落語「臆病源兵衛」の舞台を歩く
金原亭馬生の噺、「臆病源兵衛」(おくびょうげんべい)によると。
源兵衛は強度の臆病で、夏の暑い盛りに雨戸を閉め切ってアツイ暑いと言うので聞いてみたら、誰か覗いているから恐いという。また、夜は恐いからと出歩かなかったし、商売も暗くなるとあたふたと帰ってきてしまう。
兄貴の家で一杯ご馳走になっている八五郎が、その源兵衛をここに呼ぼうという。兄貴の妹さんが来ていると言えば、彼は岡惚れしているから駆けつけてくるだろう。そうしたら、酒を買いに行くからと言って外に出て、裏の台所で赤いキレを頭からかぶって源兵衛を脅かす。気を失ったところを笑ってやるのはどうでしょうと、兄貴は気が進まなかったが悪巧みは決まった。八五郎につかまって恐わごわ源兵衛は駆けつけてきたが妹さんはハナっから居ない。
妹さんは一寸出かけたというと「女なのに凄いですね」。おっかなびっくり飲んでいると、八が酒が足りなくなるのでと、買いに出た。「あの人も凄いですね。暗い中行きましたよ」、「当たり前だ、まだ夕暮れで明るいし子供だって行くさァ」。
ヤカンの水が少なくなったので、台所で水を入れるように頼まれたが、へっぴり腰で暗い中に入ると、八が赤いキレを頭からかぶって脅かした。「ギャッ〜!」っと言って手に持っていたヤカンを八の頭に「パカッ」。殴られるとは思ってもいない八は「ギャッ!」その場に倒れてしまった。ヤカンが半分凹む程なので、死んでしまった。
番所に自首すると言うが、それでは牢屋に入り、遠島、死罪になってしまうかもしれない。だったらと、八五郎に兄ィの自慢の上布で出来た帷子を着せてやり、死に装束に替えて行李に詰め込んだ。上から夏布団で簀巻きにし、細引きで担いで不忍池の奥に捨てに行った。夜、外にも出ない源さん、死人を担いで歩き始めたが、脚は地に着かず目は泳いで不忍池に着いた。蓮の葉がザワザワとゆれているので怖さが倍増。
それを見ていた三人組が、泥棒か何かではないかと声を掛けようとした。源さんは恐怖心が極限になって「タスケテェ〜」と行李をほっぽり出して逃げてしまった。三人組が泥棒の戦利品だと思って開けると、死人が出てきたのでビックリ、関わり合いになると大変だからとそのまま行き過ぎてしまった。
八つぁんは本当は死んでいなかった。頭を叩かれたので気絶していただけだった。立ち上がってみると先ほどの三人がそれを見て「わぁ〜〜」っと悲鳴を上げて逃げて行った。八つぁん、俺はどうしたんだろう、帷子を着ているので死んだんだ。蓮があるからここは極楽だ。
蓮池をザブザブ歩いていると「誰だ!」、「鬼だ〜。鬼が居るからここは地獄だ」、ようよう仲町に来てみると「地獄と言うところはシャバに良く似ているな」。
一軒の灯りが点いた台所を覗くと痩せてはいるが色つやの良いお婆さんが肉を切っていた。思い切って「ここは地獄ですか」と尋ねると、「娘のお陰で極楽です」。
上図;東京風景「上野公園」(不忍池)土屋光逸画 昭和初期
昭和に入ってまもなくでも、夜はこれだけ寂しかった。源兵衛さんの時代だったら行李を投げ出し逃げたくなるのは当たり前でしょう。
1.下谷(したや)
ここには下谷山崎町や下谷長者町など一級の貧乏長屋がありました。
下谷山崎町(台東区東上野4丁目、北上野1丁目)は落語好きなら直ぐにイメージが湧く、そうです「黄金餅」の出発地、乞食坊主西念と、飲んだ金をねらう金山寺味噌を売る金兵衛が住んでいた所です。
下谷長者町(現・台東区上野3丁目1〜12、19.20)は「七福神(かつぎや)」で歩いた所。
■不忍池;(しのばずのいけ。台東区上野公園2)
徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。江戸城鬼門の位置に、京都比叡山を模して東叡山寛永寺を上野の山に創建。その足元の不忍池を、琵琶湖に見立て中央に島を設け竹生島より弁天様を勧請した。それが今の弁天堂です。
不忍池は大きく3面に分かれています。東側の蓮池、西側のボート池、北側の上野動物園敷地の鵜の池となっています。所々にアシが生えていますが、蓮の葉の方が風にあおられ騒がしそうにざわめいています。
落語「唖の釣り」、ここに殺生禁断の不忍池の地図や説明があります。また、「ねぎまの殿様」、「猫怪談」で池之端を歩いています。詳しくはこの噺を参照してください。
上図;不忍池全図「中島弁財天社」三枚続き 歌川広重画
弁天島の中央に弁天堂が見えます。その回りの岸辺に建ち並んでいるのが茶店ですが、後に春を売る水茶屋に変身していきます。
図の右端下が池之端と呼ばれた所です。この辺りを俗に「地獄」と呼ばれていました。
左図;東都名所「上野不忍蓮池」 歌川広重画
不忍池南端では蓮が栽培され、それが名物になっていました。蓮池から「極楽」と見えたのでしょう。この時も、弁天堂の回りには水茶屋が並んでいます。
江戸高名会席盡「池之端蓬莱亭」広重画
池之端の名会席亭二階から眺める不忍池と花見。地獄とは大違いの料理屋です。右上には弁天島が見えます。
■仲町;(なかちょう。台東区上野2丁目不忍通りに面した地);正式には池之端仲町。不忍池南端に位置する街で、略して池之端。または仲町。江戸時代、山下からここを越えて湯島、本郷に続く幹線がここを通っていました。
当然人の往来も多く、老舗も多かった。薬の守田宝丹、そばの蓮玉庵、漬け物の酒悦、櫛(9+4)の十三屋、うなぎの伊豆栄、帯紐の道明、江戸指物の京屋、上野の藪、袋物の越川、小間物の日野屋などは森鴎外や夏目漱石などの小説にも数多く登場する。
台東区ホームページより
* 薬の守田宝丹(ほうたん);落語「なめる」で出てきたお店。守田治兵衛商店(台東区上野2−12−11)
* そばの蓮玉庵(れんぎょくあん);台東区上野2丁目8−7。安政6年(1860)に創業の老舗
* 福神漬けの元祖・酒悦(しゅえつ);台東区上野2丁目7−11。 * 櫛の十三や;台東区上野2丁目12−21。元文元年(1736)創業の老舗。店名の由来はクシの9+4で13や、「そうなんや」、そうなんです、粋ですね。
* うなぎの伊豆栄(いづえい)本店;台東区上野2丁目12−22
グルメwalker
* 帯紐の道明;台東区上野2丁目11−1。創業:承応2年(1653)。昔は武具の紐を、今は羽織の紐を商う。
* 江戸指物の京屋;台東区上野2丁目12−10。創業百十余年、江戸指物の美を追求。 * 池の端の藪(やぶ);文京区湯島3丁目44−8。池之端仲町の奥にある蕎麦屋。同名の上野の薮は丸井デパート裏、台東区上野6丁目9に明治25年創業「上野薮そば本店」として営業しています。
なお、現地の名店さんで聞いても、袋物の越川、小間物の日野屋は現在池之端近辺にはありません。
2.地獄
俗称で、仲町にあった。遊女のいた所は幕府公認の吉原、人数を限って認めていた品川、新宿、板橋、千住の四宿、ランクが下がって非公認ながら目こぼしになっていた岡場所と呼ばれる、深川の七場所、最底レベルのそれらに入らない取り締まり対象になっていた遊所がここにあった。
ここは地獄と言われ、取り締まり対象になっていたので、普通の家で口コミで客を引いた見世もあります。この噺のお婆さんは娘の働きで地獄という場所ながら極楽という生活をしていた。江戸時代は四つ足は食べなかったが、例外として獣肉、特に猪や熊、鹿などは薬食い(くすりぐい)と言って食した。落語「二番煎じ」で体を温めると称して食べる肉料理が猪鍋です。
上野山下にはいかがわしい見世が多くあって、陰間(かげま)茶屋(男性がお相手した)、けころなどがあった。
■けころ;「蹴転」、「稽古路」、「毛娯呂」などと書き、簡単に男と寝る素人風の女性のこと。また客の誰とでも寝る「転び芸者」から由来したとも言われている。江戸のあちこちにこの名で呼ばれる遊女や遊所が散在しているが、享保(1772〜36)中ごろの上野山下がその発祥の地であるらしい。上野東叡山の下にあるから「上野山下」で、この辺り一帯は東叡山の火災予防地として広大な空き地が広がっていた。ここに必要な時にはすぐに立ち退くという条件のもと、見世物小屋や飲食店などが立ち並び、花見や祭りの時などは大いに賑わいを見せた。
けころの最盛期は安永・天明のころ(1772〜89)で、 「山下はどちらを見てもよりなんし」
上野広小路や御徒町入り口などを中心に九ヶ所に、107軒もの遊女屋が乱立し、1軒に2,3人の茶汲女が春を売っていた。茶屋女なのて前垂れを付けて座っており、「山下の前垂れ」といえばこのけころを指す。
揚代はちょんの間で200文程度。泊まりでも2朱(500文)と割安。ただし、お上への体裁を繕うため、客は必ず酒食をするのが決まりだった。しかし200文も出せば酒が3〜4升買えた時代で、ここではお銚子が1本200文と目の玉か飛び出すほど高い。結局は単純に200文で遊ぶこととなるのだ。
けころ買いには吉原に行くときのような堅苦しさもなく、普段着でちょっとそこまで、といった気軽な遊びができた。毎月3日と18日は上野両大師詣の日である。この日は、
「信心と浮気が五分の両大師」
参拝ついでにけころを買いにくる男も大勢いたという。寛政の改革(1787〜93)により山下のけころは取り払われると、その後上野両大師詣の参拝客が激減したというからその影響力は計り知れないものがあった。
「お江戸吉原草紙」 田中夏織著より。落語「お直し」より孫引き。一部割愛
以後このけころはいなくなります。
吉原羅生門河岸の”けころ”とはレベルが違うのがよく分かります。浮世絵にも描かれた美女達もいます。
また、上野山下以外にも、深川八幡の御旅所、竹町(山下)、長者町(御徒町)、下谷御数寄屋町(池之端)にもあった。他にも仏店(山下。竹町隣)、浅草堀田原(田原町)、広徳寺(台東区役所)にあったとの記述もあります。
蕎麦は16文(現在500円として)でしたから、それから換算して、けころの相場200文だと現在6000円にあたります。
3.言葉
■番所;源兵衛さんが自首したいと言った番所とは、番人の詰める所。見張り所で、江戸時代、交通の要衝に設けて通行人や船舶などを見張り、徴税などを行なった所。御番所とも言いました。また、江戸町奉行所の別称。
江戸において「(御)番所」は町奉行所を指していたが、この他にも江戸城の大手門に設置された御門番所(百人番所)、武家地の警備のために辻などに置いた辻番所、両国橋などの主要な橋のたもとに置かれた橋番所などがあった。
■上布(じょうふ);上等な婦人の事。ではなく、上等の麻布。細い麻糸を用いて平織りにしたもので、多く夏の衣服に用いる。
■帷子(かたびら);裏をつけない衣服。夏に着る、生絹や麻布で仕立てたひとえもの。
上布で出来た帷子が兄貴の家に掛かっていた。八も源さんも指をくわえる程の良いものであった。八つぁんが死んだと思ったので、欲しがった兄貴の帷子を着せてやった。また、三角の紙を額におまんま粒で貼り付けた。でも良かったですね、頭を丸めないで。
■行李(こうり);元は旅行用の荷物入れ。竹または柳で編み、つづらのように作ったもの。衣類入れにも使う。
■簀巻き(すまき);簀(すのこ)で物を巻き包むこと。近世のリンチのひとつで、身体を簀に巻いて水中に投ずること。すのこまき。落語「お富与三郎」の与三郎がお富と逢い引きした為、その子分達に簀巻きにされ木更津の海に投げ込まれた。そこから、グルグル巻きにされた状態。
■細引き(ほそびき);麻を撚り合せた細い丈夫な縄。細引縄。わらで作る縄と違って細くて丈夫なので荷造りにも使う。
4.江戸での刑罰 死刑 (同じ死刑でも6種類あった。重いものから軽いものへ、とは言っても死刑です)
鋸挽き(のこぎりびき)
市中引き廻しの上、2日間土中に頭のみ出し埋め晒したのち磔刑と同じ
磔刑(たっけい)
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市中引き廻しの上、磔柱に縛り付け槍で左右から脇腹を突き、とどめに喉を刺し殺す。処刑後3日間晒し
獄門(ごくもん)
市中引き廻しの上、牢屋敷で斬首。試し斬り後、首は晒し
火罪(かざい)
市中引き廻しの上、磔柱に縛り付け火焙り
死罪(しざい)
斬首の上、試し斬り。家財没収
下手人(げしゅにん)
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斬首。遺体は引取人がいれば引き取って埋葬可能
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死刑以外のもの(江戸での処罰)
遠島
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伊豆七島の八丈島・三宅島・新島に送られる。佐渡は最悪の島流し
重追放
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関八州、五畿内、肥前、甲斐、駿河、東海道筋、木曽路筋立入禁止
中追放
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武蔵、肥前、下野、甲斐、駿河、東海道、木曽路、日光街道立入禁止
軽追放
| 江戸十里四方、東海道筋、日光街道立入禁止
江戸五里四方追放
| 日本橋より五里四方内立入禁止
江戸払い
| 品川、板橋、千住、四谷大木戸内、及び本所、深川立入禁止
所払い
| 現在住む所からの追放。 以上追放刑は基本的には無期。
門前払い
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奉行所門前から追い払われる
敲き(たたき)
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軽敲(50回)・重敲(100回)、女性は代わりに50日・100日の牢舎(過怠牢)、入墨の付加刑も
手鎖(てぐさり)
| 30日、50日、100日 両手を手錠で縛し与力がこれを封印し、家の中で謹慎させた。
過料
| 金銭罰 軽過料、重過料、応分過料
叱責(しかり)
| 叱り、急度(きっと。=きびしい)叱り
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遠島、江戸所払い等は原則無期刑 軽い犯罪でも3回再犯すると(スリでも)死刑。10両盗んでも死刑。不義密通は死刑だが示談で七両二分。 武士は死刑に当たるのは切腹。他に斬首、改易、役儀取上げ、蟄居、閉門、逼塞、遠慮、隠居、差控
僧侶は、追院、退院、一宗構い、一派構い、蟄居、閉門、逼塞、遠慮、隠居、差控 詳しい情報はここ http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keibatu.htm に有ります。
■市中引き廻し;公開処刑の場合馬に乗せられ江戸市中を引き回されます。江戸一周の最後の現世見納め観光コース(?)、いえいえ、衆人環視の中で、明日には死刑ですからそんな心の余裕はありません。最後の別れですから沿道の何処かで家族や友人が見ているはずでしょう。このコースは決まっていて、次のようになります。
小伝馬町の牢屋敷を出て右に折れます。(地名は全て現在)大伝馬町から小舟町、当時の江戸橋を渡って、川伝いに右に曲がり、日本橋南詰めを左に曲がりVの字の反対側に入り、昭和通りに出ます。右に曲がって永代通りを越え、平行する道を左に曲がり、兜町から茅場町、南に下って八丁堀で右折、昭和通りにまた出て左、その先を右に曲がって、京橋(町)。町なかの中央通りを左に曲がって京橋を渡ります。こんなにゆっくり歩くと1日では回れなくなるので、先を急ぎます。
銀座を抜けて新橋、第一京浜を南下、浜松町、芝、三田の交差点を右に曲がって北上、慶應義塾を左に見て桜田通りを真っ直ぐに、東京タワーを右に見て、天徳寺の先を左に曲がって、虎ノ門から赤坂、赤坂見附を左にその先、豊川稲荷を右に曲がって、見えてきた堀を右に見ながら四谷、市ヶ谷、左に折れて市谷左内町、大久保通りに出て右に横寺町から神楽坂、坂を下って飯田橋。先ほどの外堀通りを左に後楽園を見ながら水道橋を左に、壱岐坂を右に上がって、本郷通り、本郷三丁目を春日道りに出て湯島から坂を下って不忍池、上野山下、浅草通りから田原町、浅草広小路を左に曲がり、江戸通りから山谷堀に架かっていた今戸橋でUターン、今来た江戸通りを戻って吾妻橋、蔵前、浅草橋、馬喰町を通って終着小伝馬町の牢屋敷です。
引き回される罪人はくたびれたでしょうが、書いてる私もくたびれた。まるで、落語「黄金餅」です。
江戸城を大きく右回りに回って、浅草から山谷堀の今戸橋を北端に小伝馬町に戻ってきます。馬に乗せられ引き回されたので肉体的な疲労はないでしょうが、キリストのように自分で十字架を背負って歩かされたら何日かかることやら。
■源兵衛さんの行為は過失致死だとしても、当時では死刑でしょうね。一等減じられても島流し。期間は決まっていない無期で、恩赦がなければ戻ってこれません。(あれば)死体遺棄罪ですが、これにもならないでしょうね、死んではいないのですから。八五郎は気絶していただけで、死んでいなくてお互い大助かり。
でも最悪、過失傷害罪が適用されるでしょうね。当時は本人が訴え出なければ犯罪用件が成立しません。このぐらいでは示談でしょうね。お互い宴席を設けてシャンシャンシャンとなるでしょう。
だったら、こんなに詳しく刑罰から、江戸引き回しまで講釈するから、ヒョッとしたらと思うのが人情でしょうに。 源兵衛さんに成り代わり、ゴメン。平身低頭。
舞台の不忍池から仲町を歩く
蓮の不忍池から見る池之端の街並み。木立の向こうが池之端。
極楽と地獄を見に上野不忍池と池之端を訪ねます。
上記写真でも解るように不忍池は蓮のウテナに囲まれた「極楽」です。不忍池の水深は平均1mを越えません。おぼれる事もありませんし、ジャブジャブ歩く事も出来るでしょうが、それは危険な掛けです。池底は蓮池でも解るように泥深いのでブクブクと潜ってしまうかも分かりません。今の不忍池は岸辺から垂直に池が始まっていますので、遠浅の海岸のように水際を歩く事は出来ません。噺の本題にもあるように、そんな事をしたら管理人や周りの人が飛んできて注意されるのが目に見えています。
池畔を抜けて、南東角にある下町風俗資料館から道路の向こう側の過日、池之端と呼ばれた仲町商店街を眺めます。
まず、一番に目が付く鰻屋さんのビルが「伊豆栄」です。私の家族と上野で絵を見た帰りは山を下りてここで鰻とビールで疲れを癒します。その隣が「十三や」の櫛屋さんです。クシ屋さんと言っても、鰻の竹串を作っている所ではなく、ツゲの材料で髪をとかす櫛や耳かきなどを手作りしています。失礼、ごぞんじでしたかm(_
_)m 。 左に回り込んで、中央通りに出る三又の交差点の処に、不忍池から流れ出した忍川に架かった三橋(みはし)が有りました。そこから南にビルの裏側が、池之端・仲町通り商店街入口で、アーケードが建っています。その先が漬け物屋の「酒悦」。福神漬けの元祖・家元・本家で、当然名付け親です。その向こう隣が落語のメッカ上野「鈴本演芸場」です。正月の初席には多くのファンが並んでいましたが、今はその様な事もありませんが満員。
戻って、仲町通り商店街入口から中に入って行きます。ここは江戸時代、湯島方向から上野山下に抜ける幹線道路だった所ですから、多くの老舗が残っています。江戸・明治期から現在まで残っている店を老舗というのですが、その当時繁栄を極めた商売でも今に残っていなければ老舗とは言いませんよね。「地獄」と呼ばれた春を売った見世が多くあったので探します。けころ、陰間茶屋もあり、直ぐ見付かるはずです。老舗と呼ばれるか、仲町通り商店街入口をワクワクしながら入って行く事にしましょう。
入った直ぐ左に「蓮玉庵」という蕎麦屋さんがあります。真っ白い暖簾に蕎麦と染められた、その上には大きな一枚板に店名が入った看板が揚がっています。左右には若者が好むような飲み屋さんが並んでいますので、この様なお店は逆に目立ちます。
そんなに深くはない商店街ですので、中程の右側に江戸指物の「京屋」さんが近代的なビルになって盛業しています。ここの生き字引・大奥様に仲町通りの事、江戸指物の事などをお聞きできた事を感謝します。これからもご健康で長生きしてください。その先隣が「守田寶丹」の薬屋さんです。落語「なめる」で気付け薬を買いに来た所です。その先に酒屋さんがあって路地の小さな交差点が有ります。
今までの所は住居表示で台東区上野でしたが、この路地先右側は同じく上野なのですが、左側は文京区湯島になります。この道が区境になっているのです。まるで、どっか遠い所に来てしまったようですが、同じ道の左右なのです。
四つ角の先、上野側の二軒目が組紐の「道明」です。ウインドウには組紐の帯締めやネクタイが飾られています。当然手作りのネクタイですから締め心地が大変よろしいと謳っています。その先反対側の湯島側にある「池之端薮(やぶ)」が蕎麦を提供しています。辛口の蕎麦つゆで江戸前の味を伝える三大薮の名店のひとつです。
その先で、不忍通りの大通りに出て、この商店街は終わります。
お待たせしました。皆さんも待っていた(?)「地獄」はどこにもありませんでした。約220年前には絶滅していたそうです。道理で探しても見付からない筈です。
不忍池という極楽は見付かっても、地獄はどこにもなかった事になります。
地図をクリックすると江戸・明治・現在の地図になります。 番号は下記写真に符合しています。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
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<1>櫛の十三や;(台東区上野2丁目12−21)元文元年(1736)創業の老舗。店名の由来はクシの9+4で13や。
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<2>鰻の伊豆栄(いづえい)本店;(台東区上野2丁目12−22)
上野の鰻と言えば、目黒の秋刀魚と並んでここでしょう。 徳川八代将軍吉宗の時代に創業されました。創業230年になる。
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<3>落語の殿堂鈴本演芸場;(台東区上野2丁目7−12)
安政四年から数えて来年がちょうど百五十年目。日本の伝統話芸「落語」の定席では一番古い寄席。落語協会の定席ですから、芸協や談志、円楽党は出ません。
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<4>漬け物の酒悦(しゅえつ);(台東区上野2丁目7−11)福神漬けの元祖。漬け物は良くここで買い物をしますが、ハズレ無し。
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<5>蕎麦の蓮玉庵(れんぎょくあん);(台東区上野2丁目8−7)安政6年(1860)に創業の老舗。まだ食べた事がありませんので、近々の内にはチャレンジしてみましょう。
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<6>江戸指物の京屋;(台東区上野2丁目12−10)創業百十余年、江戸指物の美を追求。
<江戸指物>指物の本場は京都でしたが、華美な装飾を省いて実質本意の指物を売って人気を得た。
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<7>薬の守田宝丹(ほうたん);(台東区上野2−12−11)落語「なめる」で出てきたお店。守田治兵衛商店。
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<8>帯紐の道明;(台東区上野2丁目11−1)創業:承応2年(1653)。昔は武具の紐を、今は羽織の紐を商う。
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<9>池之端の藪(やぶ);(文京区湯島3丁目44−8)上記池之端通りの奥にある蕎麦屋。
三大薮のひとつで江戸前の濃い下地と風味豊かな蕎麦が特徴。
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2010年6月記
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