春風亭柳朝の噺、「三味線栗毛」(しゃみせんくりげ。別名「錦木」)
1.酒井雅楽頭
(さかいうたのかみ) 酒井雅楽頭は譜代(関ヶ原の戦以前から徳川氏の臣であった大名)の名門中の名門、酒井家の本家で、上野・前橋十二万五千石→播州・姫路十五万石。代々で最も有名なのは、四代将軍・家綱の許で権勢を振るい「下馬将軍」(屋敷の大手門前には「下馬」の表示があったから)と呼ばれた四代忠清(1624−81)。大老にまでなったこの人物が出世頭です。 あれれ、酒井雅楽頭家十八代ある当主の中に角三郎の名は見いだせません。そこの所はフィクションなのでしょう。 大手門前「酒井雅楽頭屋上敷正門」。 現在は明治7年、西教寺(文京区向丘2−1)表門として移築され使われています。 十五代酒井雅楽頭忠顕家上屋敷は播磨姫路藩城主当時、千代田区大手町一丁目1&2番にまたがる1万3千余坪の敷地は、大手門の真ん前にありました。15万石の大大名です。また下屋敷は文京区千石一丁目から白山五丁目にかけて中山道に面した2万1千坪余の広大な屋敷地でした。北隣は最後の将軍、一橋刑部御慶喜公の下屋敷です。なお、中屋敷は日本橋蛎殻町一丁目に1万5千坪余の屋敷地を構えていました。
2.大塚(おおつか)
■両国広小路;江戸三大広小路には、浅草広小路、上野広小路、それにここ両国広小路があった。両国広小路については、落語「身投げ屋」等をご覧下さい。
■浅草奥山(あさくさ_おくやま);台東区浅草、浅草寺の境内、本堂の左手(西)に有った。江戸時代から大道芸や見せ物小屋、茶店、食べ物屋やお土産屋の屋台が並び盛り場として賑わった。
米山検校(銀一);勝海舟、男谷信友の曽祖父。男谷検校とも
検校の権限は大きく、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。視覚障害は世襲とはほとんど関係なく、江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。
■栗毛(くりげ);馬の毛色の名。全身が褐色の毛で覆われている。最も一般的な毛色の1つで、サラブレッドの1/4を占める。円生は「南部三春の産で栗毛の良い馬じゃ」と言わせています。
■下屋敷(しもやしき)と上屋敷(かみやしき);江戸城に登城するのに便利なように、大名は通常江戸城に近い所に上屋敷を置いた。上屋敷は当主が居住し、その家族が生活していた。下屋敷は別荘的な役割を持ち、また、災害があって上屋敷が使えない時は下屋敷を使った。石高の多い大名は中屋敷もあって、兄弟や血族関係者が居住していた。
■鶏声ヶ窪
(けいせいがくぼ);酒井雅楽頭の下屋敷を出て江戸方向に向かうと、直ぐ左手に土井大炊頭利勝の下屋敷の辺、夜ごとに鶏の声あり、怪しみてその声をしたひてその所をもとむるに、利勝の御屋敷の内、地中に声あり、その所をうがち見るに、金銀のニハトリを堀出せり」(「江戸砂子」)。 一帯を「鶏声ヶ窪」と呼ぶようになった。現在は東洋大学前の曲がった道路辺りです。町名変更の折、駒込曙町となったが、現在は本駒込となっています。
■落とし噺;錦木が若殿角三郎に話して聞かせた、落語の原型で、軽い笑い話や世情のうわさ話を聞かせたのでしょう。西洋でも「千夜一夜物語」に、王様に嫁いだ姫が翌日には殺される状況が続いた。賢い娘が嫁いで、夜ごと話を聞かせ、千夜一夜経った時には子供も出来て、王様は妻を殺すような事はしなくなった。古今東西、頭のいい人は居るものです。
■分限者(ぶげんしゃ);大金持。資産家。江戸では1000両以上の財力がある商人。当時10両を盗むと首が飛ぶ、その時代の1000両です。分限者の上は長者(3000両以上)、分限者の下を金持ち、と呼び分けていた。現在は億万長者なんて呼び名もあるようです。
その正面左側の高層ビルは丸の内ビルディング、通称丸ビルです。立て替え前のビルを連想も出来ないほど素敵なビルに変身して、低層階のショッピング街にお客さんが詰めかけ、休日のゴーストタウン化していたビジネス街がここだけは、人通りが絶えません。
丸ビルの後ろ側の道(丸の内仲通り)は、パリの街路に負けない洒落た通りで、いつも何かイベントをやっています。あ!ゴメン。パリには行ったことがないので、連想でスイマセン。この道は有楽町から銀座に抜ける道です。
左;数年前に行われた「ミレナリオ」、東京駅の改修が終わったら、再開するような事を言っていましたが・・・。
皇居前で行幸通りは突き当たって、終点になっています。人間は入れる皇居前の広場で、左に行けばご存じ、二重橋です。今回は右に曲がって、右手に皇太子(今の天皇陛下)ご成婚記念の噴水広場を見ながら、左手の皇居のお堀を眺めましょう。そのお堀の先に大手門の入口が見えるはずです。いえ、見えます。 ここを観たら、先程の大手門に戻り、ここから大名になった心持ちで江戸城に入って行きましょう。ここは皇居東御苑と言って、皇居では最後に一般開放された場所です。皇居内は庭園に贅を尽くしていますから、四季を問わずお花が堪能できます。二の丸、そして本丸に入り、天守閣跡の石垣にも登る事が出来ます。残念ながら天守閣は明暦の大火(振り袖火事)で焼失、現在まで再建されませんでした。本丸跡の松の廊下跡も確認する事が出来ます。跡と言っても碑が建っているだけで、当然屋敷などはありません。後は本丸から北に出て、竹橋から地下鉄に乗るのもよし、ぐるり一周して大手門に出るのも良いでしょう。皇居内の写真は落語「紀州」にあります。
これから、JR大塚駅に出ても良いでしょうが、噺だけで下屋敷も無く角三郎も住んでいなかったので、あきらめましょう。でも、大塚駅前には旨い吟醸酒を飲ませる小料理屋や、南大塚ホールでの落語会があります。この落語会は年4回開催されて、既に78回を重ねる長寿落語会です。駅前を通過する都電(路面電車)は40系統近くあった路線の、たった1系統が残った絶滅危惧種ヤンバルクイナのような貴重な路線です。新型車両の都電も投入されて今は元気で、「道灌」の”山吹の里”の早稲田と三ノ輪の遊女投げ込み寺”浄閑寺”を結んでいます。
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酒井雅楽頭・上屋敷跡(千代田区大手町一丁目1&2)
将門塚(千代田区大手町一丁目2三井物産隣)
神田神社(千代田区外神田二丁目16)
酒井雅楽頭・中屋敷跡(中央区日本橋蛎殻町一丁目1〜28)
酒井雅楽頭・下屋敷跡(文京区千石一丁目と白山五丁目)
大塚駅前(豊島区北大塚2丁目)
両国広小路跡(両国橋西詰め広場)
浅草奥山(浅草寺境内、本堂西側奥) 2011年4月記 |