屋」(こんだや)によると。
■三社様(さんじゃさま);浅草神社。神社の創建年代ははっきりしませんが、「神社の宝物」として鎌倉時代・元久3年(1206)の銘のある古楽面「翁太夫」や、祭事に使用したと思われる舞樂面が多数残されていることから、すでにその頃には社殿があり祭礼が行われていたものと推定されています。
当初の祭神は隅田川で観音像を発見した土師中知(はじのなかとも)と檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の三人ですが、平安時代末期からの権現思想の流行もあって、中知の本地を「阿弥陀如来」、浜成の本地を「観世音菩薩」、竹成の本地を「勢至菩薩」として祀ったことから「三社権現社」と呼ばれました。
■仲見世(なかみせ);雷門から宝蔵門まで浅草寺正面の参道に並ぶ商店街。お土産を中心に食べ物、江戸小物などの店が並びます。
■蔵前(くらまえ);隅田川に架かる蔵前橋の西側の街。落語218話「道具屋」で歩いたところですから、そちらをご覧下さい。
■馬道(うまみち);「馬道」という町名は相当古くからあり、すでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣にあったのが北馬道町である。享保15年(1730)には二天門の右手に南馬道町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺門前街として発展したが、明治10年(1877)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和9年(1934)さらに浅草馬道町は隣接するいくつかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。
右図;名所江戸百景「猿若町よるの景」部分 広重画 街の中央を走る大通りには芝居小屋と芝居茶屋が並んでいます。
この近くに”初音の馬場”があり、馬の善し悪しを鑑定する人すなわち博労頭の高木源兵衛、富田半七らが住んでいたので、博労町から馬喰町になったと言われます。江戸時代は江戸に出てきて宿泊すると言えば、黙ってこの地、馬喰町です。 幕府は初期においては江戸に滞在する旅人の統制のため馬喰町以外の宿泊は禁止していた。江戸の旅籠屋は馬喰町に集中されており、この旅籠屋は大部分が公事(くじ)宿であって、訴訟をする者や役所に用事があるものが宿泊する宿であった。馬喰町には郡代屋敷があり、関東近辺でのもめ事、訴訟を引き受けていたので、その案件が解決するまで長期に滞在していた。そのため、郡代の役所に行くものとか、寺社の参詣に行くものが増え、近隣の町の旅籠屋の宿泊も認めざるを得ない程増えた。
衛生面で問題なのは虱(しらみ)、蚤(のみ)が出た。充分な消毒薬品や殺虫剤がない時代は一旦客に持ち込まれると彼らは繁殖力が強く、なかなか退治が難しかった。
3.言葉
■はこせこ【筥迫・函迫】;(筥狭子の意という)
女性がふところに挟んで持つ装身具。江戸時代、奥女中や武家中流以上の若い女性が紙入れとして使用。今は礼装の時などの装飾として用いる。広辞苑
■シラミ;【虱・蝨】シラミ目、広義にはハジラミ目を含めた昆虫の総称。哺乳類の皮膚に寄生し血液を吸う。体は、ふつう紡錘形で扁平、翅はなく、眼は退化している。ノミなどと違い、宿主の体から離れると間もなく死ぬ。ヒトジラミ・ケジラミ・イヌジラミ・ブタジラミなど。白虫(シラムシ)。半風子(ハンプウシ)とも。広辞苑
シラミについて、その写真、またその駆除法について。豊島区保健所のホームページにあります。写真もそこから
■西国八十八ヶ所;西国三十三ヵ所(さいごくさんじゅうさんかしょ)または西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33ヵ所の観音霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
■相の間(あいのま);合の間とも。主な二つの続き部屋または建物の間にある部屋。その間に入る襖(ふすま)を相の襖。
■向島の寮;向島の別荘。
■御薄(おうす);薄茶の丁寧な言い方。
左浅草寺で、右浅草神社。観音像を引き上げた二人の漁師と、それを祀った郷司の3人を祭神にした(三社様)浅草神社。そのお陰で、神社より大きくなった浅草寺。隣り合って建っています。明治までは二人三脚でやって来たのが、明治政府の強引な離婚要求で離ればなれになってしまいました。祀られている三社様はつい最近まで、その末裔が居て浅草寺の行事を手伝っていました。それが、浅草神社に取材に行くと浅草寺の事に関しては冷たく、それは向こうで聞いてくれと、別れた相手にはけんもほろろです。また、三人の末裔の話をしても「知りません」の一点張りです。そんなに二寺社の仲は冷え切ってしまったのでしょうか。
浅草寺本尊は1寸8分(約5.5cm)の金無垢の観音様と言われ、それは当寺から流失した観音様だという届け出が複数有ったというのは、いつの時代も人の考えは同じなのでしょう。しかし、大きさ金無垢は浅草寺側からは正式なコメントは全くありません。それもその筈、本尊の観音様は非公開、秘仏で封印され誰も見た事はないと言われています。その為前立ち観音を秘仏に似せて後世慈覚大師が彫り上げて、本尊の前に置かれています。その前立ち観音も秘仏で、普段は公開されていず、特別の日だけにご開帳されます。
昭和20年3月10日午前0時37分空襲警報が発令、東京大空襲の最中浅草寺はどうであったのであろうか。同じく浅井知道著「金龍山浅草寺本堂炎上」(私家版)から拾ってみると、
現実の舞台をやっと歩き出した私です。浅草寺本堂を背中に仁王門(宝蔵門)をくぐると、雷門までが仲見世です。本堂前よりお土産屋さんの仲見世の方が参拝客は多いように見えます。ここで、蔵前の旦那は広告を拾ったのでしょう。『信じる者は救われる』。あれれ、別の宗教の宣伝文句でした。
戻って、本堂前を右(東)に行くと浅草神社(写真上)を過ぎて、二天門をくぐり表通りに出ます。そこが馬道で、道の浅草寺側には過去、馬道町(浅草北馬道町、浅草馬道町、浅草南馬道町)がありました。馬道を北に
馬道交差点と隅田川の中程の左側に旧猿若町が現れます。ここに新七の紺田屋があったのです。また、前出の浅井氏が住んでいたのもここ猿若町です。左に町中に入って行くと、中村座跡、市村座跡、守田座跡などの碑石や案内板が建っています。表通りの言問通りに出るとその先は隅田川に架かる言問橋です。 地図 写真 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
浅草寺(台東区浅草二丁目3−1)
伝法院(浅草寺境内)
三社様(台東区浅草二丁目3 浅草寺境内、浅草神社)
仲見世(浅草寺参道の商店街) 馬道(浅草寺東側に南北に走る道路)
猿若町(台東区浅草六丁目の内)
言問橋(墨田川に架かり、浅草寺北を走る言問通りを渡す)
蔵前(台東区蔵前)
馬喰町(中央区日本橋馬喰町) 2011年6月記 |
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