落語「辰巳の辻占」の舞台を歩く
   

 

 金原亭馬生の噺、「辰巳の辻占」(たつみのつじうら)によると。
 

 男連中には多すぎるほど遊び場所があります。
 若旦那が伯父さんの所に呼ばれ、親父さんから頼まれた意見をしている。家を空けると言っても月に二・三日で・・・、ただ、家にいるのが2・3日だという。遊びが好きなのではなく、花魁(おんな)の元に通っていなければ、花魁は死んでしまうと言う。親は死なないが花魁は死んでしまう。場所は辰巳の洲崎だという。
 そんなに好きなら、伯父さんはその女を身請けしてやるという。花魁は若旦那に負担を掛けてはいけないので、年期(ねん)が来年3月、明けるのでそれまで待ってと言った。若旦那はその言葉に感激しているが、伯父さんは、相手は商売だから甘い事も言うだろう。そこで、試してみろと手はずを教え込んだ。
 今すぐ洲崎の茶屋に行って、花魁を呼びだして黙って泣いていろ。義理の悪い所の金、500両を使い込んでしまった。どうしても死ななければならない。だから線香の一本でも立ててくれという。その時、花魁が用立ててきますとスッと立ち上がって裏に行ったらダメで、あきらめろ。逆に一緒に死のうと言ったら脈があるが、それだけでは充分ではなく洲崎の奥の海に行って飛び込む寸前になったら留めて、俺の所に連れて来い。そしたら一緒にさせてやる。

 茶屋に花魁を呼んで、待つ内に、近くにあった煎餅を取り上げ、中の辻占を読んでみた。「しみじみ好いたよ」、次のを見ると「一緒に死にたいねぇ」、俺のそのまんまだと喜んでいる。次は「嫌らしい奴だよ」煎餅も食べたくなくなった。
 花魁が入ってきた。伯父さんとの狂言を話してみた。花魁はここでそんなに金使わなかったわよ、とキツいジャブを。「どうしようもないの? じゃぁ、私も死んであげるわ」、若旦那は心の中で「ヤッターァ」。「首くくりは止めようね。鼻水が出てみっともないから」、「裏の海に飛び込もう。俺は大門から出て裏に行くから、お前は裏から回って海で待っていろよ」。と、花魁の話も聞かず飛び出していった。

 花魁は話の行きがかりじょう、いやいや海にやって来た。真っ暗で何も見えないので「若旦那、どこにいるの」と声を掛けて、近づいて行った。
 石につまずいた、まだ死にたくない。その石を持ち上げ「お先に・・・、南無阿弥陀仏」と、ドブンと放り込んだ。驚いたのは若旦那。「計画と違ってきた、風邪を引いてるし、一人では飛び込みにくい」、石に身代わりになって貰おうと、足元から拾ってドブン。「馬鹿だね。飛び込んじゃって、石か人間か音で分からないのかね」と花魁。

 二人ともボヤッとしながら若旦那は大門から、花魁は裏から戻ってくると、茶屋の前でバッタリ会った。「あっ!お前は」、「若旦那、しばらくで・・・」、「なんで、しばらくなんだ」、
「だって、娑婆で会ったきりじゃないの」。


 
1.辻占辻占版木
 ・四辻に立ち、初めに通った人の言葉を聞いて物事の吉凶を判ずる占い。
 ・偶然起った物事を将来の吉凶判断のたよりとすること。
 ・紙片に種々の文句を記し、巻煎餅などに挟み、これを取ってその時の吉凶を占うもの。これを辻占煎餅という。
辻占版木、文;広辞苑より
 「うんきつよし あきないは するがよし
 かみのめぐみで うんひらく のぞみごと大々方 
 かのふ たび行いそぐ べからず
 あきないはんじょう大吉」


 
2.洲崎(すさき。江東区東陽一丁目)
深川州崎十万坪 辰巳;江戸の中心江戸城から見て辰巳(東南)の方向にあったので、深川地区を辰巳と呼んだ。富岡八幡を取り巻くように深川七場所と言われる岡場所が江戸期に栄えた。そこの芸者を辰巳芸者と呼んだ。その富岡八幡宮から東に1km程の所に洲崎があります。

 深川洲崎十万坪(左図;広重。クリックすると大きくなります)と言われた所で、真砂が続いていた絶景な所です。初日の出、月見、潮干狩り、水遊び、芸者を乗せた船遊び等で賑わった、行楽の名所です。
  寛政3年(1791)9月4日大暴風になり、おりからの満潮と重なり江戸は津波に襲われた。この洲崎が一番被害を受け、洲崎弁天はつぶれ、高級料亭升屋もつぶれ、流失難民が多数出た。これ以後名行楽地は荒廃し、後年埋め立てが始まります。この為幕府は東西285間(520m)、南北30余間(海側に約60m)の土地を買い上げ、人の住むことを禁じた。その碑が今も洲崎神社(木場6−13。元・洲崎弁天)に残っています。

  根津の遊郭は明治15年ごろ吉原を抜いて東京第一の遊郭となった。ところが隣には東京大学が出来て文教地域になり根津の遊郭の引っ越しが真剣に考えられるようになった。明治20年5月、江東区洲崎の埋め立てが完成した期に、その地に21年9月引っ越し開業をした。後年、品川遊郭の一部も加わり東京一の繁栄を極め栄えた。
  昭和33年3月、遊郭は無くなり現在はごく普通の町並みがあるだけです。しかし、洲崎の周りには今でも堀の跡が残り島だった事がうかがえます。
 第101話 落語「小言幸兵衛」より孫引き
 右図;東都名所「洲崎初日出の図」国芳 江東区蔵

     

 「洲崎汐干図」 国貞画 江東区蔵 現在の洲崎が埋め立てられる前、観光地としての洲崎

 洲崎遊廓

洲崎大門(すさきおおもん); 現在の永代通り「東陽三丁目」交差点から東陽1丁目方向へ入ったところにあった洲崎橋に設置されていた外門で洲崎遊郭への正面玄関。吉原の吉原大門と同じ類のもので、戦前は鉄の門柱であったが戦後の隆盛時は「洲崎パラダイス」の名が掲げられた大きなアーチ形の門が設置された。昭和33年の洲崎パラダイス廃止に伴い門は撤去された。

洲崎橋跡; 洲崎川に架かっていた橋。洲崎遊郭への出入口で、洲崎大門が設置されていた。その後洲崎川が埋め立てられてしまい、現在は橋の跡に往事の名残を残す説明碑が残るのみ。橋の右真横にあった、洲崎橋交番も平成12年に取り壊され、不動産屋になった。現在、江東洲崎橋郵便局にその名をとどめています。

旧「大賀楼」建物;洲崎遊郭の中でも大見世クラスだった「大賀」の本館。その後も建物が現存し(「大賀」の屋号も建物に掲示されたまま)、華やかなりし洲崎全盛期と変わらない外観を今に残す。現在は日本共産党の江東区議会議員の個人事務所として使用されています。

東陽弁天町アーケード街; 現在の東陽1丁目商店街。もともと近隣に所在する洲崎弁天神社の名を拝して洲崎弁天町と呼ばれた地域。建物の一部が旧遊郭時代のものをそのまま利用して使っているお店もあります。

大門(おおもん)通り; 洲崎遊郭の正面玄関だった洲崎大門から、北に真っ直ぐ延びる道で、現在もバス通りとしてその名が残る。「おおもん」と読み決して「だいもん」とは読んではいけません。

 洲崎遊廓の外

洲崎弁天;(江東区木場6−13)洲崎方向から西に弁天橋を渡った、隣街に鎮座する社。江戸時代からの名刹で、現在の正式名は「洲崎神社」。洲崎の町名の元となった神社。元禄13年、将軍徳川綱吉の母の守本尊で江戸城紅葉(もみじ)山から遷し創建。当時この付近は海岸であり、また水にまつわる神仏でもある弁才天が祀られ、海難除けの社として地元漁民の信仰を集めた。歌川広重の浮世絵(下図)にも往事の姿が描かれている。当時は海岸から離れた小島に祀られており、人々から「浮き弁天」の名で呼ばれていたが、津波で全壊。その後埋め立てが進み、現在では海岸線は望めない。震災、東京大空襲で壊滅的な被害を受けたが、戦後現在の姿に復興した。

洲崎弁天_広重画

洲崎弁財天境内全図」広重画  東都名所「全図」シリーズ 津波が来る前の洲崎で弁天がここに有った。
緑色の部分が居住禁止地域。洲崎遊廓が埋め立てられる前までは、ここを洲崎、この奥までを洲崎十万坪と言われた所です。海側の遠浅には磯遊びの人達が見えます。海は当然江戸湾です。

波除碑(なみよけのひ); 洲崎弁天の境内に建つ江戸時代中期の石碑(左写真)。寛政3年(1791)9月4日にこの一体を襲った津波の惨状から、洲崎弁天から西側一帯(木場一丁目及び六丁目)を、津波に備えての冠水地帯として居住を禁止し、災害の惨状を記録した2本の波除けの碑を設置した。現在このうちの1本が洲崎弁天の境内に移設され現存している。上図左下の弁天堂から右上(西)の緑色の地帯が居住禁止地帯です。後に出来た洲崎の歓楽街は洲崎弁天手前、雲の中、堀を挟んだ東側です。中央の堀川(大横川・旧名大島川)は現在もあります。

洲崎パラダイス「赤信号」小説「洲崎パラダイス」終戦後から隆盛を極めていった洲崎遊郭に生きる遊女たちの素顔を追った芝木好子の短編。昭和31年に「洲崎パラダイス赤信号」の名で映画化された。

洲崎球場;戦前、洲崎地区に設置されていた野球場。後楽園球場が出来るまではプロ野球公式戦のメイン球場の一つとして利用されたが、突貫工事と、もともと湿地帯に作られた球場のため水はけが悪く、冠水によるコールドゲームも発生した。
 1936年秋開場。翌1937年には92試合もの試合が開催されたが、1938年には僅か3試合の開催に激減した。後楽園球場に移り、結局、解体した。江東区教育委員会が、2005年2月に江東区新砂一丁目2番8号付近、オルガノ株式会社前に説明板を建てた。
左写真、当時の洲崎球場。説明板の写真より。

 

3.言葉
 遊ぶところと言えば、吉原という公認の遊廓と、四宿という東海道(品川)、甲州街道(新宿)、中山道(板橋)、日光街道(千住)の江戸から最初の宿駅、それから岡場所と言われたところが有りました。江戸にはかなり多くの(男の)遊ぶところがあったのです。 この噺では岡場所の洲崎が舞台です。 

身請け;大部分の遊女は前受金という借金で身柄を拘束されていました。その借金を第三者が完済して身柄を自由にする事を言います。大概は惚れた男に身請けされその伴侶となった。遊女とすれば願ってもない話で、これ以上の吉報はないでしょう。
 この噺の中でも身請けを断り「来年年期(ねん)があけたら・・・」と言っていますが、伯父さんはおかしいとピンと来たのでしょう。「三枚起請」でも、「年期(ねん)があけたら お前のそばに きっと行きます ことわりに」という台詞があるくらいですから。

茶屋;引き手茶屋の略。上級の見世に登楼する時は、まず茶屋に入ってそこの紹介で見世におもむく。ここで芸者、太鼓持ち(幇間)を揚げて楽しんでから見世に行くのが普通です。洲崎は吉原に比べて格が落ちますので、そんな高級な遊びが出来る茶屋はあるかと伯父さんが聞いたくらいです。洲崎にもありました。

500両;この噺の舞台は明治20年以降の噺です。明治に入って貨幣単位を両から円・銭に変更しています。しかし、庶民の間では昔からの呼び方”両”を使う人々が多くいました。1両(円)はインフレが進んで5万円以下になっていました。明治中期になるインフレが益々進んで1円が現在の1万円ぐらいに価値が下がります。使い込んだ金(?)はざっと現在の500万円前後になるのでしょうか。

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ);阿弥陀仏に帰命するの意。これを唱えるのを念仏といい、それによって極楽に往生できるという。六字の名号。広辞苑より
 心中するときには一番ふさわしい念仏で、他宗の経では様(?)にならない。

娑婆(しゃば);人間が現実に住んでいるこの世界。
 江戸時代、遊郭内で知人に会ったときの挨拶の言葉。遊郭以外でも、久しぶりに会ったときに用いる。
広辞苑。これを「娑婆以来」と言った。娑婆以来と、噺のオチ「だって、娑婆で会ったきりじゃないの」は、あながち奇想天外なオチではなかったのです。
 


 舞台の洲崎を歩く

 

明治20年、東西500m、南北400mの埋め立てが完了した時点では、ここは出島で四方を海に囲まれた城郭、いえ遊廓だったのです。現在は手前(北)の運河は洲崎川と呼ばれ、昭和50年埋め立てられて公園となり中央はサイクリングロードになっています。西側と南側は運河が残り、橋によって街が隣と繋がっています。東側は一段高い、洲崎から見れば丘のようになっていて、堀跡はありません。
 明治21年から遊廓として栄え、島全体が遊廓でしたが戦後洲崎パラダイスと名を変えて、入口から見て左(東)側が遊廓として残りました。反対側の西側は戦後一般住宅地になりました。

 永代通りの東陽三丁目交差点で交差する道が「大門通り」と言います。ここを南に曲がると、埋め立てられた洲崎川に渡された「洲崎橋」が公園になった上をまたいでいます。橋の右手前に小さな不動産屋が有りますが、遊廓を守っていた「交番跡」です。橋の所に大門が建っていました。橋手前の左に「江東洲崎橋郵便局」が当時の名称通りに営業しています。

 橋を渡ります。今まで往復2車線の道路が中央分離帯を取りながら6車線の大通りになっています。橋の上から見下ろすと中央とその先に信号機のある交差点が見えます。通りの左側が元遊廓跡です。最初の信号機のある交差点左手前に八百屋さんを中心にアーケード商店街がありますが、その建物が過日の遊廓の建物を利用しています。大通り側から見てもさほど気が付きませんが、左に曲がって2階を見上げるとタイル張りのエンタシスの柱が見えます。その背中側に小さなトンネルのような路地に沿った見世達が有りましたが、現在はなくなっていました。また道を奥に進むと色の派手やかな見るからに見世という建物も無くなっていました。2005年撮影洲崎に残る建物

 中央の大通り次の信号機を曲がると中程に「大賀楼跡」の建物があります。壁面上部に大賀と大書きされた看板文字が当時のまま付いています。なんと共産党区議の事務所として使われています。
 他にも2階建ての古いアパートと見間違う建物が結構多く残されていますが、大部分が見世だったのでしょう。 <現在の遊廓跡建物群

 洲崎橋跡に戻ります。渡って旧堀跡を左に見ながら弁天橋を渡ると、その川が洲崎の外堀です。渡った左の神社が「洲崎神社」で旧弁天社と言われた社です。この中に「波除碑」が建っていますが、砂岩で作られた為、痛みが激しく補強が入っていますが、いつまで碑文が読めるでしょうか。隣には「名人竿忠之碑」が建っています。この神社から西に平久橋までの520mは居住禁止とされました。この津波の被害時はまだ洲崎はありませんでした。

 先ほどの洲崎橋の袂に戻り、そのまま右に堀跡の公園を見ながら、進み東陽町の交差点からの道を横切り進むと江東自動車試験場の道に出ます。左に並行して走る表通りを進んでも同じ事です。試験場のある右に曲がると、左に試験場、右にJDLのコンピュータソフトの会社、その先のオルガノ会社が有り、その前に江東区で建てた説明板によれば、JDLとオルガノが有るところ全域に「洲崎球場」が有ったと記されています。当時は地下鉄もなく不便なとこだったので、水道橋・後楽園が出来るとそっくりと移って行ってしまいました。そして幻の球場となってしまったのです。
 東京にお住まいの方は、今度の自動車免許更新時に試験場から出てきて、その前の建物と左の建物を合わせた範囲に球場があったのだなと思いだしてください。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。
 
写真

 それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

東陽三丁目交差点

洲崎入口
 永代通り東陽三丁目交差点から元洲崎遊廓を覗く。角に建つ日本蕎麦屋「志の田そば」は古い写真を見ても写っていますので、当時の生き証人なのでしょうか。奥のチョット高くなった道路の所が洲崎橋があった所です。

大門通り_洲崎橋上

洲崎橋上
 その橋跡上を振りかっています。画面右側の白い建物が元交番があった跡で、不動産屋が営業しています。中央の標識に「大門通り」であることを知らせています。

洲崎橋跡

洲崎橋跡
 
上記の所から大門通りを渡り洲崎橋跡の標識を見ています。画面奥に木々が茂っていますが、埋め立てられた洲崎川の跡で公園になっています。

洲崎川跡

洲崎川跡
 上記橋跡から奥に入ってきたところです。中央がサイクリングロードになっていて回りは木々や花が植えられています。左右には歩行者用の回廊が設けられています。中央のトンネルになっているところが、洲崎橋跡です。

洲崎中央通り

洲崎全景
 洲崎橋を入って向こう岸に架かる南開橋上から振り返って洲崎の中央を見ています。当時は海に突き出した島でしたので当然この橋はありませんでした。右(東)側に遊廓がありましたから、今でもその建物が残り、家として利用されています。
 その写真は現在の遊廓跡建物群>にあります。

州崎神社

州崎神社(江東区木場6−13)
 洲崎の街を正面に出て左(西)に行けば弁天橋を渡るとそこにあります。洲崎の名前の元になった神社です。 「波除碑」は鳥居をくぐった直ぐ左に建っています。本殿の裏が堀で、その先が洲崎です。

洲崎球場跡

洲崎球場跡(江東区新砂一丁目2番8号
 幻の洲崎球場跡です。自動車の江東運転免許試験場前がその跡です。

                                                     2010年5月記

次の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送