落語「お富与三郎」の舞台を歩く
十代目金原亭馬生の噺、「お富与三郎」(おとみよさぶろう。与話情浮名横櫛)によると。
源左衛門は江戸に出て、博打で勝ちに勝ってその金全部を注ぎ込んで、江戸一と言われた深川のお富を身請けして連れ帰ってきた。そのため宝物のように大事にしていた。博打打ちですから、旅から旅に良い賭場が立つと、子分にお富を頼み、出て行った。 死ぬと思われたが、治って江戸に戻ったが親はビックリ。それ以上に与三郎は人目に出られなくなり、閉じ籠もるようになってしまった。
与三郎は無宿人狩りで、捕まり佐渡に島流しになってしまった。法被一枚で金鉱で水汲みをさせられた。無宿人の多くは遊び人だったので、仕事が続かず、死ねば江戸から替わりの者が連れてこられた。もう生きて帰れないと悟ったが、番頭が裏で役人に薬を嗅がせたお陰で、少しはましな荷役に回された。船から荷運びをしていたが、誤って桟橋から落ちた者が居ても「放っときな」と言われるだけであった。
二人は断崖を舞った。丸太は有った。丸太に乗って集め、筏にして漕ぎ出したが、外は大波なのでしっかりと筏に身体をくくりつけた。同じ死ぬなら本土で死にたい。その一心であったが、二人とも気を失ってしまった。
与三郎が気が付くと、岸に乗り上げていた。後ろを向くと佐渡が黒く浮き上がっていた。久次を起こし筏をばらして、地面が繋がっている江戸へと駆け出した。どんな事があってもお富に会うんだ。
1.与話情浮名横櫛 切られ与三郎とお富の恋物語
■歌舞伎狂言・与話情浮名横櫛 四幕 源氏店妾宅の場の名台詞
■歌舞伎の成り立ち;この歌舞伎の出来た経緯は、長唄四代目芳村伊三郎(芳村伊千五郎とも)をモデルに、乾坤坊良斎(けんこんぼうりょうさい。落語「今戸の狐」で紹介)が講談に脚色し、一立斎文車や初代古今亭志ん生が「お富与三郎」として講談化し高座に掛けていました。それを戯作者である三
歌謡曲バージョン『お富さん』
2.実在芳村伊三郎の虚と実 与三郎の相棒、蝙蝠安は、木更津本町の紀ノ国屋というビンツケ油屋の生まれで本名は山口滝蔵。芝居では頬にコウモリの入れ墨をしていますが、実際にはふとももにカニの入れ墨があったといいます。 左;「四世尾上松助の蝙蝠安」山村耕花画 大正6年(1917) 江戸東京博物館ポストカードより Arthur
M Sackler Gallery Collection,
これらのいわれも、高々百数十年しか経っていないのに、真実は闇の中です。二人のまたは三人のそれぞれの人物が活躍していて、その人物達が、一人の芳村伊三郎に合体してしまったようです。ネズミ小僧、八百屋お七、左甚五郎なども舞台が有名すぎて、実の部分が磨りガラスの向こうになってしまったのと同じようです。
3.「与三郎の墓」 三ヶ寺と木更津
■安国山最福寺(東金市東金の八鶴湖畔北)
■別格山天妙国寺(品川区南品川2−7)
お富さんの墓は千葉県茂原の藻原寺にも有ったが、墓地の改修工事で最近分からなくなってしまった。
■選擇寺(せんちゃくじ、木更津市中央1−5−6)
■鳥居崎海浜公園(木更津市富士見3−6)
4.玄冶店碑(げんやだな。中央区日本橋人形町3−8)
■稲荷堀(とうかんぼり);中央区日本橋蛎殻町1丁目1,2,3,4にあった堀。稲荷堀と書いて「とうかんぼり」と読ませた。現在はこの通りを「とうかん堀通り」と命名されています。馬生の噺の中で、与三郎とお富が奥州屋を殺害したという堀。その為蝙蝠安にたかられる。
5.噺の中の言葉
■無宿人狩り;無宿人は小屋に集められて、帰る当てがある者は返され、帰る所がない者はそこで人別帳に再記された。また、あぶれ者的無宿には佐渡の水替えもあったが、授産的な性格もあった。
■勘当;主従・親子・師弟の縁を切って追放すること。江戸時代には、不良の子弟を除籍することも行われた。
■佐渡金山;慶長6年(1601)に発見され、産出された金銀は江戸幕府の基礎を築き、日本最大の金山とされた。3年後奉行を置き本格的に採掘に入り、江戸幕府が合計41トン採掘、明治・大正・昭和と引き継がれ、平成元年に枯渇のため閉山した。金の総生産量、合計78トンに達した。
舞台の与三郎の足跡を歩く
思えば遠くに来たもんだ。とは何処かにあったフレーズですが、木更津の街に立っています。
千葉県内房の木更津駅前の光明寺前にいます。木更津駅前に、大きな威容を誇って堂々とした寺構えのお寺さん。そのはず、光明寺は南房総日蓮宗の七本寺の一つで格式と由緒のあるお寺さんです。裏に回って墓所で与三郎の墓を探すと、案内板も立っていて中央にある屋根付き墓は直ぐに見つけることが出来ます。
これ以降、写真をクリックすると大きくなります。
ここ光明寺住職さんの与三郎に関する暖かい説明と、駅前にある”木更津みち案内人協会”を紹介していただき、これより後の木更津はボランティアの関氏の案内で観て歩きます。で、今回情報量が多いのでご勘弁を。
選擇寺(せんちゃくじ)、ここは光明寺の裏(北側)にあたります。ここには蝙蝠安のお墓があります。
お富と与三郎が一目惚れしたという八幡様は「八剱(やつるぎ)八幡神社」(写真左。富士見1−6−15)です。この境内でお互いがドキッとしたのでしょう。
続いて、お富と与三郎が逢瀬を重ねたという海岸、鳥居崎海浜公園(木更津市富士見3−6)です。
その若福ねえさんが籍を置いたであろう、今でも続く見番(富士見2−1−12)を見に行きます。
左;木更津に残っている唯一の見番。芸者さんが今でも居ます。両手の指で足りるほどですが。
付録としてここまで来たのですから、證誠寺(しょうじょうじ、木更津市富士見2−9−30)を見学。
ここで関氏とはお別れし、感謝・感謝で、生まれ故郷だった千葉県の東、外房の東金市は最福寺に移動です。八鶴湖畔にあるお寺さんですから直ぐに分かります。山門を入るとお墓が並んでいて、奥の山の中腹に本堂があります。本堂から見て左側の大杉の根方に与三郎の墓があります。四代目芳村伊三郎の墓も俗に言う”拝み墓”だと言われますが、五代目はここに眠っているといいます。(下写真)
東京に戻って、三つ目の与三郎の墓、品川区の天妙国寺を訪ねました。
稲荷堀(とうかんぼり)は現在の中央区日本橋蛎殻町1丁目1,2,3,4にあった堀で、当然埋め立てられて有りませんし、その後はビルが建ち並んでいます。「とうかん堀」の道標が無ければ気がつくめぇ〜。
玄冶店(げんやだな)は御典医”岡本玄冶”から来ていますが、凄い名医だったようです。その碑が薬屋さんの前に立っているくらいですから。人形町の角ですが、その並びに「読売インフォメーションサービス」のビルがあり、かっては寄席の人形町末広亭があったところで、記念のプレートがビル前に埋め込まれています。その裏には岡本玄冶の邸内神であった、「橘稲荷」が祀られています。お賽銭箱の上にはお稲荷さん(豆腐のアゲ)が揚がっているのを見ると町に愛されているのでしょうね。 地図
地図をクリックすると大きな地図になります。 木更津観光ガイドブックより 写真 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
鳥居崎公園(木更津市富士見3−6)
光明寺(木更津市中央1−3−5)
光明寺与三郎墓
選擇寺(せんちゃくじ。木更津市中央1−5−6)
「こうもり安の墓」(選擇寺)
安国山最福寺(東金市東金の八鶴湖畔)
別格山天妙国寺(品川区南品川2−7)顕本法華宗
玄冶店碑(げんやだな。中央区日本橋人形町3−8)
稲荷堀(とうかんぼり。中央区日本橋蛎殻町1丁目1,2,3,4にあった堀) 2008年5月記 |
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