落語「大坂屋花鳥」の舞台を歩く
   

 

 金原亭馬生の噺、「大坂屋花鳥」(おおさかやかちょう)によると。
 

 江戸、番町に梅津長門という400石の旗本がいた。無役でやる事もなく長屋も持っていて金もあり、23歳になって初めて吉原に連れて行かれた。登楼したのが大坂屋で、そこの花鳥という遊女に当たったが、お互い気が合って通うようになった。
 悪い取り巻き連中にチヤホヤされて屋敷を賭場に貸したりしている内に、吉原通いが過ぎて、さすがの金もなくなり長屋を手放し、暮れには身動き出来なくなった。御徒町の伯父さん内藤守善(しゅぜん)の所に金算段に行ったが、逆に遊びを怒られ、逃げるように出てきた。帰る事もままならず足は自然と吉原に向いた。

 坂本の通りを歩いていると、前に商家の旦那風の男と幇間が歩いていた。遊びに行くところで「男は金だと分かったので、しっかり働きここに200両ある。花魁に100両、遊びに100両渡して遊ぶ。金で遊べるのだから安いものだ」と話しているのを聞いてしまった。大音寺前は真っ暗で人通りもなかった。梅津長門、何を思ったかその町人の前に出て、金の無心をした。「どろぼう〜!」と言って逃げるところ一刀のもとに斬り殺してしまった。幇間は逃げてしまい、懐の200両を取り上げ懐手で吉原に向かった。

 この後から手先の三蔵がたまたま通りかかった。道の真ん中で寝ている人につまずいた。仕事柄すぐ辻斬りにあって殺され、犯行後まだ時間が経っていないとみて、吉原方向に足を速めた。途中梅津長門しか居なかったので、これと目星を付けて尾行した。顔が見たく左から前に回ると「三蔵か」と逆に声が掛かった「へい」、「屋敷の方にも遊びに来いよ」、「急ぎますので」と前を早足で歩いていたが三蔵は死ぬほど恐かった。先ほどの死骸を見ているはず、目撃者なので後ろから切られると思っていた。間が空いたところで脱兎のごとく駆け出した。梅津は花鳥のことしか頭になかった。吉原高札場の陰に隠れた三蔵は梅津が引き手茶屋・金田屋に入り、送られて行く先は大坂屋、それを確認し本来ならば吉原内の番所に届けるのが筋であったが、浅草聖天町の親分・金蔵の手先だったので、親分に知らせた。そこから同心に使いが走り取り方がパッと集まった。その取り方が大坂屋を囲み、初めて吉原の番所に金蔵が挨拶に訪れ了解を求めた。

 茶屋の主人を呼びだし、梅津が居る事、刀は持っていない事、借金は全て払い店の者に花を渡した事などを聞き出し、大坂屋に入った。御内所に入り花鳥を呼び出し「騒ぎは起こしたくないので、梅津に酒を沢山飲ませ、大引けが鳴った時、『油を差しに来ました』と子分が行くからそこで御用とする」、「承知しました」と花鳥は下がるが、どうかして梅津を逃がしたいと納戸の中の道中差しを持ち出し、油の入った器を持って二階に上がってきた。今の話を全部伝え、道中差しで捕り手を切り、花鳥は障子に油を掛けておくからそれに火を放てば逃げられるだろうと相談が決まったが、下では刀もないのですぐ仕事は終わるだろうと油断をして酒を飲んでいた。
 合図通り、三蔵が部屋に入ってくるなり、居合いの形で切り捨ててしまった。油を障子に撒いて行灯の火を移すと火は天井をなめ、それから屋根裏を伝わって、長屋造りの見世の天井裏を火炎は這っていき、最後の見世で外に火炎が吹き出した。二人で逃げればすぐ捕まるからとそこで別れた。「火事だー」の声でお客さんから女郎までひっくり返るような騒ぎになった。2階に上がろうとする捕り方を階段をふさぎながら下りる客と女郎。梅津は雨戸を外し外に出て屋根上を伝わったが、捕り方に落とされたが、切り伏せて逃げにかかった。
 吉原の群衆は大門以外出られないが、跳ね橋があるのに気づき跳ね橋に集中。役人が止めるどころではない。その中に紛れて三ノ輪方向に逃げた。振り返ってみると吉原の炎の中に捕り方がいるのが分かった。
 逃げられると思った瞬間、投げ縄で首が絞まった。捕り方も丸腰だと思っていたが、道中差しで刺し殺されてしまった。
 その足で根岸まで脱兎のごとく逃げてきて、振り返ると吉原は炎上していた。「花鳥すまない」といって、上野の闇に消えていった。



1.大坂屋花鳥

 吉原の女郎大坂屋花鳥は実在の人物です。彼女は自分の部屋へ火をつけ、―旦は廓を抜け出しますがやがて召捕られて伊豆八丈島へ流されます。そこにいた男と島抜けをして江戸へ逃げ帰って来たのです。江戸で隠れているところを捕えられ、ついには処刑されます。

 この落語の噺は花鳥の逸話を下敷きに脚色されたものです。現実と噺とは違って当然。噺はフィクションですから、遊女屋の名前も違えば、梅津長門も登場しません。八百屋お七も、ネズミ小僧も、忠臣蔵も舞台用に改変されています。事実と噺は違うのです。

 また『日本女性人物人名辞典』日本図書センターでは、「文化11年(1814)〜天保12年(1841)4月3日。江戸後期の娼妓。本名婦佐。江戸浜町に生まれる。江戸新吉原江戸町二丁目伊兵衛店の遊女屋しげの抱え遊女。放火が露見して北町奉行所につき出され、15才未満であったので八丈島へ流刑となる。文政11年(1828)10月八丈島三根村預りとなる。10年後天保9年(1838)7月3日未明、下総国佐原(千葉県)の博徒喜三郎ら7人で島抜けした。
 9日上総大野の荒野浜に漂着し、ともに島抜けした喜三郎と浜町の花鳥の両親を頼って潜伏。その後両人とも再び捕えられ、花鳥は小伝馬町女牢に入れられて名主として横暴をきわめたが、引廻しのうえ小塚原で打首となる」
と記述されています。

 江戸期の「流人明細帳」にも上記と同じ事が書かれています。
 大坂屋花鳥の細かい話はここにあります。http://www.ne.jp/asahi/chihiro/love/ooedo/ooedo74.html

 

2.言葉
大坂と大阪;江戸時代には、「大坂」と書くことが一般的でしたが、「大阪」と書くこともありました。文化5年(1808)に刊行された『摂葉落穂集』で、坂は「土に反る(死ぬ)」と不吉な文字として忌み嫌う人もおり、阪を用いる人もいたことが書かれています。もともと坂と阪は同字で、阪から坂の字が生まれたということもあり、1868年に大阪府が設置されてからも混用されていましたが、明治10年代には「大阪」が一般的になりました。
 別説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛くと読めることから「坂」の字を嫌ったとも、単に、役人の書き間違いから定着したともいう。
  この噺は江戸時代ですから「大坂」を使っています。 また常用漢字に「阪」は入っていないのが不思議。

手先;召捕の役人の配下にいた民間人。おかっぴき。めあかし。後年間違って伝わり、十手を持って逮捕権があったように小説、芝居、映画で表現されたが、それは間違い(三田村鳶魚)。内偵者、事件調査員が相当するところでしょう。

同心(どうしん);江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭などの配下に属し、与力の下にあって庶務・警察の事をつかさどった下級の役人。

番所;江戸時代、交通の要所に設けて通行人を見張った所。番人の詰める所。見張り所。吉原の大門を入ったところにもあった。

■「顔が見たく左から前に回る」;三蔵が梅津を追い抜く時の動作で、前の侍は人を切ってきたばかりです。右側から回り込むと、抜き打ちざまに切られる事を心配して、その危険を排除して左側から回り込んだ。その上、前に回った瞬間、知っている相手だからこそ、走ったら辻斬りの目撃者だと悟られ切られるので、死ぬ思いで歩みを早める位で距離をとって歩いた。

高札場法度(ハツト)・掟書(オキテガキ)などを記し、また、さらし首・重罪人の罪状を記し、人目をひく所に高くかかげた板札。立札。たかふだ。それを掲げる場所、掲示板。広辞苑
大きな辻にはあった。吉原の入口、日本橋、四宿、大木戸等などに。

右図;東海道五十三次之内「日本橋」広重画部分。日本橋南詰めに有った高札場です。写真をクリックすると大きくなります。

引き手茶屋;遊郭で、遊客を妓楼に案内する茶屋。上級の見世に登楼する時は、まず茶屋に入ってそこの紹介で見世におもむく。ここで芸者、太鼓持ち(幇間)を揚げて楽しんでから見世に行くのが普通です。

;祝儀。チップ。花代=芸娼妓などの揚代。

御内緒(ごないしょ);遊廓などで主人がいる部屋。通常、帳場を兼ねて一階にあります。

大引け;午前2時に客止めして玄関の大戸を立てた。見世では火の用心と、行灯の油を差しにどんな状況であっても無神経に部屋を回った。

道中差し;庶民でも護身用として旅行中に携帯した脇差。武士の大刀よりやや短い。

 

3.番町(千代田区番町)
 一番町から六番町まであります。落語「火事息子」、「大工調べ」で歩いたところです。歴代の将軍を守る為に警護の旗本屋敷を江戸城の西脇に置いた地。

御徒町(おかちまち);この地名は江戸時代にはありません。明治以降の呼び方で、また馬生師が言い間違ったのでしょうか。現在は上野駅の一つ南の駅が御徒町駅です。
おかち‐しゅ【御徒衆】=かち‐しゅう【歩行衆・徒士衆】;(カチシュとも) 徒歩で行列の供をしたり警固にあたったりする侍。特に、江戸時代、徒組(カチグミ)に属する者。広辞苑
大縄地(おおなわち);江戸時代、武家地において拝領屋敷を割り与える場合、同じ組に属する武士に敷地内の細かい区分を行わず一括して一区画の屋敷を与え、これを同役仲間で分ける事が大縄であり、その屋敷地を大縄地と呼ぶ。「日本史大事典」平凡社より、要約
御徒大縄地;今の御徒町駅の東側・現昭和通りの両側にあった地。北は上野・山下あたりから南は御徒町を過ぎて秋葉原近くまであった。御徒衆に割り当てられた土地。ここから御徒町の地名が発生した。
 他に、弓組・鉄砲組の「御手先組大縄地」、江戸城・および江戸市中の警備に当たる「大御番所大縄地」などがあり、また「先手組与力・同心」や「大番組与力・同心」等の屋敷地も大縄地として一括して土地が与えられました。「百人組同心」に与えられた大縄地は現在新宿区百人町としてその名が残っています。

坂本(さかもと);明治に入ってからは台東区下谷1〜2丁目の内、入谷交差点の西側の街で、朝顔市(下写真。クリックすると大きくなります)で有名な入谷の鬼子母神があります。江戸時代はもっと広範囲で、言問通りをはさんだ南北両側、鬼子母神も含め東側一帯、下谷、入谷、千束1,2丁目あたりまでを言いました。下谷の南側には落語「黄金餅」で有名な万年町(下谷山崎町)やその東側には「心中時雨傘」の3人が住んでいた小さな街、山伏町があります。坂本を抜けて、大音寺から吉原に向かいます。

  

 浅草御門(浅草橋)を通り、蔵前、駒形、浅草、今戸、橋場と北進し、橋場の渡しで大川を渡り下総国へ出ていた。しかし、文禄3年(1594)千住大橋が架設され、道筋は今までの浅草追分(言問橋西詰め交差点)から小塚原、千住と変更になった。
 上野山下から入谷口通りを経由して坂本、金杉、三ノ輪、千住に至る街道を奥州(日光)街道裏道と呼んだ。坂本という地名は、東叡山寛永寺が京都比叡山を模していたことから地名も比叡山の麓にある坂本に因んで付けられた。昭和初年に今の昭和通りが開通するまで奥州、日光方面への幹線道路だった。

大音寺前(だいおんじまえ);(台東区竜泉1−21) 落語「悋気の火の玉」で伺ったところ。
 都バス「竜泉停留所」の前に位置しています。普段は正面の赤い門が閉じていて中には入れません。大音寺さんの縁起もその為に分かりませんが、多くの遊女がここにも葬られました。隣には大きなお寺の「佛光寺別院・西徳寺」が有ります。文楽は落語「悋気の火の玉」の中で、追いはぎが出る様な寂しい所、と言っていますが、現在は国際通りに面して寂しいどころか、”大音”寺です。

吉原(よしわら);(台東区千束三丁目と四丁目の一部)江戸時代初期まではこの付近は湿地帯で、多くの池沼が点在していたが、明暦3年(1657)の大火災後、幕府の命令で湿地の一部を埋め立て、日本橋葺屋(ふきや)町の吉原遊郭が移された。葺屋町の時の吉原を元吉原といい、移転先の日本堤の吉原を新吉原という。新吉原は江戸の街に馴染んでくると、新がとれて、吉原と呼ばれるようになります。 新吉原は浅草寺裏の田圃の中に出来たので、遊客は駕籠か船で通った、これを吉原通いと言います。猪牙(ちょき)船といわれる小さな船で柳橋から隅田川を上り、山谷堀の今戸まで来て日本堤、つまり土手八丁を歩いて行った。郭内は医者以外は馬・駕籠の乗り入れは禁止だった。衣紋坂(えもんざか)「ここへ来ると衣紋を作ろうというのでこの名が付いた」。その右に高札場、左に「見返り柳」がある。五十間道を行くと「大門」。郭の周りは 鉄漿溝(おはぐろどぶ)に囲まれていた文字通り廓でした。中央の通りが「仲乃町」で両側に茶屋、奥には楼閣が並び、水道尻(みとじり)まで続いていた。大門を入るとすぐ会所があり出入りする人を見張っていた。その隣に七軒茶屋があり最高級の茶屋として有名だった。

 花鳥は吉原の江戸町二丁目大坂屋に勤めていたと言います。この江戸町二丁目は「三枚起請」で訪ねたところで、喜瀬川花魁と同じ一廓です。江戸町二丁目の写真はそこにあります。
 吉原の火事および跳ね橋については、落語「首ったけ」に詳しい記事があります。この時の出火元も江戸町二丁目です。

角海老楼;吉原遊郭京町1丁目入口角に昭和33年まで有った最高級楼閣。
 「吉原では、角海老はやはり一番大きかったようで、玄関の欄間に竜を彫ったりして、家自体にもたいそうなお金をかけ、部屋の中へも大金をかけて凝っていましたね。部屋部屋に高尾太夫がかむろを従えて、色々なさまをした人間よりおおきな人形があって、金糸銀糸で織った打掛けに、銀色の水玉がいっぱい付いている、それはすごい衣装で、そういうのがある部屋が3つほどもあったんですから。角海老はそういうので有名でした。稲本楼(角町入った右)というのは、花魁のひときわ美人ばかりを集めているので有名でしたね」
 『古老が語る台東区の明治・大正・昭和 松本君氏』 台東区ホームページより 一部加筆

 吉原の楼閣はピンキリですが、最上級の楼閣は以上のような様子でしたが、キリは「五人廻し」や「お直し」の羅生門河岸ように、屋外ではないという程度の部屋もありました。

淺草聖天町(あさくさ しょうでんちょう);山谷堀の下流、隅田川に合流する地点にある待乳山聖天社(台東区浅草7−4)西側の山谷通り(吉野通り)に面した街なみ。現在は浅草7丁目と6丁目に接する街。

三ノ輪(みのわ);(台東区三ノ輪)吉原の北の町は樋口一葉が一時住んでいた竜泉、その北隣で台東区の北端の街が三ノ輪です。噺の中では三ノ輪方向に逃げた、と言っていますから三ノ輪まで行ったのではなく、吉原から北に向かって逃げたと言う事です。竜泉から西に金杉、根岸、その先が上野の森と谷中の寺町です。


4.賭場
 博打を開帳する場所。一般の民家で賭場を開くと目明かしやその道の役人に発見され、その最中に手入れが入って捕縛される危険を含んでいます。しかし、武家屋敷で開いていてもお目こぼし(管轄外)になって、その危険はなかった。そのため、番町の旗本屋敷なら願ってもない場所であった。
 落語「文七元結」では、本所の細川屋敷で賭場が開かれており、左官の長兵衛は身ぐるみ剥がされて帰ってくる事から噺が始まります。

 賭博の罪は重いが、死罪になる事はなく最高刑で遠島、罰金、であったが、家屋敷の没収や非人に落とされる事もあった。自首や密告者には罪を問わず褒美まで与えた。また連座が適用される。賭場に関係ない同町内の住民にも罰金がきた。
 大名の下屋敷か旗本の屋敷での博打は町奉行所の管轄外で町奉行所は手が出せない。屋敷の主が摘発するしかない。



 
舞台の吉原に向かって歩く

  JR御徒町駅を出て東に、JRと並行して走る昭和通りに出ます。この近辺はお菓子屋の問屋街でしたが今や宝石貴金属、腕時計の街に変貌、食料品街はJRの西側アメヤ横町に集中しています。暮れの買い物客の姿が歳時記のようにTVの映像に現れます。
 昭和通りは上空に首都高速道路が走っています。その左右に展開していた屋敷が御徒大縄地で、伯父さんが住んでいた所です。高速道路に沿って北に進むと、上野駅前の広場を見ながら北に、首都高速が終わって滑り台のように一般道の昭和通りに合流した先に入谷の交差点が見えます。
 左に曲がると朝顔市で有名な鬼子母神があり、根岸一丁目の交差点を過ぎると左奥がJR鶯谷駅があります。上野の山を取り囲むようにJRは走っていますので、その西側は上野の山中です。その反対方向(東北)は根岸です。

 入谷交差点を右に曲がり言問通りの左右に開かれた街が入谷を中心に江戸時代、坂本と言われた地です。現在と違って真っ直ぐな道はなくクネクネと曲がった畑の中の道を、吉原の大門の裏手に出るように進みます。大音寺前の道を左に曲がり大音寺前に出ます。当時は街灯もなく真っ暗な所だったのでしょう。ここで梅津は追い剥ぎを働いてしまいます。現在はバスも走る大通りで、その南にはお酉様で有名な鷲(おおとり)神社がありますし、その南は浅草寺で、歓楽街の六区(ろっく)です。
 梅津は花鳥の事しか頭になく、付けられている三蔵にすら気が及びません。その先で右に曲がり一葉が住んでいた竜泉寺町(現・竜泉)を通って、右に吉原のお歯黒どぶを見ながら、正面入口の大門まで迂回していきます。

 表通りの土手通りから見返り柳、反対側の右側には高札場を見ながらS字形の衣紋坂(五十間道)を抜けると吉原入口の大門(おおもん)です。大門を入ってすぐ右手に四郎兵衛の会所、左側に、門番所があり町奉行所の隠密廻りの与力と同心が出張して見張っていたので面番所といった。面番所の他に、江戸町一丁目から京町一丁目の裏手一帯の西河岸と江戸町二丁目から京町二丁目の裏手の羅生門河岸に番屋、自身番があった。
 正面の道路が仲の町と呼ばれ、街はないのにこの様に呼ばれた。この左右には引き手茶屋がずらっと並んでいました。噺の金田屋はどこにあったのでしょうね。
 そこから江戸町二丁目の大坂屋に登楼します。そこに花鳥が居たのです。
 江戸時代の様子ではこの様になりますが、現在は3代目の見返り柳以外地形をのぞいて何もありません。

 三蔵は大門内の番所に届けず、1kmちょと離れた、待乳山聖天下の浅草聖天町の親分・金蔵に急を知らせます。
 吉原は侍でも必ず腰の刀は外して登楼します。これは吉原の決まりで例外はありません。で、捕り方もこの情報を過信し油断します。しかし、花鳥と梅津は深い仲になっていましたから大変。火事騒動の上、北側の竜泉寺側からお歯黒どぶの跳ね橋を下ろさせ、逃げまどうお客と共に逃走します。
 その辺りが現在の一葉記念館があるあたりです。北に逃れた梅津ですが、東に逃げれば隅田川で行き止まりですから、必然的に西の方角を目指して、金杉から旧日光街道を横切り、根岸に入り、その南側の上野北側の闇に姿を消します。しかし、上野山中は寛永寺の寺領ですから夜間は立ち入りが出来ませんので、今のJRに沿って北に逃げるより方法がないでしょう。  

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。

写真

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番町(千代田区三番町14)
 千代田区の江戸城の西側御門・半蔵門から四谷駅までの広範囲に広がっていた旗本屋敷群。一番町から六番町まで有ります。静かな地で大使館や私立女子校や大学が幾つもあります。地形的にも急斜面があり、起伏にも富んでいます。写真は三番町の東郷元帥公園から東側あたりで、地図に記されている道も階段です。

御徒町(台東区台東四丁目昭和通り)
JR御徒町駅の東側に並行して走る昭和通りです。当時はこの名の道は当然ありませんでしたが、この周辺に多くの御徒大縄地がありました。
この場所は春日通りとの交差点ディスカウントストアがあるところで、南の秋葉原方向を見ています。

 

坂本(台東区下谷1−3。中入谷交差点)
下記の根岸一丁目交差点から言問通りを東に、右に朝顔市で有名な鬼子母神を見て4号線の昭和通りとの交差点・入谷に出ます。道に沿って真っ直ぐの左右が江戸時代の坂本と言われた地です。正面が浅草寺北側で隅田川の言問橋に出ます。その先の業平のSkyTreeが頭を出しています。

大音寺前(台東区1−21)
相変わらず参拝者を拒み続ける大音寺です。その前の通りにはバス停があって、「竜泉」と表示されていますが、その南の浅草から比べると、ガタッと人通りが少なくなります。

吉原(台東区千束4−43)
舞台は江戸町二丁目ですが、前々回「三枚起請」で歩いたところです。そちらで吉原の写真をご覧下さい。大門を入って江戸町を通り越し吉原の中心地を右に曲がった揚屋町の中程から、振り返って信号機の見える仲之町を見ています。カメラマンの後ろ側が竜泉でこの辺りから跳ね橋で脱出したのでしょう。

待乳山聖天(まつちやま-しょうでん。台東区浅草7−4)
吉原に船で隅田川をのぼってきた時に、左の小高い山の上にあるので目印になったお寺さん。ここを左に曲がり山谷堀の入口で船から下りて土手通りを行くと吉原です。

浅草聖天町(台東区浅草6と7丁目の間を走る吉野通りの左右)
上記待乳山聖天の西側の道(吉野通り)の左右が、この町でした。当然待乳山聖天から町名が付いたのはごく自然な事です。今は説明がなければ普通の街並みです。

一葉記念館(台東区竜泉3−18)
竜泉の有名人と言えば、五千円札にも描かれている樋口一葉でしょう。
一葉は父親を亡くしここで駄菓子屋を始めますが、それだけでは生活が出来ず、極貧の中、小説の世界に入り「武蔵野」を発表します。吉原の隣、その旧邸跡に記念館が建ちました。その後、本郷丸山に移り「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」を14ヶ月間で発表。しかし、明治29年24歳で生涯を閉じました。

竜泉寺(台東区竜泉2−17)
 竜泉の町名の元になったお寺さんです。
ここも遊女の投げ込み寺の一つで、山門を入った左側にその墓があります。墓の門柱に吉原「三浦屋」の名が見えます。

三ノ輪(台東区三ノ輪1−20)
竜泉の北側に隣接する街で、街の名よりも交差点名の方が名が通っています。と私は思っています。その交差点に架かる横断歩道橋から、竜泉、浅草方向を見ています。

根岸(台東区根岸1−1。根岸一丁目交差点)
JR鶯谷駅西側が上野の山で、その東側が根岸と呼ばれる街です。写真のここは、根岸、正面左側が鶯谷駅(鶯谷という町名はありません)、奥に行くと寛永寺坂から上野の森に入ります。
詳しい根岸は落語「茶の湯」をご覧下さい。

                                                                  2010年5月記

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