落語「松山鏡」の舞台を歩く
   

 

 桂文楽の噺、「松山鏡」(まつやまかがみ)によると。
 

 鏡のない国の連中が淺草見物の折り蔵前通りに出ると、大きな鏡やさんがあった。「ちょっと待て、ここに面白い店があるぞ。『か・か・み・せ』、嚊(かか)見せると書いてあるぞ」、その前に立つと自分たちの顔が写った。大変感心して、村に帰った。この話が大評判になって、翌年は大所帯で江戸に着いた。
 「確かこの辺だったが・・・」。鏡やさんは引っ越して、その後に「琴三味線指南所」に変わっていた。「例年じゃなければ見られないぞ。ここに書いてある『ことしゃ みせん』(今年ゃ見せん)」、「家の嚊は病気だから待てるかな」、「大丈夫。『死なんじょ』と書いてある」。

 越後新田松山村には鏡が無かった。ここに住む正直庄助は特に親孝行で、両親が亡くなって18年間墓参りを欠かさなかった。このことがお上に届き、褒美が出ることになた。金も畑も何もいらないが、どうしてもと言うならお上のご威光で「とっつぁまに夢でも良いから会わせてくんろ」。これは無理というものであったが、今更断れない。庄助は親に似ていることを確認して鏡を渡した。箱の中を覗くと父親が居て、涙を流して話しかけた。
 「他の人に見せるでないぞ」と言うことで、鏡を賜った。

 他人に見つからないようにと、裏の納屋の古葛籠(つづら)にしまい込んで、「行って来ます」、「ただ今戻りやした」と毎日やっていた。
 それを見ていた女房・おみつが、何かあるのではないかと葛籠を開けて、鏡を見てビックリ。そこには女が居た。鏡の女とやり合っている所に、庄助が帰ってきた。お決まりの夫婦喧嘩になって取っ組み合いになってしまった。

 たまたまそこを通りかかった尼寺の比丘尼(びくに)さん。二人の話を聞くと片や親父だと言い、片や女をかくまっているという。女房の話を聞いて、その葛籠の中の女に言って聞かせるからと、蓋を取ると、
「庄さんよ、おみつよ、あんまり二人が派手に喧嘩するもんで、中の女が気まり悪いって坊主になった」。

 



 
原本は支那の話で、鏡の無い国の娘が川に顔を洗いに行った。その帰り道、柳の木があったが道が狭いので、柳の木の枝をくぐったら水溜まりがあった。見ると人が居たので、己の姿に挨拶をしたという。
文楽・松山鏡のマクラから。この話が先輩によって膨らんで、松山鏡という落語になった、と語っています。

 右;「合わせ鏡」勝川春章画 東京国立博物館蔵

1.
  鏡の歴史最初は水の鏡だったと考えられます。古代の人々は池や水たまりの水面に自分の姿形などを映しだしていました。その後、石や金属を磨いて鏡として使用していたことが遺跡発掘などから分かってきました。現存する金属鏡で最も古いものは、エジプトの第6王朝(紀元前2800年)の鏡があります。金属種は、銅を主体とした合金で現在の手鏡に形が似ています。(銅鏡と呼ばれています)

天下一藤原正重
江戸時代

蓬莱鏡 江戸時代

稲田垂穂柄鏡
藤原政重 

蹴鞠形竹雀柄鏡
天下一吉重

南天柄鏡 青盛重

江戸時代の手鏡。東京国立博物館蔵。この柄が入っているのは裏側で、表は当然磨かれた鏡面です。

■ガラス鏡の歴史1317年にベニスのガラス工が、水銀アマルガムをガラスに付着させて鏡を作る方法を発明してから、ガラスを用いた反射の優れた鏡が生産されるようになりました。これはガラスの上にしわのない錫箔を置き、その上より水銀を注ぎ放置して序々にアマルガムとして密着させ、約1ヶ月後に余分の水銀を流し落として鏡として仕上げる手間のかかるものでした。
 その後、1835年にドイツのフォン・リービッヒが現在の製鏡技術の元となった、ガラスの上に硝酸銀溶液を沈着させる方法を開発し、品質,生産方法共に高度に改良された製鏡技術が出来上がりました。さらにその製法は機械的に高度化され、今日見られるような自動連続製鏡方式まで発達したのです。

 日本では天正18年(1549年)にポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが贈り物として初めて日本に伝えたと言われています。日本で初めてガラス製が作られたのは18世紀後半、泉州(大阪府)佐野においてであるといわれており、いわゆる鬢鏡(びんきょう)或いは懐中鏡といわれる小さな物で、その大きさは20cm角程度でした。明治にはいって、欧州から板ガラスが輸入されるようになると、ゆがみのない大きな鏡が作られるようになりました。
 その後、それまでの水銀法に代わる硝酸銀法が伝えられ、さらに磨き板ガラスの国産化,鏡台の普及と共に、日本の鏡産業は大きな発展を遂げ、現在その技術水準は世界に肩を並べるに至っています。
「鏡の鑑」 昭和44年 全日本鏡工業協会, 板硝子協会

ガラス鏡;普段何気なく、見ている鏡。では、どのように作られているのでしょうか?
(1)板ガラスをよく洗浄し、片面に銀を吹き付ける
(2)銀の上に胴を吹き付ける
(3)銅を保護する塗料を塗る
(4)乾燥させる
 このようにして、平らで透明なガラスに光が通過し、ガラスの片面に塗られた銀に像が映ります。これが鏡。
 平滑で透明、まっすぐに光を通す、そんな板ガラスの性質を利用して、鏡が作られるのです。
(日本板硝子ホームページより)

命を写す鏡?
 写真が認知しはじめた幕末から明治の人達の中にはかたくなに写されることを拒んだという。今でもいますね。ありのままに写し取られた姿を見て、命までが写真に吸いとられると思ったのでしょう。
 それ以前では鏡もそうだった。自分の喜怒哀楽の表情をそのままに映し出す鏡に何か神秘的な力を感じたとしても不思議ではないでしょう。飛鳥・奈良の時代には、中国伝来のこの鏡自体が権力の象徴であったし、神社のご神体が今でも鏡だったりします。不思議な力の持ち主は今でも変わらず、怪談の主人公として今でも現役で登場します。
 江戸の終わりまで、鏡といえば青銅や白銅の金属製で、鏡の変化といえば、裏の模様が変わり、室町時代の末期から柄つきになったことくらいです。
 ただ、金属鏡はガラスの鏡とちがって、金属面が直接空気に触れるので、どうしても少しは錆て曇ってくる。時には鏡磨(かがみとぎ)を呼び込んで磨かせた。鏡磨という仕事、どうしてか冬になると加賀の国(石川県)から来る老人の仕事だったという。梅やザクロの薄い酸でまず錆び落としをし、水銀を使って改めて錫でメッキし直した。

 
2.浅草見物
 
この台東区淺草は何度もこの「落語の舞台を歩く」で登場していますので、改めて語りませんので、探してください。有名で大きな観光地ですから直ぐに見つかると思います。
 でも、迷子になるといけないので、「粗忽の長屋」、「鰻屋」、「付き馬」、「猿後家」、「星野屋」・・・

御蔵前通り;今の国道6号線、江戸通り。淺草御門から御蔵前を抜けて、駒形堂、吾妻橋に通じ、南北に走る道路です。落語「蔵前駕籠」、落語「松葉屋瀬川」で通った道路で、蔵前橋を渡る東西に走る蔵前橋通りとは違います。
 通常、地方から江戸に出てきて宿泊する所と言えば、馬喰町と決まっていました。馬喰町からは今の江戸通りを使って北に向かえば、一本道で浅草に行くことが出来ます。
 この噺のマクラで言っている、蔵前通りも参拝に通う道で、この道筋に鏡屋さんが有ったのでしょうね。

3.水鏡とスイセン
 ギリシャ神話にも鏡の話が出てきます。ニンフ(若くて美しい女性の姿をもつ妖精)のエコーはナルキッソスに恋をした。彼女はゼウスが他のニンフに言い寄っている時にゼウスの妻ヘラーの心を歌と話で引きつけていた。エコーの意図を察したヘラーは罰として言葉を取り上げた。自分の思いを言葉にすることができず、声は彼女の前で語られた最後の言葉を山びこ(echo)のごとく繰り返すことだけしか出来なくなった。ナルキッソスを思う心を言葉にすることもできず、ナルキッソスはこの愛をすげなく拒み、エコーを死に追いやった。その罪のため彼は自分の姿のみに恋をするという罰を受けた。
 ある時、澄んだ泉の水面に自分の姿が映っているのを見て、その自分の姿に恋をしてしまった。他のことも忘れて水面をただ眺め続け、片時も泉の側を離れることができずに、衰弱して死んでしまった。そして彼は泉のほとりに咲くスイセンになった。
 ここから、スイセンの花言葉「自己愛」が出来たと言われています。 ナルシズム(Narcissism。自己陶酔。自己を愛し自己を性的対象とすること)、ナルシスト(自己陶酔者)という言葉も、山びこのエコーもこのギリシャ神話からきています。

 


 舞台の江戸通りを歩く

 大変良く出来たマクラで、言い違いによる、いえいえ聞き違いによる誤解は多く有るもの。

 他の噺にも、天気が心配で聞きに行ったら答えが「今日は雨が降る天気でない」。よろこんで雨具を持たずに出かけたら、大雨に出合って苦情を言いに行ったら「今日は雨が降る。天気でない」。あらら、そんな事って・・・。

 宿の馬喰町から江戸通りの左右を頭が痛くなるほど注意しながら歩いたのですが、淺草までどこにも「琴三味線指南所」は有りませんでした。琴三味線の店は浅草寺の脇、浅草公会堂の隣に一軒、三味線琴「みかど」が有るだけです。また、指南所という言葉は教室と変わって、マンションやビル等の中に入ってしまったので、外からは見つけることがなかなか出来ません。

 同じように鏡屋さんもガラス屋さんも有りません。で、なんで歩いているのだろう。トホホ

地図

 

 

 浅草寺地図で、安政3年〜文久2年(1856〜1862)鳥瞰図。この地図の伝法院北側にある現・奥山おまいりまち掲示板にあった地図から。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

浅草橋交差点(中央区日本橋馬喰町・京葉道路の基点)
背後が馬喰町の宿屋街でしたが、今では衣料品の問屋街に変身しています。ここから鏡屋さん、琴三味線指南所を捜して江戸通りを北上、浅草寺まで歩きます。有ればいいのですが・・・。

JR浅草橋駅(台東区浅草橋1丁目)
上記浅草橋の交差点を横断し、浅草橋を渡ると、ここ浅草橋駅です。この江戸通りで一番人出の多い所です。

花屋さん(台東区浅草橋1丁目)
花屋さんと言っても香港フラワーです。店に飾られた花は全て造花で、触ってみないと本物か造花か判らない精巧さです。この辺りから蔵前までに集中しています。

額縁屋さん(台東区浅草橋2−29−12)
最近はフレーム屋さんと言うんですね。ここにかろうじて、小さな額縁付きの鏡がありましたが、今更鏡をのぞき込む感情は起こりません。鏡ってガラスやさんに置いて有るものとの先入観がありましたが、インテリアの店にもあるんですね。

蔵前(台東区蔵前2丁目)
蔵前の交差点を渡って、直ぐの三つ又ですが、それらしい店も人通りもなくなりました。

駒形どぜう台東区駒形1丁目)
江戸時代からのドジョウ屋さんですが、ここでは「どぜう」といいます。手前の建物はガラス張りのビルで、これこそが鏡だらけのようにも見えます。

駒形堂(駒形橋西詰め交差点)
左下にある赤い建物が駒形堂。この右側には隅田川が流れていますが、そこで浅草寺のご本尊が網に掛かり、祀られた所です。
ここまで来ても、指南所も鏡屋さんも見つけられません。

浅草寺雷門前台東区淺草1−4
正面に掛かる橋が吾妻橋、その先がお馴染みのアサヒビール。この門前町はいつ来ても凄い混みかたで遊覧用の人力車もあって、日曜日のようです。

みかど(台東区台東区浅草1丁目37)
浅草寺の中にやっと有りました。三味線・琴の販売店です。台東区は江戸情緒を残した街ですが、この区にもここ一軒になってしまいました。

                                                                                                                        2009年6月記

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