落語「湯屋番」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「湯屋番」(ゆやばん)によると。
 

 居候は何処にもいた時代の話です。無精の上、夕方まで寝ているような奴を二階に置いておくのは気にくわないと女房はカンカン。置いとくなら離婚だとむくれて叔母さんの家に。
 呼ぶと2階の居候・徳さんは嫌々降りてきたが、東を向いて今日さんに柏手を打てば、もう太陽は西になっている。バケツみたいな洗い桶じゃ色気が無い。顔を洗っても拭く手ぬぐいも風で飛ばして、拭けない。亭主には愚痴を百万遍。言われれば、ここで身を立てようと居候の徳さんは宣言。
 親父の所に帰るのかと思えば、親父は病気だから帰らない。その病気とは、金は使うもので、貯めるなんて病気だと。
 それでは発明で、身を立てる。一生涯お腹がすかない法、これは炭酸を飲んでその後に下剤を飲む。炭酸はガスを出して上にあがろうとする、上からは下剤が下に押すので、生涯腹は減らない。??
 では、奉公に出ます。浜町の梅の湯で、ここの女将が二十五位でいい女だから、病弱な亭主が死んだら後添いに入るんだ。その奉公に入る話は橘町の頭に話してもらったから大丈夫。

 湯屋に来てみれば、「身元は知れているから良いが、道楽者だと聞いたが・・・」。「それが私。良ければ番台に上がらして」。「番台は私と女房以外は上がらせないんです。だからダメ」。そこに奥から食事の用意が出来たと声が掛かった。「では」と言う事で待望の番台に上がった。
 女湯を覗けば・・・、誰も居ない。男湯を覗けば・・・、多くの男が入っている。帰る客が釣り銭を要求すると、多めのお金を持たせて帰し、自分も懐に。どうせ、この店は自分の物になるのだから。
 男はイヤだね。女は良いよ。お客の中で年増のいい女とその女中が、町で俺を見付けて、寄っていけと家に誘い、御新造さんも袖を引いて「お上がりなさいよ。どうぞ、お上がりなさいまし」。
 「おい、見ろよ、さっきからブツブツ言いながら、一人で袖を引いて上がれ上がれと言っているから、お前も洗っていないで、見て見ろよ」。
 では、チョットだけと言って上がると、ちゃぶ台が出て、袴をはいた徳利が1本、おつまみと杯洗にチョコが一つ沈んでいた。酌をしてもらって、飲み干し杯洗の水で洗ってご返杯。やったり取ったりしている内に、「今のは洗ってなかったのですが、それをご承知でお呑みになったの」と、きた時には「弱ったな」。
 「お前、顔から血を出しているがどうしたんだ」、「手ぬぐいと間違えて軽石でこすってしまった」。
 そのうち、雨が落ちてきて雷が鳴り始めた。蚊帳を吊って女はその中に、「お入りなさいよ」。いえ、私は結構と手酌で飲んでいると、雷が落ちて女は気絶。杯洗の水で口移し・・・。気が付いた女は空癪(しゃく)で・・・。
 出し抜けに、ポカリとゲンコツが飛んできた。「お前が豆腐屋のラッパみたいな声で『うれしゅうござんす、番頭さん』なんて言っているから、俺の下駄が無くなってしまった。下駄がない」。
「下駄なら、そこにある正目の通った下駄を履いて行きなさい」、「お前のか」、
「いえ、そこで洗っている、お爺さんのです」、「お爺さんはどうする」、
「お爺さんはそこの草履で帰し、最後の人は裸足で帰します」。

上図;「湯屋番」宮尾しげを画 文春デラックス寄席10より


 
1.橘町(たちばなちょう)
 お風呂屋を紹介してくれた頭(かしら)が住んでいたところ。頭とは、鳶(とび)の親方。
橘町は今の中央区東日本橋三丁目。日本橋横山町の南隣の町。

■浜町の梅の湯;この噺の舞台の銭湯。浜町(はまちょう)は今の中央区日本橋浜町。隅田川西岸に平行して流れる浜町堀の新大橋周辺の町。この堀の川沿いの道を浜町河岸といって、大名屋敷ばっかりだったので夜は真っ暗な寂しいところだった。西側の現・日本橋人形町には旧吉原があった。お湯屋だけではなく色気のある粋な街であった。浜町堀の浜町河岸を北に向かうと上記の橘町がその東(右)にあります。

 浜町には現在銭湯はありませんが、隣町の人形町には”世界湯”中央区日本橋人形町2−17があるだけで、夜間人口が少ない土地柄ですからやむ終えないのでしょう。(2011年1月NTT調べ)

 

2.公衆浴場
 銭湯とも言う。料金を取って入浴させる公衆浴場。風呂屋。湯屋。

 昭和後期の風呂屋の番台。上野・下町風俗資料館にて

 風呂は蒸し風呂がもとで、江戸時代中期になると湯に浸かる風呂が出来て、湯屋と呼ばれた。
 蒸し風呂は洗い場の奥にスノコを敷いて蒸気が外に出ないように入口を極端に低くして、その名をざくろ口と言った。このころは男は褌(ふんどし)、女は湯文字(ゆもじ=腰巻き)をつけて入った。それを包む大布を風呂敷と言った。江戸中期になると、ざくろ口の中に簡単な浴槽が出来たが、狭く、熱く、洗い場は広く作られていた。
 風呂は入れ込みと言って混浴が原則であった。褌を外してはいるようになると、風紀上問題有りと寛政3年(1791)以降、たびたび禁止令が出たが、地方では混浴が続いていた。

 下図、風呂屋の中心は洗い場で、洗い湯がくめるように岡湯(おかゆ。左側の湯槽)が設けられていた。脱衣場(上部)との境は竹のスノコになっていて、そこで水を切って出た。仕切に戸などはなく、脱衣場と洗い場は一体となっていた。男湯の2階には休めるような大広間があり、将棋や碁盤が置いてあり、社交場のような趣があった。

 「洗い場」 浮世風呂より 東京大学総合図書館蔵 

 男風呂は込んでいて、イヤですね。女風呂はガラガラなのでここでは掲載しませんが・・・、
どうしても見たいという御仁に、しょうがない、お見せしましょう。
でも、貴方も好きですね。

 「競細腰雪柳風呂(くらべごしゆきのやなぎゆ。3枚組)落合芳幾(おちあいよしいく。一恵斎芳幾)画 明治元年 国立歴史民族博物館蔵
 右の壁には
寄席のビラが貼ってあります。その壁には岡湯があり、その左にはぬか袋と書かれた箱が置かれています。石鹸の代わりにぬか袋が使われ、それを捨てる箱です。左側の朱塗りの柱の下から女性が飛び出してきますが、そこがざくろ口です。子供が泣き出すほどの女の大喧嘩、無粋ですね。

 話変わって、この絵、何処かおかしくありませんか。間違いが一ヶ所あります。そこに○印を付けなさい。
 分かりましたか、違いますよ、女性の事ではありません。右側番台前の青い水切りスノコです。スノコは洗い場と脱衣室の境目で、水平か、または若干段差があったかも知れません。この絵では壁下に積まれた石が3段ありますが、その上まで延びています。これが本当だとすれば洗い場に転落してしまうか、スノコに乗れば左側まで滑り台のように滑って遊べます。

 

3.居候(いそうろう)
  他人の家に寄食すること。また、その人。食客。若旦那の親が営む大店に世話になったり、又は出入りしていた職人、商人が「ご主人には世話になっていたので・・・」という理由で、若旦那を預かっているケースが大部分です。親に勘当されるくらいですから、わがままで遊び人ですから、仕事をせずブラブラしていますから、毎日顔を合わせる奥様にはイヤな顔をされるのは当たり前。

居候三杯目にはそっと出し」 江戸川柳  居候が万事遠慮がちなことをいう。
居候足袋の上から爪を切り」 江戸川柳  居候のすることのだらしないさまのたとえ。
居候角な座敷を丸く掃き」 江戸川柳  居候のすることのいいかげんなさまのたとえ。

 落語界では多くの居候が居て、その中でも「船徳」の徳さんは船頭に、「富久」では幇間の久蔵さんが旦那の家にやっかいになっています。

 

4.言葉
■炭酸(たんさん);ふくらまし粉。重曹。重炭酸ソーダ(NaHCO3)。熱を加えると分解して炭酸ガスを出す。そのガスで、ホットケーキなど焼き物を膨らませる。

■新造(しんぞ);”しんぞう”と読むが江戸っ子は”しんぞ”とつめて言う。御新造。
 武家の妻女をさしていう語。また、町家の、富貴な家の妻女をいう。また、後にはふつう、他人の妻女、特に、新妻や若い女房をいうのに用いられ、転じて未婚の若い女性のこともいう。
 遊里では、江戸時代、遊里で姉女郎の後見つきで新しくつとめに出た若い遊女のこと。また、明治以後、東京の吉原で、娼妓につきそって身のまわりの世話をした女中。国語大辞典(新装版)小学館より

■ちゃぶ台(卓袱台);折り畳みの出来る、短い四足の和室用食事台。足の低い食卓。飯台。イス・テーブルで食事をするようになる以前は、このちゃぶ台で食事をとっていた。

■杯洗(はいせん);酒宴の席で、杯を洗いすすぐために水を入れておくうつわ。さかずきあらい。
国語大辞典(新装版)小学館より

(しゃく);種々の病気によって胸部・腹部に起る激痛の通俗的総称。さしこみ。癪の噺では「やかんなめ」もその一つであり、すごく苦しそうです。この湯屋番の噺では女は気絶したといっています。気が付くと空癪(仮病の癪)で、相手の気を引いたのでしょう。

 


 舞台の浜町を歩く

 JR・馬喰町駅、都営新宿線・馬喰横山駅、都営浅草線・東日本橋駅に囲まれた魔の三角地帯、いえ、間違えました黄金の三角地帯は、衣料品関係の問屋街で終日混み合っています。その一画、横山町(正式には日本橋横山町)の隣に東日本橋三丁目があり、この地が元”橘町”と言われたところです。横山町と旧橘町を挟む商店街を「横山・橘通り共栄会」と言います。清洲橋(きよすばし)通りを挟んで左右に延びる商店街で、やはり衣料品問屋が並んでいます。ああ、横山町の隣、東日本橋三丁目は橘町だったんだな〜、と実感させられます。
 横山町で思い出すのは八代目桂文楽の落語「富久」です。浅草阿倍川町に住む、久蔵さんは深夜この横山町まで駆けてきます。旦那に許され富にも当たって、酒癖の悪いのは治ったのでしょうかね。

 清洲橋通りを南方向に見渡せば、隣の日本橋村松町(現・東日本橋1−1から3)の先に浜町(正式町名は日本橋浜町)が見えます。
 そうそう、この村松町も落語「おせつ徳三郎・下(刀屋)」で出てきた、刀屋さんが有ったところです。
 この清洲橋通りは5〜6車線の広い一方通行の道路で、贅沢な一方通行です。中程に人形町に抜ける大通り交差点が久松町交差点で、右に曲がれば久松警察署、その向こうが久松公園、その先NTTから先が元吉原の地です。その先、人形町から江戸橋、日本橋に至ります。久松公園は浜町堀跡で、埋め立てられて細長い公園になったところで、南側は公園、その先北側の埋め立て地はビル街の地域になってしまいました。

 公園の中を南下すると、甘酒横丁に出合います。右に曲がれば小粋な店が並ぶ人形町に入ります。左に曲がれば、浜町の中心、明治座前に出ます。今日も人気俳優の舞台でお客を集めています。外には観光バスが何台も観客の帰りを待っています。明治座の奥が浜町公園。スポーツセンターや野球場、児童公園があり、広い敷地の中には落語「お藤松五郎」に出てきた清正公様があります。回りの街中には昭和の匂いがする店が何軒かあります。この公園は隅田川に接していますので新大橋を眼前に見ることができます。

 粋な店や老舗を探すのでしたら、この浜町より人形町や水天宮の方が見付けるのに時間は掛からないでしょう。また、浜町にはお風呂屋さんが一軒も無いのは寂しいかぎりです。

地図

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写真

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橘町中央区東日本橋三丁目)
 「横山・橘通り共栄会」のアーケードが建ちます。通りの右側が横山町、左側が橘町です。ここから右に横山町、馬喰町は衣料品関係の一大問屋街です。

橘町北側
 橘町の北側、清杉通りにある、都営地下鉄浅草線の東日本橋駅です。
左側一帯が東日本橋三丁目の橘町です。 通りの先は浅草橋です。 

橘町から見た浜町街
 
左に曲がると上記東日本橋駅があり、中央の道路が清洲橋通りで、歩道橋のところが村松町、その先が浜町です。  

久松町交差点
 上記清洲橋通りを歩いていくと、この久松町交差点に出ます。右を向いて写真を撮っています。次の交差点右側引っ込んだところが、久松町警察署、その先が久松公園(浜町堀跡)、茶色の大きなビルはNTTです。ここを含めて先の両側が、元吉原です。今はその面影は全くありませんが、その先の人形町交差点、左の水天宮にかけては粋な店が並んでいます。

浜町公園(中央区日本橋浜町二丁目)
 浜町の中心的な公園で、野球場やスポーツセンターの大きな建物があります。落語「お藤松五郎」に出てくる清正公様もここにあります。

浜町公園内
 清正公様の隣には、公園ですから児童遊具もそろって近くの子供達が遊んでいます。バックに見える建物群が浜町の街並みです。  

どら焼き屋
 浜町公園南にある昔ながらの小さな店でどら焼きを売っています。この様な雰囲気が浜町なのでしょう。  

新大橋
 隅田川に架かる新大橋で、中央の柱が塗装が完成して綺麗な色を出しています。手前が浜町で向こう岸が江東区です。 浜町公園の土手から 

浜町河岸(久松公園わき)
 日本橋浜町と日本橋人形町の境を流れる浜町堀は現在埋め立てられて久松公園になってしまいました。北側の方では街並みになってビルが建っていますが、ここは公園です。バックに見えるのが浜町で、その間を道路が平行して走っています。その道路が江戸時代、浜町河岸と呼ばれたところです。

歌舞伎像(久松公園)
 この右側人形町には歌舞伎の市村座と中村座があり、人形浄瑠璃の小屋もあって賑わっていました。その人形を作ったり修理したりする人達が住むので人形町の名がおこったと言われます。それを記念して歌舞伎十八番勧進帳の中の弁慶をモデルに像が建っています。

                                                 2011年1月記   

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