落語「三味線栗毛」の舞台を歩く
   

 

 春風亭柳朝の噺、「三味線栗毛」(しゃみせんくりげ。別名「錦木」)
 

 酒井雅楽頭(うたのかみ)と言う大名に3人の子供がいた。長男は病弱であったが両親から溺愛されていた。中の女の子に続いて末の角三郎はどうしたものか両親に疎んじられて、下屋敷の大塚に下げられてしまった。中間の吉兵衛を付け、年に100石という捨て扶持。忠義者の吉兵衛は若殿に不自由は掛けまいと傘を張ったり、楊枝を削ったりして若殿を助けた。しかし、角三郎は腹の据わった男で、さして気にも留めず、両国広小路や浅草奥山に出掛け、縄のれをくぐったりして帰り、夜になると書見にふけっていた。

 書見が過ぎたのでしょうか、肩が凝ると、ふと漏らすと吉兵衛あわてて座頭を呼んできた。錦木(にしきぎ)と言う座頭は商売上手で、療治も上手いし、落とし噺も巧かったので贔屓にした。ある日、療治が終わっても何か言いたそうにしているので、問うと「学者の講義を廊下の隅で聞いていたのですが、骨の組み合わせを解いていた時、『この様な背骨の組み方をした人物は、商人なら分限者に武士なら大名になる骨組み』だと教わった。その様な人に当たる事を楽しみにしていたら、角三郎様がその骨組みである」という。それが成らなければ学者が嘘つきだとも言う。「戦国の時代なら、それもあるが、太平の時代には皆無であろう。万一、その様な事が有れば、そちを検校に取り立ててやる」と約束をした。

 錦木が風邪をこじらせ寝込んでしまった。ちょうどその頃、酒井雅楽頭が隠居し、長男は病弱なため末っ子の角三郎が家督を継ぎ、酒井雅楽頭になった。病の癒えた錦木は、その話を聞いて、雅楽頭の屋敷に駆けつけると、約束通り検校の位を授かった。

 文武両道の酒井雅楽頭は特に馬術に秀でていた。栗毛の馬を求め「三味線」と言う名を付けた。でも、どうして三味線と名が付いたか分からないので錦木が聞くと、「酒井雅楽頭で、ウタが乗るから三味線だ。コマ(駒)という縁もある。乗らん時は、引かせる(弾かせる)、止める時はドウ(胴)と言うではないか。錦木」、「良くできたシャレです。ヒョッとして、ご家来衆が乗った時は」、
「その時は、バチがあたる」。

 


1.酒井雅楽頭 (さかいうたのかみ)
 酒井雅楽頭家についての姻戚関係は http://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/sakaiuta.htm に詳しい。
そこから引用させていただくと、

 江戸時代の酒井雅楽頭家系図
┌─@重忠┬A忠世─B忠行┬C忠清─D忠挙─E忠相─F親愛
|       |          └(田中)日向守忠能
|      └下総守忠正─□─□─□─□─□─□─□─阿波守忠誨┬O忠績
|                                            └P忠惇
└─備後守忠利─□─□─□─飛騨守忠菊┬G親本
                            └H忠恭┬備前守忠仰─I忠以┬J忠道─L忠学
                                     ├河内守忠得      └K忠実┬備中守忠言黨─M忠宝
                                     ├阿波守忠宜            └三宅土佐守康直─N忠顕
                                     ├駿河守忠温─□─□─出雲守忠恒─Q忠邦
                                     └(新田)左近将監忠交─(新田)縫殿頭忠質─(新田)左京忠全

 主な居城として、
 
三河西尾城→相模甘縄城→武蔵川越城→上野前橋城→播磨姫路城

 酒井雅楽頭は譜代(関ヶ原の戦以前から徳川氏の臣であった大名)の名門中の名門、酒井家の本家で、上野・前橋十二万五千石→播州・姫路十五万石。代々で最も有名なのは、四代将軍・家綱の許で権勢を振るい「下馬将軍」(屋敷の大手門前には「下馬」の表示があったから)と呼ばれた四代忠清(1624−81)。大老にまでなったこの人物が出世頭です。 

 あれれ、酒井雅楽頭家十八代ある当主の中に角三郎の名は見いだせません。そこの所はフィクションなのでしょう。
 お家相続で、次男坊は余程の事がない限り家督は継げませんし、三男坊は絶望です。やはり他家に養子に出るより策がありません。自分は成れないと諦めていて、突然、上が亡くなると繰り上げ当選ではありませんが、当主になる例は多々あります。
 将軍吉宗は運の強い人だと言いますが、紀州家の長男、次男が相次いで死んで、藩主になった上に、七代目将軍家継が亡くなり八代将軍を継ぐ事になった。その経緯は落語「紀州」をご覧下さい。
 また、彫り物で有名な奉行・遠山の金さんも、家督を継げないと思い、遊蕩三昧遊び惚けていたら、繰り上げ当選になってしまいました。下々の事にも長けた名奉行の誉が高い遠山左衛門尉景元でした。

 大手門前「酒井雅楽頭屋上敷正門」。 現在は明治7年、西教寺(文京区向丘2−1)表門として移築され使われています。

 十五代酒井雅楽頭忠顕家上屋敷は播磨姫路藩城主当時、千代田区大手町一丁目1&2番にまたがる1万3千余坪の敷地は、大手門の真ん前にありました。15万石の大大名です。また下屋敷は文京区千石一丁目から白山五丁目にかけて中山道に面した2万1千坪余の広大な屋敷地でした。北隣は最後の将軍、一橋刑部御慶喜公の下屋敷です。なお、中屋敷は日本橋蛎殻町一丁目に1万5千坪余の屋敷地を構えていました。
 下屋敷は中山道に面していて、板橋の宿につながる街道ですから、途中駅で言うと山手線・巣鴨駅です。その隣駅が大塚駅で、落語の舞台とチョイとずれています。現実、下僕一人を連れて追い出されたチッポケな屋敷ではありません。ただ、落語家さんによっては巣鴨を下屋敷としている事もあります。

2.大塚(おおつか)
 東京都豊島区大塚。西に池袋の繁華街を抱え、東に爺婆の原宿とげぬき地蔵の巣鴨に挟まれた、静かな街を形成しています。池袋と大塚の中間に”巣鴨拘置所”があって、その発展を阻害していましたが、その跡地が”サンシャイン60”となって、池袋の繁華街の流れを変えたという高層ビルです。でも、人の流れはそこまでで、大塚までおよびません。江戸時代から閑静な所だったのでしょう。地元の人が言うのですからホントでしょう。

両国広小路;江戸三大広小路には、浅草広小路、上野広小路、それにここ両国広小路があった。両国広小路については、落語「身投げ屋」等をご覧下さい。

浅草奥山(あさくさ_おくやま);台東区浅草、浅草寺の境内、本堂の左手(西)に有った。江戸時代から大道芸や見せ物小屋、茶店、食べ物屋やお土産屋の屋台が並び盛り場として賑わった。


3.言葉
■座頭
(ざとう)と検校(けんぎょう); 座頭は、江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼称としても用いられた。
 当道座(盲人の官位をつかさどり、その職業を保護する組合)は元々、平曲(日本中世の語り物のひとつで、平家物語を曲節を付けて琵琶の伴奏で語るもの。平家琵琶)を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来する。
 古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。
 江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。当道に対する保護は、明治元年(1868年)まで続いた。
 専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。

 米山検校(銀一);勝海舟、男谷信友の曽祖父。男谷検校とも
 塙検校(保己一);学者として活躍し『和学講談所』を設立。「群書類従」「続群書類従」の編者 。落語「石返し」に詳しい。

 検校の権限は大きく、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。視覚障害は世襲とはほとんど関係なく、江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。
 柳朝は噺の中で、盲人とか按摩とは言わず、”座頭”と表現しています。

栗毛(くりげ);馬の毛色の名。全身が褐色の毛で覆われている。最も一般的な毛色の1つで、サラブレッドの1/4を占める。円生は「南部三春の産で栗毛の良い馬じゃ」と言わせています。
 右写真;2011年2月5日東京競馬場にて、7レースでの栗毛の優勝馬「ダノンエクスプレス」騎手・田中勝春。
三春馬;福島県田村郡三春町字桜谷にある三春町歴史民族資料館に三春産の馬の説明があります。

下屋敷(しもやしき)と上屋敷(かみやしき);江戸城に登城するのに便利なように、大名は通常江戸城に近い所に上屋敷を置いた。上屋敷は当主が居住し、その家族が生活していた。下屋敷は別荘的な役割を持ち、また、災害があって上屋敷が使えない時は下屋敷を使った。石高の多い大名は中屋敷もあって、兄弟や血族関係者が居住していた。

鶏声ヶ窪 (けいせいがくぼ);酒井雅楽頭の下屋敷を出て江戸方向に向かうと、直ぐ左手に土井大炊頭利勝の下屋敷の辺、夜ごとに鶏の声あり、怪しみてその声をしたひてその所をもとむるに、利勝の御屋敷の内、地中に声あり、その所をうがち見るに、金銀のニハトリを堀出せり」(「江戸砂子」)。 一帯を「鶏声ヶ窪」と呼ぶようになった。現在は東洋大学前の曲がった道路辺りです。町名変更の折、駒込曙町となったが、現在は本駒込となっています。

■落とし噺;錦木が若殿角三郎に話して聞かせた、落語の原型で、軽い笑い話や世情のうわさ話を聞かせたのでしょう。西洋でも「千夜一夜物語」に、王様に嫁いだ姫が翌日には殺される状況が続いた。賢い娘が嫁いで、夜ごと話を聞かせ、千夜一夜経った時には子供も出来て、王様は妻を殺すような事はしなくなった。古今東西、頭のいい人は居るものです。

分限者(ぶげんしゃ);大金持。資産家。江戸では1000両以上の財力がある商人。当時10両を盗むと首が飛ぶ、その時代の1000両です。分限者の上は長者(3000両以上)、分限者の下を金持ち、と呼び分けていた。現在は億万長者なんて呼び名もあるようです。



  舞台の大手門を歩く


 酒井雅楽頭と若き角三郎が一緒に住んでいた上屋敷に行きます。
 東京駅丸の内側で、どうせですから北と南に出口はありますが、正面・丸の内中央口から出ましょう。今、丸の内側の赤煉瓦駅舎は改修工事中で来年までは足場が組まれていて中を見る事が出来ません。これは建設当時の面影に戻す工事ですから、明治のよき時代の景観が戻るでしょう。東京駅の東側、八重洲側は近代的な高層ビル2棟が既に完成しており、新旧対照的な顔を見せる事になります。
 丸の内側に戻って、正面に突き当たる大路があり、この道路を行幸通りといい、皇族や外国の大使が東京駅から皇居に向かう時通るメインの大通りです。

 その正面左側の高層ビルは丸の内ビルディング、通称丸ビルです。立て替え前のビルを連想も出来ないほど素敵なビルに変身して、低層階のショッピング街にお客さんが詰めかけ、休日のゴーストタウン化していたビジネス街がここだけは、人通りが絶えません。
 右側のビルが、新丸ビルと言われ同じようなコンセプトで作られ、東京駅前を活性化させています。赤煉瓦駅舎も完成すると、観光スポットとして、賑わうでしょう。その間を抜けて、正面緑の森が見える皇居に向かいます。

  丸ビルの後ろ側の道(丸の内仲通り)は、パリの街路に負けない洒落た通りで、いつも何かイベントをやっています。あ!ゴメン。パリには行ったことがないので、連想でスイマセン。この道は有楽町から銀座に抜ける道です。

 

左;数年前に行われた「ミレナリオ」、東京駅の改修が終わったら、再開するような事を言っていましたが・・・。
右:2年前のイルミネーションの様子  写真をクリックすると大きな写真になります。

 皇居前で行幸通りは突き当たって、終点になっています。人間は入れる皇居前の広場で、左に行けばご存じ、二重橋です。今回は右に曲がって、右手に皇太子(今の天皇陛下)ご成婚記念の噴水広場を見ながら、左手の皇居のお堀を眺めましょう。そのお堀の先に大手門の入口が見えるはずです。いえ、見えます。
 その右手に工事中のビルが、パレスホテルの建て替え工事現場です。その前の大手門に入る交差点が大手門交差点、その先右側のビル群が、今回の目的地酒井雅楽頭上屋敷跡です。江戸城大手門をそのまま現在に残す景観に反し、上屋敷跡は高層ビル群が建ち並んでいて、その面影は何処にもありません。
 ただ、その先の三井物産ビルを右手に入った所にある、将門塚だけが当時のスポットとして残されています。

 ここを観たら、先程の大手門に戻り、ここから大名になった心持ちで江戸城に入って行きましょう。ここは皇居東御苑と言って、皇居では最後に一般開放された場所です。皇居内は庭園に贅を尽くしていますから、四季を問わずお花が堪能できます。二の丸、そして本丸に入り、天守閣跡の石垣にも登る事が出来ます。残念ながら天守閣は明暦の大火(振り袖火事)で焼失、現在まで再建されませんでした。本丸跡の松の廊下跡も確認する事が出来ます。跡と言っても碑が建っているだけで、当然屋敷などはありません。後は本丸から北に出て、竹橋から地下鉄に乗るのもよし、ぐるり一周して大手門に出るのも良いでしょう。皇居内の写真は落語「紀州」にあります。

 これから、JR大塚駅に出ても良いでしょうが、噺だけで下屋敷も無く角三郎も住んでいなかったので、あきらめましょう。でも、大塚駅前には旨い吟醸酒を飲ませる小料理屋や、南大塚ホールでの落語会があります。この落語会は年4回開催されて、既に78回を重ねる長寿落語会です。駅前を通過する都電(路面電車)は40系統近くあった路線の、たった1系統が残った絶滅危惧種ヤンバルクイナのような貴重な路線です。新型車両の都電も投入されて今は元気で、「道灌」の”山吹の里”の早稲田と三ノ輪の遊女投げ込み寺”浄閑寺”を結んでいます。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。
大手町にあった道路案内図より。右が北になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

酒井雅楽頭・上屋敷跡(千代田区大手町一丁目1&2)
 皇居(江戸城)大手門前に広がるビジネスビル街ですが、写真全域が酒井雅楽頭屋敷跡です。江戸城に出入りするのは、通常ここ大手門だけです。その真ん前に屋敷を構えていたなんてスゴい。

将門塚(千代田区大手町一丁目2三井物産隣)
 平将門(たいらのまさかど)は、板東八十八ヶ国を平定、治めた。しかし、朝廷から見れば逆賊、平貞盛と藤原秀郷の奇襲(天慶の乱)にあい、38歳で憤死し、首は京都に送られ獄門になった。3日後白光を放って飛び去り、江戸の現在地に落ちた。大地は鳴動し太陽も隠れ、村人は恐怖し首を埋葬したが、その後も災いは続いた。ここにあった神田明神に霊を合祀し、災いも鎮まりこの地の守護神になった。
 この地が、酒井雅楽頭の上屋敷庭園にあたります。

神田神社(千代田区外神田二丁目16)
 俗に「神田明神」という。江戸総鎮守の神社で、天下祭りと称された神田祭の盛大さは有名。大黒様と恵比寿様を祀り、延慶2年(1309)将門を奉祀する。江戸幕府が開かれ、元和2年(1616)現在地の神田に移った。

酒井雅楽頭・中屋敷跡(中央区日本橋蛎殻町一丁目1〜28)
 広い街並みなのですが、特徴が無く写真の撮りようがありません。新大橋通に面した「銀杏稲荷」(日本橋蛎殻町一丁目7)を代表とします。
 どうしても見たい方はここ

酒井雅楽頭・下屋敷跡(文京区千石一丁目と白山五丁目)
 写真に写っている道路は白山通りと言って、旧中山道のバイパスにあたります。旧街道は写真の左で奥からバイパスに合流します。この奥に映る街並み全てが下屋敷跡で、未だこの何倍も敷地があって全ては写しきれません。

大塚駅前(豊島区北大塚2丁目)
 噺の中で下屋敷と名指しされた大塚です。JR大塚駅を高架で通し、その下を都電(路面電車)が抜けています。初めて見る新型都電はカッコがいいので、子供達も立ち止まってお見送りです。写真の左が池袋、右が中山道が通る巣鴨です。

両国広小路跡(両国橋西詰め広場)
 毎回出てくる両国広小路です。隅田川に架かる赤い橋が両国橋、左側は中央区東日本橋、ここが両国広小路と言われた所です。

浅草奥山(浅草寺境内、本堂西側奥)
 浅草寺境内の西側に山はないけれど、奥山という場所があった。その場所には遊芸、芝居、お化け屋敷、曲芸等の小屋が並んでいた。また、茶店や楊枝屋、弓屋、等が並んでいた。現在は商店街になっていて、花やしき、浪曲の定席・木馬亭、大衆演劇の木馬館、お芝居の小道具の刀や履き物、きもの、江戸の小物類等のお店が並んでいます。
 写真奥が浅草寺本堂、手前が奥山の商店街。

                                                                  2011年4月記

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