落語「やかんなめ」の舞台を歩く
柳家喜多八の噺、「やかんなめ(癪の合い薬)」(しゃくのあいぐすり)によると。
向島に遊びに来ていたら、突然奥様が癪を起こして倒れてしまった。普段、奥様は癪の合い薬の、愛用の”アカのやかん”を舐めればすぐに治るのであったが持参していなかった。女中はビックリしたが、近くにやかんは無いかと探したが有るわけはなく、丁度その時やかんが歩いてきた。頭髪が無くピカピカ光った、どう見てもやかんの様な頭を持った、お供を引き連れ人品優れたお武家さんが遊山に来ているのを見つけた。
それを見た女中は仲間の止めるのも聞かず奥様の為とその武士の所に駆け寄り、「お願いでございます。主家の奥様が癪で倒れ、生憎く合い薬を持ち合わせていないので、お助け下さい」と、願った。武士は快く引き受け、持ち合わせの癪の薬を差し出したが、薬ではないと言うと、わしのこのマムシ指で押してつかわすか。または、六尺ふんどしを外すがどうだと勧めてくれた。
奥様はやかんを舐めれば治るので、そっくりなその頭を舐めさせて欲しいと懇願したが、当然武士はカンカンになって怒った。無礼討ちだと怒り、その連れは笑い転げ、女中は泣いて、収拾がつかない。
「私は死を覚悟していますから、どうぞお願いします」、「そこまで言われれば、忠義なその方に免じて舐めさせよう」。と言うことで、頭を差し出し舐めさせた。ベロベロ、ペロペロ舐めると、気が戻ってきた。
癪が治ったお礼にお名前とお屋敷を教えて欲しいという奥様に、恥の上塗りだから教えられないし、万一街で合っても声を掛けるでないとキツく申し渡した。
右左に分かれてみると、武士の頭がヒリヒリと痛んだ。連れの者に見させると頭に歯形がくっきりと残っていた。
「キズは残っていますが、漏(も)るようなキズではありません」。
喜多八はいつも病弱だ病弱だと言いながら登場、弱々しくホントに大丈夫だろうかと思わせていながら後半凄いテンションで客席を笑わせている。騙されたとの思いは帰ってきて布団に入ってから「ハッ」と気が付く、その力強さで人気を引きつける。そうそう、学習院出のおぼっちゃまだったのが、何処をどう間違って(?)落語家に。師匠の小三治もこの噺が面白い。
1.癪(しゃく)
種々の病気によって胸部・腹部に起る激痛の通俗的総称。さしこみ。喜多八は男の疝気(せんき)に女性の癪は持病だと言っています。
そうそう、落語「花見小僧」で、ここ向島にお嬢さんと徳さんがお花見に来ていて、小僧が買い物から帰るとお嬢様は癪の持病が出て離れで休んでいた。その看病に徳さんが同室していたが、お嬢さんの合い薬は徳さんが一番。お供の小利口な小僧と違い、未だなぜ徳さんが一番なのか分からないおバカな私です。この噺を書いていてやっと分かりました、徳さんの頭を舐めさせたんだ。
■合い薬;その人の体質に合って効き目のある薬。癪の合い薬は世間では、男のマムシ指で患部を押すと良いとか、または男の下帯(ふんどし)で身体を縛ると良いとか言われます。噺の奥様の癪の合い薬はアカのやかん。お武家さんがたまたま持ち合わせの薬があったが、それではダメで・・・、歯形が付くほどなめ回して・・・。
2.やかん(薬缶)
戦場で兜代わりにかぶり、矢が飛んできてやかんに当たり、ヤッカン、やかんといったのでやかんになったとは落語で、ヤッカンの約。もと薬を煎じるのに用いたのでいう。 広辞苑
琺瑯(上)・アルマイト(下左)・銅(下右3点)などで鉄瓶の形に造った容器。湯沸し。茶瓶(ちゃびん)。
また、薬缶頭(ハゲ)の略。やかんをひっくり返すとその様に見えますか。
アカのやかん=銅(あかがね)で出来た赤銅色に輝くやかん。使い込むと10円玉のような濃い赤銅色になる。
噺の中の武士はこの様な頭だったのでしょうか。
■ヤカン泥;落語にヤカンを題材にした噺があります。 「盗人」、盗人の用心に、親父、蔵に寝る。それでも盗人来て、壁を切り、まづ一人蔵の内へ入れば、外の一人は持ち出す道具を受け取る筈で、しゃがんでいたる。ときに親父、目を覚まして、壁の穴のあいたるを合点行かずと、件の穴より頭を差し出したるに、外に居る盗人、「ムヽ、薬缶から先か」。
「道づれ噺」安永4年(1775)刊 鳥居清経画 2012.10.原話追記
3.向島(広義には墨田区北側の一帯)
狭義には墨田区向島(町)1〜5丁目。三業組合が今でもあり花街がある。また隅田川土手は隅田公園と言われ、桜の名所として有名。また、隅田川の花火は夏の風物詩で、冬は雪見の名所。隅田公園には三囲(みめぐり)神社や、長命寺の桜餅、言問団子、最近はきび団子さん等もあります。桜の時期も素晴らしいのですが、新緑の時期もまた素晴らしい。
■広義の向島;隅田川東岸には「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在していた。対岸地域から見て、これらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも考えられ、各説有り特定は難しい状態です。
なお、「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは明治24年(1891)に向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった地名の誕生からでした。
■墨田区;近代日本を形成した明治時代、すみだも新しい首都東京の一角として、新たな役割を果たすようになります。明治11年(1878年)、南部は本所区となり、北部は南葛飾郡に編入されています。当時の生産品といえば、南部では瓦、髪結具、ろうそくなどの日用品、北部では農作物でした。それが、河川に囲まれた好適な立地条件や労働事情で、しだいに工業地帯化します。特に、紡績、精密工業、石けん、製靴が盛んで、大正期には、輸出向けとして、玩具製造、ゴム工業などが起こり、発展しました。
しかし大正12年(1923年)の関東大震災で、本所区は9割余りが焼失し、焼死者4万8千人と、東京市全体の8割強に達する惨状となりました。やがて復興し、都市化が進んだ北部には、昭和7年(1932年)、向島区が成立しましたが、第2次世界大戦の戦火で再びすみだの7割が廃きょと化し、6万3千人の死傷者と30万人近い罹災者を出しています。
昭和22年(1947年)3月15日に、北部区域の向島区と南部区域の本所区が一つになって誕生しました。
そのときに、新しい区の名前として「墨田区」と名付けられました。それは、昔から広く人々に親しまれてきた隅田川堤の通称“墨堤”の呼び名の「墨」からと、“隅田川”の「田」から名付けられたものです。
墨田区ホームページより
舞台の向島を歩く
隅田川東岸、墨田区向島の墨田公園を北に向かって歩きます。
淺草から吾妻橋を渡って、アサヒビールと隣の墨田区役所前に建ちますと、平成15年(2003)に建てられた新しい「勝海舟像」が待っています。これは上野公園に建てられている、西郷隆盛像に対抗して建てられたと言われています。この裏には区役所正面と「リバーサイドホール」が有ります。
その北が枕橋で、下を流れる川が源森川です。北岸に淺草から来た東武電車が高架で抜けていきますが、その先の最初の駅が業平橋。この地域で新東京タワー「東京スカイツリー」の工事が進んでいますが、未だここからでは眺望することが出来ませんが、暮れの頃にはここから立ち上がってきた下部が望めるでしょう。この道が墨提(ぼくてい)通りと呼ばれ北に白髭橋から水神、梅若寺に至ります。
枕橋を渡り終わって、左手は当然隅田川と平行して土手があり、桜並木が続いています。右手が南北200m、東西300mの水戸家下屋敷小梅邸が有った所で、現在は和式庭園を復元し墨田区が管理している「隅田公園」です。中央には山水風の池が配され、ビオトープ風の自然が魅力でしょう。
公園の北側、言問橋の際に「牛島神社」が有ります。関東大震災の折り被災し、後で出てきます「常夜灯」の有った所からこの地に落ち着きました。撫で牛(右写真)や落語中興の祖・烏亭焉馬(うてい えんば)の狂歌碑が有ります。取材中の5月、鳥たちの愛のさえずりや烏の巣作りが始まったのでしょうか、参道を歩く人達を急降下して脅しています。羽が頭をかすめてますが、糞の爆撃よりマシかも知れませんが、突かれると大変。
言問橋の下をくぐり、釣り堀や児童公園を見て、小梅小学校右側にある「すみだ郷土文化資料館」(向島2−3)を見学します。器に比例した資料がないのが寂しい。
その「すみだ郷土文化資料館」のジオラマより隅田堤の花見風景。資料館の撮影許可済み
左下へ
写真左に牛島神社の常夜灯(現在の写真参照) 墨堤の様子
右上より
竹屋の渡し 三囲神社の墨堤側の鳥居(現在の写真参照)
公園の左右が狭まってきた終点の先に「三囲(みめぐり)神社」が有ります。元禄6年のひでりの際、芭蕉の一番弟子と言われる宝井其角(きかく)が雨乞いの句を詠んだことで世に有名となり、江戸市民に広く知られるようになった。その歌は「遊(ゆ)ふた地(夕立)や田を見めくり(三囲)の神ならば」、翌日雨が降った。
土手上に上がります。土手上の道は左右に桜並木が繋がり、桜の時期は大にぎわいです。この川岸に船着き場「竹屋の渡し」が有りました。川向こうには有名な待乳山聖天(まつちやましょうでん)を見ることが出来ます。またその北側に山谷堀があって吉原に行く船道でしたが、今は埋め立てられて公園になってしまいました。
上流に向かって歩き始めると、左に歩行者専用橋が出てきます。上空から見るとX形の「桜橋」です。その先右に先ほどの「常夜灯」(説明板の写真;明治)が出てきます。ここに牛島神社があったのですが、ランドマークとして残され、場所の説明や灯台としての役目も担っていました。ここから見下ろすと長命寺やその手前桜餅の山本、左手には言問団子、首都高・向島の入口を恐い平面で交差して、下の墨提道路に戻ります。
道路は三つ又交差点になり、左に行くと白髭から木母寺、北千住に、右に行けば向島の花柳界です。花柳界といっても外が明るい時間では、店の前に水打ちや未だオープン準備中で、そのような雰囲気には成っていません。今回はここでご帰還となりますが、許せば木母寺まで足を延ばされるのも一考かと思います。なにせ、桜の植裁がされたのも初めは木母寺近辺からで、だんだん南に下ってきて、今歩いた向島まで達したのですから。
「いざさらば 雪見でころぶ 所まで」 芭蕉の句碑が曲がり角の長命寺の境内にあります。
私はここで「いざさらば ビールが飲める 所まで」。
ここでクイズ。さぁー、この向島の何処で奥様は癪を起こしたのでしょうか?
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2009年8月記
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