落語「お富与三郎」の舞台を歩く
   

 

 十代目金原亭馬生の噺、「お富与三郎」(おとみよさぶろう。与話情浮名横櫛)によると。
 

 美男美女に生まれて災いを残しましたお富と与三郎。木更津の親分赤間源左衛門の妾・お富を与三郎が見初めたために災いが起こった。

 源左衛門は江戸に出て、博打で勝ちに勝ってその金全部を注ぎ込んで、江戸一と言われた深川のお富を身請けして連れ帰ってきた。そのため宝物のように大事にしていた。博打打ちですから、旅から旅に良い賭場が立つと、子分にお富を頼み、出て行った。
 江戸でチヤホヤされて若旦那と言われた与三郎が、あまりにも良い男だったので木更津の叔父さんに預けられた。悶々としていたが、お富を見初め、猫にカツ節で、逢瀬を重ねるようになってしまった。
 それを源左衛門に見つかり、捕らえられ顔中、体中を切られてしまった。それを知ったお富は木更津の海に身を投げてしまった。与三郎も俵に詰められ、100両で戻された。

 死ぬと思われたが、治って江戸に戻ったが親はビックリ。それ以上に与三郎は人目に出られなくなり、閉じ籠もるようになってしまった。
 気晴らしに両国の花火を観に出かけたが、皆から怖がられるので、戻ろうとすると、見覚えのある女の後ろ姿を発見、お富だと後を付けると玄冶店(げんやだな)に住んでいた。多左衛門の妾であったが、二人を見て、変に巻き込まれたくないので、家を渡して手を引いてしまった。
 二人になれた事を喜んだが、番頭が跳んで来て家に帰るように言ったが聞き入れず、勘当と言うことになってしまった。勘当になると人別帳から外され、無宿人になってしまった。しかも、二人になっても食う算段がつかないので、博打に手を出し、お富は奥州屋に身を任せた。それを聞いた与三郎は稲荷堀(とうかんぼり)で奥州屋を鯵切りで殺して3両を奪って二人で帰るところを、蝙蝠安に見つかり、たかられる。度々たかりに来られ、二人で殺害してしまった。  与三郎は無宿人狩りで、捕まり佐渡に島流しになってしまった。法被一枚で金鉱で水汲みをさせられた。無宿人の多くは遊び人だったので、仕事が続かず、死ねば江戸から替わりの者が連れてこられた。もう生きて帰れないと悟ったが、番頭が裏で役人に薬を嗅がせたお陰で、少しはましな荷役に回された。船から荷運びをしていたが、誤って桟橋から落ちた者が居ても「放っときな」と言われるだけであった。
 佐渡から島抜けを考えるようになった。失敗するとその制裁として、死、しかなかった。  雨の強い夜、役人も警備をゆるめ、静かであった。格子を外し一目散に駆け出した。元に戻る事はもう出来ずひたすら走ったが、後から足音が付いて来る。待ち伏せて捕まえると仲間の久次(きゅうじ)であった。昼間から様子がいつもと違うので、後を追って付いて来た。「一緒に連れて行ってくれ」、帰れとも言えないので、その覚悟を聞いて同行する事にした。
 「どうしてここから出るんだ」、と言うので聞かせると、役人が誤って桟橋から落ちてしまった事がある。直ぐに船を出して岸を廻って来ると潮の加減でゴミが寄せる場があった。そこに役人の死体が浮いていた。船を漕いでいたので、ここは何処だろうと崖上を見ると、格好の悪い松が一本生えていた。
 昨日、ドジが居て丸太を数本海に落としてしまった。顔が曲がるほど殴られていたが、その材木がここに流れ着いているはずだ。その時の目印の松がこれだ。丸太を組んで筏を作り、海に出れば潮は本土にぶつかるように流れている。イヤでも本土に着く。また、飛び降りたら丸太が無いかも知れない。やるか、どうする。
 二人は断崖を舞った。丸太は有った。丸太に乗って集め、筏にして漕ぎ出したが、外は大波なのでしっかりと筏に身体をくくりつけた。同じ死ぬなら本土で死にたい。その一心であったが、二人とも気を失ってしまった。  与三郎が気が付くと、岸に乗り上げていた。後ろを向くと佐渡が黒く浮き上がっていた。久次を起こし筏をばらして、地面が繋がっている江戸へと駆け出した。どんな事があってもお富に会うんだ。
 島抜けは不可能だと言われていた佐渡から、初めて島抜けをした与三郎であった。
 



 馬生の落語「与話情浮名横櫛」バージョンは歌舞伎バージョンと違っています。その歌舞伎バージョンは、

1.与話情浮名横櫛 切られ与三郎とお富の恋物語
 おっとりした若旦那・与三郎は、木更津海岸で美しいお富を見染め、たちまち二人は恋に落ちます。しかしお富は、妾の身。逢引が見つかって与三郎は、身体に34ヵ所の刀傷を受けて海にほうりだされます。お富は海に身を投げますが、救いあげられ、江戸に売られ、人の世話で何不自由なく暮らします。数年後、身を持ち崩した与三郎が仲間の蝙蝠安とゆすりに行った源氏店で、なんと、お富の家に。互いに死んだと思っていた二人は、再会に驚いて・・・というのが筋書きです。
  木更津を舞台に「切られ与三郎」と「お富」、そして「蝙蝠安」がからむ歌舞伎の名狂言・与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)は、嘉永6年(1853)、江戸中村座で八代目市川団十郎が初演し、大当たりをとりました。

  
歌舞伎の与三郎(左)と蝙蝠安 お富(右) 香朝楼筆 独立行政法人 日本芸術文化振興会ホームページより

■歌舞伎狂言・与話情浮名横櫛 四幕 源氏店妾宅の場の名台詞
与三郎 「え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、お富。久しぶりだなぁ〜。」
お 富  「そういうお前(まい)は。」
与三郎 「与三郎だ。」
お 富  「えぇっ。」
与三郎 「おぬしぁ、おれを見忘れたか。」
お 富  「はぁっ。」
与三郎 「しがねぇ恋の情けが仇(あだ) 命の綱の切れたのを どう取り留めてか 木更津から 
     めぐる月日も三年(みとせ)越し 江戸の親にやぁ勘当うけ よんどころなく鎌倉の
     谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても 面(つら)に受けた看板の
     疵(きず)がもっけの幸(せいうぇ)いに
     切られ与三(よそう)と異名をとり 押借(おしが)り強請(ゆすり)やぁ習おうより
     慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな) その白化(しらばけ)た黒塀(くろべえ)に
     格子造りの囲いもの 死んだと思ったお富たぁ お釈迦さまでも気がつくめぇ
     よくまぁ おぬしぁ 達者でいたなぁ。
     おい、安やい。 これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ 帰(けぇ)られめぇ〜。」

■歌舞伎の成り立ち;この歌舞伎の出来た経緯は、長唄四代目芳村伊三郎(芳村伊千五郎とも)をモデルに、乾坤坊良斎(けんこんぼうりょうさい。落語「今戸の狐」で紹介)が講談に脚色し、一立斎文車や初代古今亭志ん生が「お富与三郎」として講談化し高座に掛けていました。それを戯作者である三世桜田治助が歌舞伎用に脚色し、それを当時、市村座・戯作者三世瀬川如皐(じょこう)が増補して再脚色されたのが「与話情浮名横櫛」です。

歌謡曲バージョン『お富さん』
 春日八郎の歌で昭和29年(1954年)8月に発売され、その年に大ヒットした歌謡曲(作詞:山崎正、作曲:渡久地政信)。歌舞伎の台詞を大量に取り入れている。作曲した渡久地は歌舞伎の事を知らず、最新の音楽であったブギウギのリズムを基にした曲を書いた。だがこの軽快なメロディーは大当たりとなり、「粋な黒塀」、「見越の松」、「他人の花」といったあだっぽい名詞句を何も知らない子供までもが盛んに歌った。『お富さん』は初めキングのスター歌手であった岡晴夫が歌う予定であったが岡がコロムビアに移籍したため急きょ若手歌手であった春日に歌わせ、春日の出世作となった。
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

2.実在芳村伊三郎の虚と実
 芳村伊三郎の名は、江戸長唄の名家で、現代まで襲名され続けています。
 四代目伊三郎は、清名幸谷(せいなごや。現千葉県山武郡大網白里町清名幸谷)の紺屋の中村家の二男として寛政12年(1800)に生まれました。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようです。
  大吉は長じて木更津で型付職人として腕を磨き、年季が明けて清名幸谷に帰り兄の紺屋を手助けしておりました。根が好きな長唄を唄うために家から1キロほどの東金と大網の中程の新堀(にいぼり。大網白里町大網字新堀)の茶屋に足しげく通っておりました。そこで見そめたのが茂原生まれのおきち(お富のモデル)でした。
  しかし、おきちには近くの堀畑(ほりはたけ。大網白里町山口字堀畑)の親分山本源太左衛門という旦那がいたのです。美男美女の間柄はすぐに親分に知られました。若い二人は勝手知った木更津に逃げましたが、子分達に追われ大吉は切り刻まれむしろに巻かれて海に投げ込まれました。しかし、奇跡的に江戸の漁師に助け上げられた。一方おきちは連れもどされ、すぐに江戸に売られてしまいました。
  後年江戸へ出て唄方となった大吉は、四代目伊三郎を襲名しましたが、若い日の仕打ちで受けた顔から身体中の数十のキズ痕が八代目市川団十郎の目にとまり、鶴屋南北の門下、三世瀬川如皐に伊三郎、おきちをモデルに人物名、地名などを含め、その筋書きも、おもしろおかしく善玉、悪玉を誇張して書きあげさせました。
 それが「お富・与三郎」で知られる歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」です。
 東金・最福寺芳村伊三郎墓の説明板より。実話でも、これが「東金説」と言われるものです。この他に「木更津説」、「東京説」などがあります。伊三郎が亡くなって6年後、初演されました。

 与三郎の相棒、蝙蝠安は、木更津本町の紀ノ国屋というビンツケ油屋の生まれで本名は山口滝蔵。芝居では頬にコウモリの入れ墨をしていますが、実際にはふとももにカニの入れ墨があったといいます。
木更津・選擇寺の説明板より

左;「四世尾上松助の蝙蝠安」山村耕花画 大正6年(1917) 江戸東京博物館ポストカードより Arthur M Sackler Gallery Collection,

 これらのいわれも、高々百数十年しか経っていないのに、真実は闇の中です。二人のまたは三人のそれぞれの人物が活躍していて、その人物達が、一人の芳村伊三郎に合体してしまったようです。ネズミ小僧、八百屋お七、左甚五郎なども舞台が有名すぎて、実の部分が磨りガラスの向こうになってしまったのと同じようです。


3.「与三郎の墓」 三ヶ寺と木更津
光明寺(木更津市中央1−3−5)
 与三郎の木更津墓所です。木更津で与三郎が活躍したので、模擬墓すなわち拝み墓です。

安国山最福寺(東金市東金の八鶴湖畔北)
 与三郎の東金墓所。四代目芳村伊三郎も拝み墓です。しかし、隣の五代目芳村伊三郎は正真の墓です。
 ここからそんなに離れていない東南の大網白里町に入った所に、与三郎の生まれた清名幸谷や、長唄をうたっていた茶屋があった新堀、親分の住まい堀畑はすべて大網白里町の北側、東金市に接する一角に集まっています。

別格山天妙国寺(品川区南品川2−7)
 品川区立城南小学校の南側にあり旧東海道から山門をくぐります。ここに与三郎の墓があります。
 墓の左面に「四代目伊三郎」と大きく刻まれ、正面には弘化四丁未年(吟醸注1847)六月十六日 「勇猛院徳翁日進信士」 行年四拾六才。彼と並んで女性の戒名 「操立院妙精日護信女」 明治十一年八月二十九日 が並んで刻まれています。
 四代目伊三郎は芳村伊三郎で切られの与三郎のモデルです。隣に彫られた明治まで生きた女性はお富のモデル、きちさんだったのでしょうか。だとすれば、二人仲良くここに眠っている事になります。

 お富さんの墓は千葉県茂原の藻原寺にも有ったが、墓地の改修工事で最近分からなくなってしまった。

選擇寺(せんちゃくじ、木更津市中央1−5−6)
 蝙蝠安の墓所。正しくは「鶏頭山西休院選擇寺(けいずさんさいきゅういんせんちゃくじ)」
 蝙蝠安は本名を山口瀧蔵といい、生粋の木更津男児。美声の持ち主で常盤津を得意とし、花柳界の寵児と言われるほどの人物で、同じ美声家の大吉(四代目伊三郎)と親しかったようです。毎夜ふらふらと飛び回るので、こうもり安の異名をとりました。芝居の中では、与三郎とともにお富の家にゆすりに行くなどと書かれていますが、あくまでも脚色上のこと。実際の彼はそのような人柄ではなく、劇中の人物像に心曇らせたとか。

鳥居崎海浜公園(木更津市富士見3−6)
 
「見染め松(別名 袖掛の松)」として鳥居崎公園に有りますが・・・

 

4.玄冶店碑(げんやだな。中央区日本橋人形町3−8)
  人形町表通りにある「史跡 玄冶店」跡の碑、歌舞伎で源氏店と言っている所はここ玄冶店です。玄冶店の「ヤ」は冶金の冶です。間違っても「治」ではありませんので、お気を付け願います。
  裏側に回ると「橘稲荷神社」があります。江戸期には新和泉町といわれ、将軍家御典医”岡本玄冶”(1587〜1645)の邸宅があったので、一帯を玄冶店と俗称された。裏の稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだもので、今では町のお稲荷さんとして親しまれています。

稲荷堀(とうかんぼり);中央区日本橋蛎殻町1丁目1,2,3,4にあった堀。稲荷堀と書いて「とうかんぼり」と読ませた。現在はこの通りを「とうかん堀通り」と命名されています。馬生の噺の中で、与三郎とお富が奥州屋を殺害したという堀。その為蝙蝠安にたかられる。

 

5.噺の中の言葉
無宿人江戸時代、全ての人間を人別帳に登録をした。この登録から除かれた者を無宿人、または無宿と言った。
その経緯は、食い詰めて逃げ出したり、親から久離・勘当されたり、飢餓で江戸に出てきた者、追放刑を処されたりされた者たちがなってしまった。近親者に累が及ぶのを避けるために、なる者も居た。

無宿人狩り;無宿人は小屋に集められて、帰る当てがある者は返され、帰る所がない者はそこで人別帳に再記された。また、あぶれ者的無宿には佐渡の水替えもあったが、授産的な性格もあった。

勘当;主従・親子・師弟の縁を切って追放すること。江戸時代には、不良の子弟を除籍することも行われた。

佐渡金山;慶長6年(1601)に発見され、産出された金銀は江戸幕府の基礎を築き、日本最大の金山とされた。3年後奉行を置き本格的に採掘に入り、江戸幕府が合計41トン採掘、明治・大正・昭和と引き継がれ、平成元年に枯渇のため閉山した。金の総生産量、合計78トンに達した。


左から江戸時代の採掘、坑道の補強、水の掻い出し。 ゴールデン佐渡のパンフレットより  


 舞台の与三郎の足跡を歩く

 思えば遠くに来たもんだ。とは何処かにあったフレーズですが、木更津の街に立っています。
 右写真;漫画チックな狸の絵と「♪しょしょ證誠寺 證誠寺の庭は・・・」が入った、木更津市のマンホール蓋です。

 千葉県内房の木更津駅前の光明寺前にいます。木更津駅前に、大きな威容を誇って堂々とした寺構えのお寺さん。そのはず、光明寺は南房総日蓮宗の七本寺の一つで格式と由緒のあるお寺さんです。裏に回って墓所で与三郎の墓を探すと、案内板も立っていて中央にある屋根付き墓は直ぐに見つけることが出来ます。
 ここの墓は地元と言うことで、大正中期(昭和2年とも)に建てられた墓です。俗に言う”拝み墓”で、遺骨も遺品も何も埋葬されていません。しかし、木更津では有名で、歌舞伎役者の参拝があり、片岡仁左衛門、板東玉三郎寄進の角卒塔婆が建っています。

   これ以降、写真をクリックすると大きくなります。
左;本堂前の「舞鶴の松」と呼ばれ樹齢400年の名松。
右;光明寺山門の力士像(伝・左甚五郎作)と言われるもので、梁を支えています。

 ここ光明寺住職さんの与三郎に関する暖かい説明と、駅前にある”木更津みち案内人協会”を紹介していただき、これより後の木更津はボランティアの関氏の案内で観て歩きます。で、今回情報量が多いのでご勘弁を。

 選擇寺(せんちゃくじ)、ここは光明寺の裏(北側)にあたります。ここには蝙蝠安のお墓があります。
 本堂の左手から奥の墓地にはいると、本堂が終わるあたりに一つぽつりと建っています。前後がない作りになっていて、奥側が正面だと言うことです。正面に「進岳浄精信士 慶応四年四月五日」と家族の戒名の中に並んで入っています。ここにも角卒塔婆があり、板東弥十郎の名が読みとれます。

 お富と与三郎が一目惚れしたという八幡様は「八剱(やつるぎ)八幡神社」(写真左。富士見1−6−15)です。この境内でお互いがドキッとしたのでしょう。
 そのような女性は今回見当たらなかったが、私が時間を間違えたのでしょうか。
 関東三大御輿があり7月にはこの御輿が木更津の街中を練り歩きます。
 街中にあっても、森に囲まれた静かなお宮さんです。

 続いて、お富と与三郎が逢瀬を重ねたという海岸、鳥居崎海浜公園(木更津市富士見3−6)です。
 ここは江戸の後期にも海だった所で、つい最近埋め立てられて街が大きくなり、一部は公園にもなりました。その鳥居崎海浜公園の防風林のような松が”見染の松”だと言います。落語「お見立て」のように、お好きな松をその松だとお見立て下さい。今までの説明でお分かりのように、「お富与三郎」の話から最近作られたもので、熱海の「お宮の松」と同じ性質のものです。
 また、ここには”木更津甚句記念碑”があって若福ねえさんとそれを受け継ぐ現代の娘さんを表現した像が建っています。

 その若福ねえさんが籍を置いたであろう、今でも続く見番(富士見2−1−12)を見に行きます。

   

 左;木更津に残っている唯一の見番。芸者さんが今でも居ます。両手の指で足りるほどですが。
 中;本名小野キク、若福ねえさんのお墓。彼女は日本中に木更津甚句を広めた事で有名になりました。
 右;鶴田屋の墓。お富と与三郎が逢瀬を重ねたと言われる旅館主の墓。ここで逢い引き中に襲われ全身傷だらけになったという旅館(現存せず)。中、右とも、成就寺(富士見1−9−17)に並んで建っています。

 付録としてここまで来たのですから、證誠寺(しょうじょうじ、木更津市富士見2−9−30)を見学。
 童謡「證誠寺の狸ばやし」でおなじみの寺。この伝説は狸のお囃子と住職の踊りの競争になったが、狸の腹の皮が破れて死んでしまうという哀しい結末の歌。歌えますか。毎年10月下旬には狸まつりが開催されます。

   
左;證誠寺本堂 右;境内の狸塚、狸が寝そべっているような自然石で作られています。 

ここで関氏とはお別れし、感謝・感謝で、生まれ故郷だった千葉県の東、外房の東金市は最福寺に移動です。八鶴湖畔にあるお寺さんですから直ぐに分かります。山門を入るとお墓が並んでいて、奥の山の中腹に本堂があります。本堂から見て左側の大杉の根方に与三郎の墓があります。四代目芳村伊三郎の墓も俗に言う”拝み墓”だと言われますが、五代目はここに眠っているといいます。(下写真)

 東京に戻って、三つ目の与三郎の墓、品川区の天妙国寺を訪ねました。
 旧東海道品川宿の一角にあり、品川は北と呼ばれた吉原に対して南と呼ばれ女郎(飯盛り女)が男達を遊ばせていました。その投げ込み寺が天妙国寺で、本堂裏に無縁仏の塚があります。
 与三郎の墓は墓所に入って、突き当たり少し手前の右側に二つ並んだ墓石の一つがそうです。「勇猛院徳翁日進信士」と「操立院妙精日護信女」の二人の名が並んで刻まれています。お富(きち)さんだとすれば、彼が亡くなって約30年生きていたことになります。その後合祀されたのでしょう。また、墓石左面には四代目芳村伊三郎の名があります。

 稲荷堀(とうかんぼり)は現在の中央区日本橋蛎殻町1丁目1,2,3,4にあった堀で、当然埋め立てられて有りませんし、その後はビルが建ち並んでいます。「とうかん堀」の道標が無ければ気がつくめぇ〜。

 玄冶店(げんやだな)は御典医”岡本玄冶”から来ていますが、凄い名医だったようです。その碑が薬屋さんの前に立っているくらいですから。人形町の角ですが、その並びに「読売インフォメーションサービス」のビルがあり、かっては寄席の人形町末広亭があったところで、記念のプレートがビル前に埋め込まれています。その裏には岡本玄冶の邸内神であった、「橘稲荷」が祀られています。お賽銭箱の上にはお稲荷さん(豆腐のアゲ)が揚がっているのを見ると町に愛されているのでしょうね。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 木更津観光ガイドブックより

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

鳥居崎公園(木更津市富士見3−6)
 川崎−木更津航行の日本カーフェリー乗船場南公園内「見染め松(別名 袖掛の松)」
 公園の防風林が、この見染め松です。お芝居上のと言うより観光用のディスプレーです。

光明寺木更津市中央1−3−5)
 駅前の一等地にあり、古刹ですが与三郎の墓で有名。また、「舞鶴の松」や山門の「金剛力士像」(伝・左甚五郎作)が見事。

光明寺与三郎墓
 与三郎のモデルとなったのは、山武郡増穂村(現大網白里町)の紺屋の次男・大吉で木更津の紺屋で働いていた職人と言われています。
のちに長唄の太夫・四代目芳村伊三郎を襲名。舞台で看板にしていた体の傷跡が八代目団十郎の目にとまり、その来歴をもとにして、鶴屋南北の門下・三世瀬川如皐が狂言に書き下ろしました。

選擇寺(せんちゃくじ。木更津市中央1−5−6) 
  本堂は、昭和5年(1930)建立、鉄筋コンクリートの建造物で昭和初期に伝統的な木造建築の仏堂形態を正確にコンクリートで再現したことが評価され、平成12年(2000)2月、国の登録有形文化財に指定されています。

   

「こうもり安の墓」(選擇寺)
 選擇寺の中にある与三郎の相棒の墓。生粋の木更津っ子で本名「山口瀧蔵」、油屋の次男。美声の持ち主で花柳界の寵児、夜ごとふらふらと飛び回っていたため、この名がついたという。
慶応4年4月5日「進岳浄精信士」

安国山最福寺(東金市東金の八鶴湖畔)
 東金駅の西側、桜で有名な八鶴湖畔にある大きなお寺さんです。大同2年(807)創建。本堂は淺草・浅草寺の物だったと言われます。
与三郎の墓。過日崖の上にあった墓が崩れ、30m程離れた現在地に移動されています。跡を継いだ5代目(左)が隣に眠っています。

別格山天妙国寺(品川区南品川2−7)顕本法華宗
 弘安八年(1285)、日蓮大聖人門弟中老の天目上人によって創建された。赤い山門は「しながわ百景」に指定されています。 鐘楼もある大きなお寺さんです。与三郎墓だけでなく、ほかにも桃中軒雲右衛門、お祭り佐七、伊藤一刀斎などの墓があります。

   

玄冶店碑(げんやだな。中央区日本橋人形町3−8)
 将軍家御典医”岡本玄冶”(1587〜1645)の邸宅があったので、一帯を玄冶店と俗称された。歌舞伎の源氏店はここ玄冶店の事です。
 裏には橘稲荷(たちばないなり)があり、この橘は岡本家の姓に因んだもので、橘稲荷は邸内神でした。

稲荷堀(とうかんぼり。中央区日本橋蛎殻町1丁目1,2,3,4にあった堀)
 道路の一部と右側の建物が堀の部分です。今と違って当時は暗かったのでしょうね。

                                                     2008年5月記

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