落語「道具屋」の舞台を歩く
   

 

 柳家小さんの噺、「道具屋」(どうぐや)によると。
 

 与太郎さんが大家に呼ばれて来てみると、お袋さんが泣いてたという。「年増を泣かすのは、つれー」、「バカ、親を泣かせてなにが年増だ」。三十過ぎて遊んでいたらいけないので、何か商売をしろと言う。
 商売は懲りている。前に、元手がかからないようにと、伝書鳩を飼った。売ってしまって相手が放すと戻ってくる、また売って、それも帰ってくる、で、一羽有れば儲かる。しかし、買って放したら鳥屋に行ってしまった。
 おじさんの商売をやらせてあげる。「知っているよ。商売の頭に”ど”の字が付くだろ」、「そうだ」、「えへへ、ドロボウだろう。泥棒」、「バカだな。”ど”が付いたって道具屋だ。そんな事、世間様には言わないだろう」、「少しだけ」。
 「その道具屋をやらせてやる」。

 道具屋と言ってもガラクタばかり扱い、行李を開けるとゴミ同様な商品が出てきた。お雛様の首が抜けるのや、火事場で拾ってきたノコギリ、ボラがそうめんを食べているかと思う、鯉の滝登りの掛け軸、等々。元帳があるから、それより高く売れたら、儲けの分はお前のだ。
 蔵前の伊勢屋さんと言う質屋さんの裏のレンガ塀のところだ。今すぐ行け。

 蔵前に来ると同業者が並んで商いをしていた。「神田三河町の杢兵衛のところから来た、与太郎さんだ」と自己紹介して仲間に入れてもらった。脇に薄縁を敷き、値段の高いのは自分の回りに、立てかける物は後ろの塀に品物を並べたが客は来ない。大きな声で呼び止めたが、行ってしまった。オートバイに乗っていたら、それは無理。

 お客が来た。「お二階へどうぞ!」、「どこに二階があるんだ」、「では、前の屋根にどうぞ」と景気を付けた。「そこのエンマを見せろ」、「閻魔様なら新宿の太宗寺に行きなさい」、「そこの釘抜きだ。・・・ガタガタで使えない。そこのノコ見せろ」、「ノコってタケノコ?ノコに有る。アッこれノコギリか、ギリ(義理)を欠いちゃいけない」、「これは甘いな」、「サッカリンでも入っていますか」、「腰が抜けている」、「中気になったかな」、「焼きが生くらだな」、「そんなことは無いですよ。おじさんが火事場で拾ったんだからよく焼けています」。出だしで失敗し、隣の親方に叱られ、相手の買う気を引き出さなくてはダメだとう。

 次のお客が来た。「そこの唐詩選(とうしせん)を見せなさい」、「これは貴方には読めません」、「失礼なこと言うな。読めるよ」、「読めません。それは表紙だけですから」。「黒くて長いのは、万年青(おもと)の鉢か」、「いえ、ツバの取れたシルクハットです」。「奥の目覚まし時計を見せなさい」、「これはダメです。外だけで中身がないので、針は自分で回しなさい」。「真鍮の燭台は」、「3本足だったのが、2本足だから後ろの塀に寄り掛けてある」、「買っても使えないな」、「いえ、レンガ壁ごとお買い下さい」。おまえは籐四郎だ、と言えば、与太郎だ。「そこの短刀を見せな」、「タントは有りません」、「その白鞘の短刀だ。銘はあるか」、「めいは神田に住んでいます」、「サビ付いていて抜けないな。手伝え」、一生懸命二人で引き合うが抜けない。「抜けないはずです。木刀ですから」、「木刀なのに何故手伝う」、「顔を立てました」、「顔なんかイイ。抜けるのはないのか」、
「お雛様の首が抜けるのが」。

 


 
 この噺、楷書の小さんの噺を取りましたが、橘屋圓蔵のテンポも捨てがたい。圓蔵の噺ではこの後続きがあります。
 「笛を見せろと言うので見せると、笛の穴に突っ込んだ指がどうしても抜けなくなってしまった。それでは買ってくれと言うと、お金の持ち合わせがないので家まで付いて行く。格子窓から中を覗くと、指を抜こうとしているので、「ダメだよ。ダメ。買ってくださ〜い」と騒いでいると、頭が格子に挟まって取れなくなってしまった。与太郎さん「おじさ〜ん。この格子いくら?」。

 また、通常演目時間が有れば、ヒョロッとすればビリっと破れてしまうような「ヒョロビリの股引」も売ります。最初の客を逃がすと、隣の親方が”小便をされた”といいます。業界用語で冷やかしの客を”小便をした”と言うことを教えます。今度の客には小便はさせないと張り切る与太郎さん。股引を買いたそうにしている客に向かって「その股引は小便が出来ませんよ」、「え。出来そうだがな」、「出来ません」、「出来ないんだったら、しょうがない」と帰ってしまう。はじめて小便違いが分かって「お客さ〜ん、それは出来ま〜ーす」。

1.蔵前
 この地は、江戸時代の大川(隅田川)沿いに幕府の米蔵(浅草御米蔵)があったことに由来します。
 この米蔵は、元和元年(1614)ごろ、鳥越の丘をけずり、その土砂で西岸の隅田河岸を埋め立てて作られました。この米蔵は、幕府の直轄地からの米を蓄えるための米蔵で、備蓄米以外は、領地を持たない旗本・御家人の禄米として支給されました。このころから御米蔵周辺に札差業という職業が興り、蔵前の地も商人の街として、それまで以上に益々繁盛していきました。禄米は実際には現物支給されず、小切手で渡されました。受け取った武家では自家消費米以外は、現金にして家計を営んでいましたが、そのお米と現金の両替を札差しがしたのです。当時、武士よりも蔵前界隈の札差しの方が羽振りが良かったのは当たり前です。
 その為、江戸では、麦、芋などは主食とせず、もっぱら米でした。またそれを江戸っ子は誇りにしていました。

 * 圓蔵は舞台を蔵前八幡(台東区蔵前三丁目14 蔵前神社)としています。蔵前八幡は落語「元犬」、「佐野山」で歩いた神社です。
  江戸城鬼門除けとして五代将軍綱吉が京都山城国より石(いわ)清水八幡宮を勧進奉斎し蔵前八幡としたのが始まりで、昭和26年3月蔵前神社と名を変えています。
  相撲とは縁が深く、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には大関雷電などの名力士もここで活躍した。天明2年(1782)2月場所7日目、安政7年(1778)以来実に63連勝中の谷風が新進の小野川に「渡し込み」で敗れた一番は、ここで行われ江戸中を騒がせた。

神田三河町(かんだみかわちょう);杢兵衛さんと与太郎さんの住まい。神田三河町という町名はなく、単に三河町と呼ばれ、一丁目から四丁目までありました。現在の外堀通り西側の千代田区内神田一丁目から北に神田司町二丁目(一丁目の無い不思議な街)と南北に細長い街です。

新宿の太宗寺;(たいそうじ、新宿区新宿二丁目9)浄土宗・霞関山本覚院太宗寺。閻魔様を祀り、江戸六地蔵等を置く。
 慶長元年(1596)ごろに僧・太宗が開いた「太宗庵」が前身。寛永6年(1629)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行い、これを契機に内藤氏との縁が深まり、寛文8年(1668)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け創建された。元禄4年(1691)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれた。改葬されて3基の墓石が現存する。
 江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番が境内にある。また、閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきた。
 他に新宿山手七福神の一つである布袋尊像、三日月不動像、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」などがある。 不動像が有るために、寺前の道路を「不動通り」商店街と言います。



2.道具屋

 「道具屋」三谷一馬画 江戸見世屋図聚・中央公論新社より

 道具屋と言ってもピンからキリまでで、国宝級の骨董を扱う店から、古道具屋、この噺のようなゴミを扱うものまであります。上記の絵のように「唐物屋」という(中国)唐からの輸入品を扱う道具屋もあります。落語「金明竹」(きんめいちく)に登場の中橋の加賀屋佐吉では、国宝級のものばかり扱っています。また、上方の茶道具屋茶屋金兵衛、通称”茶金”ほどの目利きは居なかったでしょうし、江戸では「火焔太鼓」のお殿様、また、「井戸の茶碗」の殿様の所で茶碗を目利きをした人などは当代一の目利き師だったのでしょう。

 

3.言葉
行李(こうり);旅行用の荷物入れ。竹または柳で編み、つづらのようにつくったもの。衣類入れにも使う。
右;「行李」 府中家具木工資料館蔵 ホームページより

元帳(もとちょう);仕入れ原価の書かれた元になる帳簿。商売の動きを書き留める複式簿記の元帳とは違います。原価帳。

薄縁(うすべり);裏をつけ、縁をつけたムシロで、家の中や縁側に敷くもの。

エンマ;閻魔様はウソを付く者の舌を抜くと言う。その時に使う、ヤットコ状の釘抜きを使うので、これをエンマという。右図
 閻魔と言われて、即座に新宿の太宗寺と出るのは、与太郎さん、なかなかの知恵者です。

中気(ちゅうき);中風。半身の不随、腕または脚の麻痺する病気。脳または脊髄の出血・軟化・炎症などの器質的変化によって起るが、一般には脳出血後に残る麻痺状態をいう。古くは風気に傷つけられたものの意で、風邪の一症状。

唐詩選(とうしせん);明の李攀竜(りはんりょう、1514-1570年)が編纂したといわれる唐代の漢詩選集。出版年代は李攀竜の死後、16世紀末から17世紀初頭とされる。『唐詩三百首』と並んで良く読まれ、特に江戸時代には広く読まれベストセラーになった。

 
万年青(おもと)の(はち);万年青はユリ科の多年草。西日本山地の陰地に自生。葉は根茎から叢生し、30cmに及び、革質常緑。夏、葉間から花茎を出し、穂状に緑黄色の細花をつけ、のち赤色の液果を結ぶ。園芸品種が多い(上)。この鉢は落語にも出てくるように、シルクハットを小さくしてひっくり返したような形をしています。

シルクハット(silk hat);男子の正式礼装用帽子。頂上が平らな円筒型の高いクラウン(山部)に、ややそり上がったツバがつく。黒の光沢のある生地のものが正式。いくらなんでも、大きさが違います。

燭台(しょくだい);食台ではなく、蝋燭を立てて火を点ずる台。多くは持ち運びでき、手に携えるもの、壁に掛けるものなどもある。

とうしろう;素人(しろうと)を人名っぽく呼んだもの。籐四郎と書き、これは「しろうと」を逆さ読みしたもの。素人、専門でない人。

白鞘(しらざや);白木で造った刀の鞘。また、その刀。噺では、抜けば玉散る氷の刃が出てくると思ったら・・・。

*木刀は抜けません。右写真 浅草仲見世にて

(めい);刀剣など器物に付けた作者の名。刻まれていないものを「無銘」という。

股引(ももひき);現在は冬の寒い時期保温用にはく下ばき。この噺では、職人がはく紺色の綿で出来たズボン状の作業用服で、今は祭りではかれる。この上に前掛け状のドンブリを着けて、半纏を羽織るといっぱしの職人になる。

 

4.与太郎話
 小さんがこの噺のマクラで使っている与太郎話を紹介しましょう。
●夜ぶん、弟は「キラキラしているあれ(星)を取りたくて竿を振り回しているんだ」、それを聞いた兄は「それでは届かない。屋根に上がれ、屋根に」、そこに親父が顔を見せ「バカだな。あれは落ちないよ。あれは雨の降る穴だ」。

●「赤い顔しているがどうしたんだ」、「そこで、酒粕食べて、酔っぱらっちゃった」、「よせよ、イイ若い者が。そんな時は『酒を飲んだんだ』と言え。威勢がイイだろう」。で、与太郎さん、八っつぁんと出合ったので、
 「顔が赤いだろう」、「どうした。悪い魚でも食ったか」、「違うよ。酒を飲んじゃった」、「お前は酒が飲めたかな〜。赤いところを見ると相当飲んだな」、「この位の欠けら2枚」、「酒粕を食ったな。見なくても分から〜。2枚と言うから分かるんで、そー言う時は『2杯飲んだ』と言え」と教わった。
 「おばさん、あたいの顔赤いだろ」、「どうしたの」、「お酒を2杯ぐ〜っと飲んだの」、「それはいいけど、飲めないアンタなんだから、冷やは毒だけど、お燗をしたのかい」、「いいや、焼いて食った」。

 



 舞台の蔵前を歩く

 

 隅田川東岸、国技館がある横網(よこあみ)から蔵前橋を渡った右側、茶色の建物で下水道ポンプ場フェンス前に「浅草御蔵跡」の碑が建っています。この碑の説明板を要約すると、
 『浅草御蔵は、江戸幕府が年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫が有った。江戸で三御蔵といわれた一つで、ここの米は、旗本、御家人の給米用に供された。元和六年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の地域を埋め立てて造営した』。
 下記の地図を参照してもらうと分かるように、櫛形の堀があって船が接岸しやすくなっていて、その陸上部に倉庫が林立していた。今は埋め立てられて、当時の様子は垣間見られないのが残念。

 幕府の御蔵があったので、その前の町を「蔵前」と呼んだ。

 御蔵跡の碑がある(通りを渡った)反対側には、首尾の松の幼木が立っています。今回は複数本が植えられていますので、1本位枯れても大丈夫でしょう。その隣の説明板を要約すると、
 『初代「首尾の松」は、安永年間(1772-80)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854-59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも震災、戦災で全焼してしまった。現在の松は七代目といわれている。台東区教育委員会』。
 右図;絵本隅田川両岸一覧「首尾の松」北斎画

 蔵前橋を渡った最初の交差点。左に行けば浅草橋から日本橋、右に蔵前神社、厩(うまや)橋から浅草。道を渡った左が、天文台跡です。またまたその説明板によると、
 『この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目21〜24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台が置かれていた。
 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、正式の名を「頒暦所(はんれきじよ)御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設てあり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 葛飾北斎の『富嶽百景』の内、「鳥越の不二」(右図)には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。
 明治2年に新政府によって廃止された。 台東区教育委員会』。

 寛政7年(1795)この浅草天文台で伊能忠敬(51才の時)は、江戸に出て幕府天文方高橋至時(よしとき)に天文学(暦学)・測量学を学んだ。その結果、日本全図の地図を完成させた。

 蔵前通りを真っ直ぐ行くと、すぐ右側に「鳥越神社」が見えます。
 永承年間(1046-1053)の事、奥州安部氏の反乱を源 頼義・義家親子が鎮定するため、この地に来たが、宮戸川(隅田川)の河口を越えることに大変苦労した。その時、一羽の白鳥(しらとり)が飛んできて、親子の目の前で川の浅瀬に下り立ち、そこならば、対岸に渡れる事を悟してくれた。そのおかげで、軍勢を無事対岸に渡すことに成功した。義家はこれ、白鳥明神の御加護であると、鳥越大明神の御社号を奉った。以後、白鳥明神を鳥越神社と称されるようになった。
 また、震災により、焼失した御神輿は、昭和3年復元され、鳥越の千貫神輿と呼ばれる。鳥越神社の夜まつり千貫神輿の渡御は幻想な中にも勇壮なお祭りとして有名。

 元の蔵前一丁目交差点に戻り、江戸通りを北の浅草方面に向かいます。

 厩橋交差点手前を左に入ると、蔵前神社に出ます。ここは圓蔵の噺では与太郎が道具屋を出したところだと言っています。この神社は八幡神社と言われていましたが、昭和になって今の蔵前神社と名前を変えています。落語「元犬」で歩いたところで、元犬の”白”の像が建っています。石垣には往年の名力士の名が刻まれていて、ここに足が1本欠けた燭台などを寄り掛けたのでしょうか。
 その北側に落語「蔵前駕籠」で追い剥ぎが出るという、榧(かや)寺があり、その前の道路が春日通りと呼ばれ、右(東)に出れば、隅田川に架かる厩橋に出ます。この橋上からも建設途中の東京スカイツリーが見えます。

 話変わって、現在の道具屋、フリーマーケットです。↓そっれて、ション便出来ませんから。

 店での失敗はどこにもあるもの、フリーマーケットで、毛皮のコートを三千円で売ったと得意になっていたお父さんでしたが、帰ってきたお母さんは私のコートがないと騒ぎ始めました。三千円で売ったと自慢したら、あれは私物で売り物でない。その上あれは何十万もした物なのだと、夫婦喧嘩。
 私は得意になって買ってきた物が使えず、泣く泣く廃棄処分に。息子曰く「安物買いの銭失い」。ハイ、その通り。でも、掃きだめから鶴、砂の中から光るものが出てきた時はうれしいものです。フリーマーケットでは、価値観の違いで、売り手にとって価値がない物であっても、それが猫に小判であったりすると、買い手から見れば宝物です。でも、値踏みが出来るようになるのは、やはり月謝が要るようです。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

蔵前橋(隅田川に架かり蔵前通りを渡す)
 隅田川西岸に幕府御蔵が有った事から、地名蔵前、そしてこの橋名が付いた。下記の首尾の松や御蔵前碑が、蔵前橋を渡った前方両側にあります。そこが現在の蔵前(町)です。  

首尾の松(しゅびのまつ、台東区蔵前一丁目3)
 この碑から約100m下流の、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように延びていた名松「首尾の松」があった。その由来については次のような譜説がある。
 寛永年間(1624-43)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので称したという。
 吉原に遊びに行く遊び人たちは、隅田川を上り下りする船中この松陰によって「首尾」を語ったところからの説。
 首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで浅草海苔をとるために「ひび」を水中に立てたのが、訛って首尾となった。

御蔵前碑(台東区蔵前二丁目1)
 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれた。浅草御蔵(浅草御米蔵)の米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
 元和六年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716-36)頃までに浅草御蔵に吸収された。

蔵前一丁目交差点(蔵前通りと江戸通りの交差点)
 蔵前橋を渡った最初の交差点。写真左に行けば浅草橋から日本橋、右に厩(うまや)橋から浅草。道を渡った左が、天文台跡、その先右側(写真には写っていない)に鳥越神社が有ります。この辺一帯が蔵前と呼ばれる町です。

蔵前神社(くらまえじんじゃ、台東区蔵前三丁目14)
 
江戸城鬼門除けとして五代将軍綱吉が京都山城国より石(いわ)清水八幡宮を勧進奉斎し蔵前八幡としたのが始まりで、昭和26年3月蔵前神社と名を変えています。相撲でも有名な八幡神社。
 蔵前八幡は落語「元犬」で歩いた神社です。

三河町(千代田区内神田一丁目から北に神田司町二丁目)
 今の神田駅西側に数分の、オフィス街が連なる地域です。ご覧のように神田っ子が歩き回っている姿は、想像しても無駄な努力です。蔵前までは約3km弱です。江戸の時代は近い距離だったのでしょう。吉原まではその約倍有りますから、そんなに苦労する距離ではありません。

閻魔(えんま、新宿区二丁目9 太宗寺)新宿区指定有形民俗文化財
 木造彩色、総高550cmの像で、目をむき大きなロをあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子供のしつけのため参拝されたとも。そんなに大きくは見えなかったのだが・・・。
 文化11年(1814)に安置、製作と推定。しかし、数度の火災による度重なる補修を受け、製作当初の部分は頭部のみとなった。
 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集め、かつては藪入りに閻魔大王の縁日が出て賑わいました。
 現在は、お盆の7月15・16日に御開扉されています。

 

奪衣婆像(だつえばぞう、太宗寺) 新宿区指定有形民俗文化財
 閻魔堂内左手に安置される座像で、木造彩色で総高は240cm、明治3年(1870)の製作と伝えられる。
 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途(さんず)の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を計ったとされる。この像も、右手に亡者からはぎ取った衣が握られています。
 また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼(ぎろう)の商売神として「しょうづかのぱあさん」と呼ぱれ信仰されました。
 上記写真とも金網越しなので、網が写っています。

                                                     2011年4月記

次の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送