落語「猫怪談」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「猫怪談」(ねこかいだん)によると。
 

 深川蛤町の裏長屋に与太郎が住んでいたが、育ての親の親父が死んでしまった。線香も買えなく、その支度準備が未だ出来ていないが、早桶だけは準備出来ていた。大家さんの所の菜漬けの樽で、人の樽を勝手に使うなと言うと、「ヒト樽だからいい」。借りるのではなく、買って一段落。大家さんが一通りの手配をして、お寺の場所を確認すると、谷中の瑞林寺(ずいりんじ)だという。お金がないから早々に通夜も済ませ、与太郎が後棒、月番のラオ屋の甚兵衛さんが前棒、大家さんが提灯持ちという出で立ちで、四つ、今の時間で夜10時、担ぎ出した。

 上野、いとう松坂に差しかかったのが、もう12時、当時の九つ。そこを右に曲がって、三枚橋、池之端にかかり、七軒町を通って谷中に抜けるのが近道です。旧暦の11月、寒く霜柱を踏みしめながら、池之端を抜けるころ、ものすごく恐がりの甚兵衛さんは、時間が時間なので恐くてしょうがない。与太郎に脅かされながら担いでいたが、肩に食い込む痛さに肩を変えてくれと頼んだ。与太郎さん、加減を見て持ち上げれば良かったのを、思いっきり放り上げるように持ち上げたので、縄がヤワになっていたのか、底が抜けて仏様が飛び出してしまった。その上、桶が壊れてしまったので、直そうとしたが、タガまで切れてバラバラになってしまった。近くの仲町ではダメなので、公徳寺前まで早桶を買いに行く事になった。

 一人残された与太郎さん、仏様を寝かせその隣にぼんやりと座っていた。前は不忍池、その後ろは上野の森、夜の水は不気味なものですが、その奥に黒くたたずむ弁天堂が見えようと言う場所です。そこに風が吹いて、枯れアシがガサガサと音を立てる、その風が上野の森に渡っていき、ゴ〜〜っと唸っているが、馬鹿の与太郎でもいい心持ちはしない。
 死んだ親父に語りかける与太郎さんですが、5,6間先に何か黒い物が横切った。そのとたん、仏様が動き始め正座をして与太郎に向かって「イヒヒ」と声を発した。ビックリして、殴ってしまったら、仏様は横になってしまった。何か言い足りない事があったら聞くから、もう一度起きあがってくれと頼んだ。
 今度は立ち上がって、ピョンピョンと跳びはねたので、「お父っつぁんは上手」と手囃子して騒いでいた。その時、強い風が吹いてきて、風に乗って行ってしまった。

 大家さんと甚兵衛さんはその声に気づいて与太郎さんの元に帰ってきた。事の顛末を聞いてあきれる大家さんですが、甚兵衛さんはふるえが止まらず「抜けてしまいました」の言葉だけ。
「何が、抜けてしまったのだ。今、買ってきたばっかりじゃないか」と大家さん。
甚兵衛さん「今度は私の腰が、抜けてしまいました」。

 


 怪談話は夏の特許。この噺のように真冬の怪談話はめずらしい。やはり涼しくなってもらう為に、夏の盛りに歩きます。円生はお化けが出るのは九つ(深夜0時)過ぎると出ると、与太郎に言わせています。

 この噺は、構成上長い話の一部分と思われています。その部分が前半なのか中段なのか、はたまた後半なのかも分かっていません。しかし、飛んでいった親父の死骸の所在を次のように語っています。

 「えらい騒ぎで、この死骸が翌日、七軒町の上総屋という質屋の、土蔵の釘にかかっておりまして、ここで、また早桶を買う、ひとつの死骸で三つの早桶を買ったという、谷中奇聞”猫怪談”でございます」。

1.不忍池(しのばずのいけ。台東区上野公園2)
徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。江戸城鬼門の位置に、京都比叡山を模して東叡山寛永寺を上野の山に創建。その足元の不忍池を、琵琶湖に見立て中央に島を設け竹生島より弁天様を勧請した。それが今の弁天堂です。

 
  桜の時期の上野不忍池、明治後期撮影。中央に弁天島と弁天堂が見える。JCIIポストカードより

 不忍池は大きく3面に分かれています。池東側の蓮池、西側のボート池、北側の上野動物園敷地の鵜の池となっています。所々にアシが生えていますが、蓮の葉の方が風にあおられ騒がしそうにざわめいています。
落語「唖の釣り」、ここに不忍池の地図があります。また、「ねぎまの殿様」で池之端を歩いています。

 
 東都名所一覧「不忍池」 葛飾北斎画 国立国会図書館蔵

 
 上図浮世絵に対比した現在の写真。不忍池に浮かぶ弁天島に渡る「天龍橋」からの眺め。

上野の森;上野公園の東側高台になった所。上野山内と呼ばれ、一帯を忍ヶ丘とも呼ばれた。江戸時代東叡山寛永寺の寺領であったが、彰義隊と政府軍との上野戦争で炎上。その後、公園として開発、東京国立博物館、国立科学博物館、国立西洋美術館、動物園、都美術館、東京文化会館などが立ち並んだ、教育文化の発信地です。この中に今でも日に3回撞かれる”時の鐘”が有ります。

三枚橋;三橋(みはし)の間違い(台東区上野4−8上野公園前交差点)。「三橋」は今の上野鈴本演芸場の北側の上野公園前交差点辺りの忍川に架かっていたもの。三枚橋はそれより下流、今の昭和通りの忍川に架かっていた。
詳しくは落語「黄金餅」で説明しています。円生ほどの名人が古今亭と同じ過ちをしています。

上野三枚橋遠景」 国立国会図書館蔵 明治26年刊行 東京景色写真版より部分 ここでも三橋と三枚橋とを取り違えています。鉄道馬車が敷設されたのは、この様な大通りがあった現在の中央通りだったのです。正面突き当たりは寛永寺境内だった上野公園です。

仲町(なかちょう。台東区上野2丁目不忍通りに面した地)正式には池之端仲町。不忍池南端に位置する街で、略して池之端。または仲町。

いとう松坂(いとうまつざか。台東区上野3−29);1611年 元織田家の小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で呉服小間物商いとう呉服店を始める。明和5年(1768)4月5日(新暦5月20日) 江戸へ進出して、上野の松坂屋を買収し、同店をいとう松坂屋と改称。
 本店のある地元名古屋市民の高齢層では「伊藤様」と呼ぶ人もいる。名古屋市を中心とする東海圏では他店よりも格上の百貨店であるという認識が強く、松坂屋の外商部と取引があることが一種のステイタスとみなされる場合も多いという。
 東京上野店;店舗面積35,213m²。松坂屋の屋号の由来となった店舗で、現在も東京で江戸時代から同一の場所で続いているのはこの店と日本橋三越だけです。


 松坂屋ホームページより 「国芳が描いた上野店の正月風景」
 
3人の葬列は絵の右側から来て、右折、御成街道(現・中央通り)を左奥の上野の山に進み、三橋手前を左に曲がり、不忍池を右手に見る。そこが池之端仲町。現在の写真が下部にあります。

七軒町(しちけんちょう);池之端七軒町の略(台東区池之端2丁目不忍通りと西側東京大学に挟まれた街。
 関取・阿武松(おおのまつ)が根津七軒町の親方、錣(しころ)山喜平次に改めて入門した所で、上野不忍池西側の台東区池之端2丁目の一部。正しくは池之端七軒町と言います。
 当然現在は、七軒町の上総屋という質屋も、その土蔵の釘にかかった仏様もありません。

広徳寺前(こうとくじまえ。台東区東上野4−5、現在・台東区役所、上野警察署);上野から浅草に向かう現在の淺草通りの左側(北側)に広徳寺はあったが、その門前の淺草通りを広徳寺前といった。ここで早桶を調達。今でも淺草通りを仏壇通りと言って、仏壇、仏具を売る店が上野、淺草間には多くあります。現在の上野警察署前にも何軒かの仏具屋さんがあります。

谷中(やなか)台東区上野公園の北側で、寺町として多くの神社仏閣が集まっています。また、東側には広大な谷中墓地があって、静かなたたずまいを呈しています。

谷中瑞林寺(ずいりんじ);台東区谷中4丁目全域を占めるほどの大きな寺として、江戸時代にはあったのですが、現在は瑞輪寺(台東区谷中4−2)と言う名前で、谷中三崎(さんさき)坂の南奥にあります。当時子院として15寺を抱えていたが、現在は浄延院(じょうえんいん)、躰仙院(たいせいいん)、正行院(しょうぎょういん)、久成院(くじょういん)、本妙院(ほんみょういん)がある。子院の墓所も瑞輪寺の中にありますので、与太郎の家の墓所はこの中の何処なのでしょうか。 この近辺には、円朝の墓所「全生庵」や日本三大美女の一人「笠森お仙」(宝暦元年〜文政10年)がいた「笠森稲荷(大円寺)」が有ります。

 

2.深川蛤町(ふかがわ-はまぐりちょう)
   深川蛤町一丁目=江東区門前仲町二丁目1〜2
  深川蛤町二丁目=江東区門前仲町一丁目1〜3
  深川蛤町三丁目=江東区永代二丁目37北辺り
  他に深川蛤町(丁目無し)や深川蛤町上二丁目などが点在していました。
  門前仲町は、昭和6年、従来の黒江町・門前山本町と蛤町の一部を合併して誕生した。古くは深川永代寺門前仲町、富岡八幡宮の別当・永代寺の門前町屋として発展した所です。(注;別当=神仏習合説に基づいて神社に設けられた神宮寺のひとつ) 近くに、蛤町の家で没した間宮林蔵の墓江東区平野2−7−7が有ります。また、山本一力著 直木賞受賞作 「あかね空」 の舞台はここ門前仲町です。 
 富岡八幡、一の鳥居付近には、かつて紀伊国屋文左衛門隠居後の住居があった。また、奈良屋茂左衛門も近くに豪邸を持っていた。伊能忠敬も近くの黒江町に住み、ここを原点として日本全国の測量を行なって日本地図を完成させた。
 17世紀中ごろから深川八幡宮の周辺には、花街が形成された。吉原の豪華絢爛に対し深川は気風と粋を重んじる「羽織芸者」としてもてはやされた。富裕な木場商人を抱えていたこともあり花街は繁盛したのに加え、釣りや磯遊びにきた町人の遊興地としても門前仲町は栄えた。第86話「ねずみ穴」より。
  与太郎さんが住んでいた裏長屋がここにありました。深川は割堀の多い所でしたが、この近辺もほとんどが埋め立てられて宅地化されてしまいました。当時の東西に走る「大島川」が名前を「大横川」と変えて現存しています。
 落語「ねずみ穴」の主人公、竹次郎が3戸前の蔵と間口5間半も有るような店を持つ大旦那になった所。


3.早桶(はやおけ)
今のように既製品は無く、注文のたびにその場で作った。早桶屋さんで待っている間に、作られた。サイズは色々あって、男性用普通サイズ(M)は並一。小柄な人、女性用の小振りなサイズ(S)は並二。少し大きめのサイズ(L)は大一番。特に大きいサイズ(LL)は頭抜け大一番と呼ばれた。サイズの話は「付け馬」で小三治がマクラでやっていた。通常は座棺であったので上から見れば円形をしていた。そのため、貧乏人の早桶は漬け物の樽で代用された。「片棒」、「らくだ」で解説しています。

左図;早桶(枝珊瑚京打栞より)この担ぎ方が”差し担(にな)い”といいます。

4.時間と旧暦
 旧暦11月は現在の新暦12月。寒いはずです。大家さんが新しい早桶を買いに行く時、寂しくないかと言いますが、昼寝をしているから平気だと答えます。こんな寒い晩に寝たら大変だぞと言うと、「夏の夢を見ているから平気だ」と切り返す与太郎さんです。

 時間は一日を等間隔の24時間(定時法)ではなく、不定時法で日の出から日没までを六等分し、これが昼の一刻(いっとき)。同じように日没から翌日の日の出までを六等分したのが夜の一刻。深夜0時を九つと言い、数が減っていき、夜明けを明け六つ、五つ、四つ、となって昼九つ(正午)となります。同じように減っていって、暮れ六つを過ぎて四つの次が深夜の九つとなります。その時刻を知らせるのが時の鐘でした。与太郎さんは馬鹿を言いながら、しっかりとこの鐘を聞いていたのです。眼前の上野の山で打ち出す時(刻)の鐘が聞こえた事でしょう。
 春分と秋分を除けば、昼と夜の一刻の長さが違った。現代なら非常に困る事だが、江戸時代は陽の明かりをたよりに仕事をしているから、この方が便利であったと思う。太陽の動きで大まかな時間が簡単に分かるし、時計を持たない時代にはそれだけで十分実用的だった。
 江戸時代の時間の感覚は実におおらかで、そもそも時計を持っている人間はほとんどいない時代だったから、日の出の明け六つの鐘の音で起き、明るい内に仕事をして、暗くなれば休むまでの事であった。
 明け方(早朝)の明け六つ、朝五つ、暮れ方の暮れ六つ、夜四つとか言った。その半分を半刻(はんとき=1時間)といい、九つ半とか、八つ半とか言った。
 時間の最小単位は四半刻(しはんとき)で 2時間/4=30分 となります。おおらかな時代ですから、これで充分に間に合った事は言うまでもありません。 
 


 舞台の不忍池を歩く

 
 上埜」(上野・不忍池) 葛飾北斎画 ベルギー王立美術歴史博物館蔵
 手前土手が池之端仲町、背景は不忍池、その中に浮かぶのが弁天島。右奥の森が上野の森(山)。


不忍池に陽が落ち始めました、弁天堂は黒く沈んでいます。漆黒の夜中になったら、恐いくらいでしょう。

 JR御徒町駅南口を降りて西(中央通り)に向かいます。そこが、錦絵に描かれた、いとう松坂、今の「松坂屋」です。写真を撮ったのもこの位置です。中央通りに出て右に曲がります。右の松坂屋が切れる交差点が上野広小路で、御徒町の交差点なのに、上野広小路とはこれ如何に。これでは問答ですが、御徒町という町名が無いのです。通りを渡った左手には「お江戸上野広小路亭」があり、落語芸術協会が主に口演しています。
 交差点を渡って、歩道の人を避けながら正面に見える上野の森を目指して歩くと、左手に「上野鈴本演芸場」が現れます。ここは、落語協会が定席としている寄席で、都内4ヶ所有る主な席亭の中でも一番大きく一番お客も入るのでしょう。新宿末広亭は古さを売り(?)にしていますが、ここは現代的なビルの中にあります。隣の「酒悦」(しゅえつ)は日本で初めて福神漬けを売り出した店です。
 その先の小径が仲町通りです。この奥に落語「なめる」で出てくる、お馴染み「池之端・守田寶丹」の店があります。その先のビル角が上野公園前交差点、不忍池南側に接続する大通りで、左折します。曲がった所で、復習をすると左側が池之端仲町、右側が不忍池南端、曲がった交差点が江戸時代三本の橋が架かっていたので三橋と呼ばれたとこです。今は、不忍池から流れ出したその忍川は暗渠になって、川も橋も見られませんが、三橋と名付けられたお店を発見することが出来ます。

 不忍池南畔に進入です。正面には蓮だらけの不忍池、入口右手には区立「下町風俗資料館」があって、下町、特に上野、浅草を中心にした資料が展示されています。
 今、不忍池畔では夏の恒例行事、”うえの夏まつり”が行われています。植木市、縁日、骨董市などが開かれ、その中には蓮見茶屋が営業していて、昼はお茶を中心にした飲み物、夜は酒・ビールを中心にしたメニュー構成になっています。この辺りが、義父の仏様を暗い闇の中に送り出したところでしょう。蓮見茶屋を横目で見ながら不忍池を回り込んで西側に出ます。
 ボート池を背に不忍通りを渡り、西側の一本裏通り、当時の幹線に道を取ります。昔ながらの道幅の通りには江戸時代からのお寺さんがビッシリ並んでいます。大きなマンションがここでも古き良き街中に浸食しています。ここが池之端七軒町と呼ばれた所です。左手には東京大学のある高台(向ヶ岡=本郷台地)、右側は不忍池を挟んで上野公園の高台(忍ヶ岡=上野台地=上野の森)、その間にある谷間の街だったのです。そうそう、落語「牡丹灯籠」で萩原新三郎の元にお露さんがカランコロンと下駄の音をたてて歩いて来た所はこの先です。

 その先に根津神社、右に曲がって谷中に入って瑞輪寺に向かいますが、取材済みなものですから、ここでUターンして、先ほどの蓮見茶屋へ、陽の落ち始めた不忍池を背景に飲むビールは格別です。快い軽い疲労と渇いた喉に染み渡るビールは取材の締めくくりには最高。そ〜、双六の上がりです。

地図

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写真

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深川蛤町江東区門前仲町の内)
門前仲町の南を流れる油堀川に架かる黒船橋です。橋を渡った右側が深川蛤町一丁目で、左が深川蛤町二丁目です。前方に門前仲町交差点、その先に首都高が見えます。門前仲町交差点を右折すると富岡八幡宮、左折すると隅田川に架かる永代橋に出ます。

松坂屋台東区上野3−29
「国芳が描いた上野店の正月風景」に対比して、同一ポイントから撮影しています。手前右側のデパートが松坂屋、中央通り奥の突き当たりが上野の山(森)、その左外が見えませんが不忍池。

三橋跡(台東区上野4−8上野公園前交差点、忍川に架かっていた橋)
中央のビルの左側が池之端仲町(下写真)入口。右側が不忍池に入っていく道で、その右側の森が不忍池の池畔です。この大きな交差点が忍川に架かる三橋のあった所です。
葬列は上記松坂屋前(この交差点左側)から来てここを曲がって奥の不忍池にかかって行きます。

池之端仲町台東区上野2丁目不忍通りに面した地)
上記左側のアーケード入口です。この仲町通りでも、上記右側の不忍池に入っていく道でも、池之端七軒町に出ていきます。

鈴本演芸場台東区上野2−7)
上記仲町の左側に寄席の殿堂、鈴本演芸場があります。最近何時行っても満員なのは、客側から見れば嬉しいような、悲しいような複雑な感じです。

弁天堂天井画(台東区上野公園)
弁天堂内部の天井画は、児玉希望画伯の「金竜」です。また、手水鉢天井にも谷文晁の「水墨の竜」が描かれていますが、傷だらけになったプラスティックに覆われているので、よく見ることが出来ません。
弁天島へは当初、小舟で渡っていたが、寛文年間(1661−72)に石橋が架けられて、自由に往来出来るようになり、参拝者や行楽の人々で賑わうようになった。


不忍池(しのばずのいけ。台東区上野公園、上野の森西側に位置する大池)
不忍池南から弁天堂を望む。手前は蓮池で、右奥が上野の森です。
正面左から緑屋根の八角形の弁天堂、その右拝殿、中央の屋根が大黒天の本堂、右外に弁天島に渡る石橋。


池之端七軒町(文京区根津2丁目)
不忍池を南側から西側にと進路を取り、北に回り込んでいくと、この町・池之端七軒町に入っていきます。現在の表通りから一歩裏の道ですからその静けさは嬉しくなります。今来た道の後ろ(南)を見ています。右奥の小高くなった丘が東京大学になります。

谷中瑞林寺(ずいりんじ。現・瑞輪寺(台東区谷中4−2))
江戸市街の中心地にありましたが火災で焼け出され、過去帳も資料もご本尊も焼失。いつ頃か瑞林寺が瑞輪寺となってしまいました。
ここには神田上水を江戸まで引いた大久保主水の墓が有ります。大きなお寺さんですから山門も立派です。

広徳寺前(こうとくじまえ。台東区東上野4−5、現・台東区役所、上野警察署)
上野駅正面を背にして淺草通りを見ています。左側の上野警察署前を広徳寺前と言いました。この通りは今でも仏壇通りと呼ばれ、淺草までその様な店が集まっています。右側のビルもその内の一軒です。

                                                        2009年7月記

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