落語「締め込み」の舞台を歩く
   

 

 八代目桂文楽の噺、「締め込み」(しめこみ)によると。
 

 名前を残すのは難しいものです。良い事で残したいが、悪い事で名を残す事もあります。

 町内でも足の速い者が泥棒を追いかけていた。一人で走っているので聞いてみると「泥棒は後から来る」。
 日本橋の大家の呉服屋さんに泥棒が入った。1番番頭を縛り、2番番頭を縛り、3番番頭を縛り、4番番頭を縛り、5番番頭を縛り、6番、7番〜10番頭を縛り、20番番頭を縛り、30番番頭を縛り、40番番頭を縛り、50番番頭を縛り、60番、70番〜100番頭を縛り、さぁこれから仕事に掛かろうとしたら、夜が明けて自分が縛られてしまった。
 観音様に忍び込んでお賽銭を盗み出し、裏から逃げればいいものを表の仁王門を抜けた。仁王様怒って泥棒をつまみ上げ地面に叩き付け足で押さえつけた。泥棒さんお腹が張っていたのでしょう、

『ぶ〜』っと出てしまった。仁王様顔を背けて「くせえ野郎だ」、「におうかぁ」。
 料理屋に大勢の泥棒が外に張り番。親分が刀を下げて一人で押し入り、主人の寝ている顔に抜き身をぴたりと当てて「金を出せ」、「一銭もありません」。「ウソ付くな。昼間無尽で百両当てただろう」、「分かりました。見込まれたら仕方がない。怪我しても仕方がない、ここに出します」、「有るのに無いとは不逞野郎だ。お前の所は料理屋だな。腹が減ったから料理を出せ」、「泥棒様に申し上げます。貴方は人の物を取るのが商売、私どもは料理を出すのが商売、お代はいただきます」、「分かった」。しけで何もないので、鯉の洗いと、鯉コクを出した。たんまり食べて「いくらだ」、「百両です」、「ウ〜、行って来いか、約束だから払ってやる」。表に出ると子分達が「首尾は・・・」、親分「しぃー、コイ(声)が高い」。

 「こんにちは、お留守ですか」と言いながら泥棒が上がり込んできた。箪笥を開けて着物を大風呂敷に入れて持ち出そうとすると、表で足音が近づいてきた。見つかるといけないので裏に逃げたが出られず、風呂敷を投げ出して台所の羽目板を外して、縁の下に隠れた。
 亭主が帰ってきたが、風呂敷包みを見つけて中を見ると、御店の半纏や羽織、着物やおカミさんの着物が出てきた。
 「そうか、カカアは間男をしているな。『テメエのカカアはおかしいぞ』と言っていたのがこれか。」亭主カンカンに怒ってしまった。そこに上機嫌で湯からおカミさんが戻ってきたが、当然喧嘩になって「出ていけ〜」となってしまった。事情が分からないおカミさんは泣く泣く聞くと間男していると誤解されているので、反対に怒り出してしまった。「それなら相手の男の名前を言ってごらんよ」、グッと詰まる八公。「このお多福メ」、「お多福だってイイよ。伊勢屋さんに居た時の事覚えて居るかい」、「お前は伊勢屋の飯炊きだ」、「はばかりさま!。おっかさんに言われて花嫁修業をしていたのでお給金は貰っていないよ。なのにアンタは台所で私の袖を引いたんじゃないか。『あの二人はおかしいと言われるから、本当になってしまおう』と言ったのはアンタだよ。筋を通しておくれと言ったら、『待っていられないから、”うん”か”出刃”か”うん出刃か”』って、出刃包丁を突きつけたんじゃないか。親からアンタとの話が出たが『縁があるから行く』と言ったが、あいつは乱暴だからと親の前で話を通したら、『一緒になったら一生懸命仕事をします。朝も早く起きます。ご飯も炊きます。こんないい女はありません。生きた弁天様です』と言ったじゃないか。それをお多福だなんて。あっ、ぶったね。おぶち。私はここに死にに来たんだからァ。もっとおぶちィ」。手元にあった沸騰しているやかんをおカミさんに投げたが当たらず、台所の羽目板の上まで飛んでいき、熱い湯がこぼれ出した。
 驚いたのは泥棒さん。飛び出してきて二人の仲裁を始めた。見ず知らずの男が仲裁に入ったので八公が喧嘩の元は何だか判るかと言えば「へぇ、その風呂敷包みでしょ。その包みを誰がこさえたか分かればイイんでしょ。旦那さんが作ったのではなく、かと言って奥さんが作ったのでもありません」、「二人が作らないでどうして出来るんだ」、「それはお二人が留守の時、ぬ〜〜っと入ってきた奴が作って逃げようとしたら逃げられず、台所の下に隠れたら喧嘩が始まった。煮えたお湯が降ってきたので慌てて飛び出した、と言う訳です」、「へぇ・・・、じゃぁお前さんが作ったんだね。お前さんは泥棒だね」、「早い話がそうです」。
 「それ見ろ、不用心にするから泥棒が・・・泥棒さんが入るんだ。泥棒さんが出なければ俺たち夫婦別れしているんだぞ」、「泥棒さん良く出てくれました。ありがとうございます」。「奥さん泣かなくてもイイんですよ。あなた達は喧嘩する仲ではないですよ。仲が良すぎると言うものです。お二人の馴れ初めを聞いていましが、台所で袖を引いて『”うん”か”出刃”か”うん出刃か”』ってね」、「よせよ」、「これをご縁にちょくちょくと」、「冗談じゃねぇ」。

 



 ここで文楽は終わっていますが、この噺には続きがあって、

 泥棒さんのお陰で夫婦仲が戻ったので、こんなめでたい事はない。「泥棒さん、今夜は忙しいのかい」、「はぁ〜、いえ、何も無いです」、「それでは一献差し上げよう」、「それは如何に何でも」、「飲めるんだろ。飲んで行きなよ」。と言う事で亭主に用意した酒肴で二人は酔いつぶれてしまった。目を覚ました亭主が「泥棒さんはよく寝ているね。不用心にしていると泥棒が入るといけないので、心張り棒をしっかり掛けておきな」、「はい」、「ちょっと待て。泥棒は家の中だ。外から心張り棒を掛けておけ」。

 オチを聞くとこの題名「締め込み」が分かってきます。
 

1.日本橋の大家(たいけ)の呉服屋さん
 日本橋駿河町の越後屋呉服店、今の三越本店がモデルでしょう。1800年頃は使用人が1000人以上居たと言われていますから、あながち、この泥棒さんの話は大袈裟ではないのでしょう。この噺の類型は鹿の子餅(安永元年)の「押し込み」に語られています。
  第118「雪とん」、第108「死神」で歩いた所です。詳しくはそちらも覗いてください。
同じ百貨店の大丸も同じぐらいに力を持っていたし、同時期の白木屋ですら190人居たと言われます。

 
創始者三井高利(たかとし)は延宝元年日本橋本町1丁目に越後屋呉服店を開業。「現金掛け値なし」という商法を始めました。それまでは全て掛け売りでしたから、特定のお客しか対応せず高値で低層のお客はハジかれていました。この制度で全て、現金持参なら商いが出来たので大変売れました掛け売りと違って資本の固定化が避けられたので、他店でも真似る所が出ました。その上、待たせている間に着物を仕立ててしまいました。
 その次に「切り売り安売り」を始めました。これは手ぬぐい1本でも1反買わなければならなかったのです。上物を扱う同業者からは反目を受け、駿河町に引っ越したほどで、同業他店では客が激減したと言います。この方法は小間物店、刃物店、酒屋など他業種にも真似られ、定着していきました。

 『呉服屋・三井越後屋』 代勝覧(きだい しょうらん)より 江戸東京博物館蔵(複製)部分

 『呉服屋・三井越後屋』ジオラマ 江戸東京博物館蔵部分
 駿河町の角店ですが、右側の間口が狭い方が日本橋に繋がる表通り(中央通り)です。左側の奥まで長い所が脇道です。表の間口に比例して課税されるので皆、鰻の寝床のように奥が深くなっています。通りに出っ張った小屋は番小屋(商番屋)で、路地の反対側には自身番屋があります。

 『浮絵駿河町呉服屋図』 歌川豊春 1700年代 日本橋再開発工事現場壁面の図より

日本橋(中央区日本橋1丁目と日本橋室町1丁目を渡す)国指定重要文化財
 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
 現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の騏麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。

 平成12年3月 中央区教育委員会   橋南詰めの説明板より

 『日本橋付近』 江戸名所図屏風 原資料出光美術館 江戸東京博物館蔵部分

 
2.
観音様
 
淺草・浅草寺(せんそうじ。あさくさじではありません)の事で、仁王さんは宝蔵門の中に立っています。第72話「四宿の屁」で歩いた所です。そこにも仁王さんが頑張っていますから、覗いてください。

浅草寺の仁王さま昭和39年(1964)に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の村岡久作氏によって制作された。総高5.45m、重さ約1000kg、木曾檜造りである。
  仁王さまのご縁日は八日。身体健全、災難厄除けの守護神であり、所持している金剛杵は、すべての煩悩を破る菩提心の象徴である。
  仁王さまは宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。
金龍山 浅草寺 説明板より
 

3.無尽(むじん)
  「無尽講」の略、「頼母子講」(たのもしこう)とも。

 21世紀となった現在でも、日本各地(主に農村・漁村地域)に、無尽や頼母子と呼ばれる会・組織が存在している。メンバーが毎月金を出し合い、積み立てられた金で宴会や旅行を催す場合もあれば、くじに当たった者(くじと言いながら実際は順番であることが多い)が金額を総取りする形態のものもある。多くは実質的な目的よりも職場や友人、地縁的な付き合いの延長としての色彩が強く、中には一人で複数の無尽に入っている人もいる。

  • 民間においては、現在でも親しい仲間などが集まり小規模で行われている。近所付き合いや職場での無尽、同窓会内で行われる無尽などがある。毎月飲み会を主催する「飲み無尽」や定期的な親睦旅行を目的とした無尽など、本来の金融以外の目的で行われているものも多い。
  • 日本においては、金融機関から融資を受けられなかった社会的マイノリティー層においても、古くから現在に至るまで運用されている民間金融手法である。
  • 町内会や商店会などで運用される場合もある。
  • 「無尽」の行為自体に関する法律は現在まで存在しない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より

間男(まおとこ・密男);夫のある女が他の男と密通すること。また、その男。密夫。情夫。ツバメ。
 情夫を持つこと。男女が私通すること。
江戸時代、見つかれば重ねて四つに切ってもイイとされていました。それではいかがだと言い、七両二分と言う現金で手を打ちました。下女の給金が一年で一両二分の時代です。高い買い物ですね。
 長屋住まいの亭主が真っ青になって帰ってきた。聞くと「隣のカミさんと一度遊んだが、その亭主に見つかり、七両二分請求された。何とか金が出来ないか」、女房慌てず「それなら、私が言ったと、その亭主から倍お金貰っておいで」。

はばかりさま;「おあいにくさま」と同義。皮肉や反発の気持ちを込めて返す言葉。

御店(おたな)の半纏(はんてん);表通りの大店では出入りの職人、頭領や親分には常日頃から面倒を見て、盆暮れには店の屋号が入った半纏を配った。火事や泥棒が入ったり緊急ごとがあると一番で駆けつけた。
 


 舞台の日本橋を歩く

 日本橋南橋詰めに正面を見据えて立っています。左側に高札場跡があり、今そこに日本橋の説明板が立っています。その文を写したのが上記説明文です。ここの裏側を降りると川を見渡せる小さな広場に出られ、ここから撮った日本橋全景が下記写真です。橋の欄干や門柱に素晴らしい彫刻が乗っています。都内の橋でこれだけのデコレーションが掛かった橋は見当たりません。橋の中央には四角いプレートが埋め込まれ、そこが日本国道路元標で、全ての道路距離の0km基準点です。橋を渡った左側に都電が走っていた頃の0kmポストが保存されていて、それは照明も兼ねた柱状で、それも風情があって素晴らしいものです。144話「城木屋」にその写真があります。橋の右側(北東)に渡ると、「日本橋魚市場発祥の地」碑が建っていて美しき(?)乙姫像が有ります。

 三越日本橋本店は通りの向かい側、左側になり、橋を渡った際から新館、本館と繋がっています。こちら道路の右側は魚河岸当時からの老舗が多く、鰹節屋、海苔屋、刃物屋さんが並んでいます。その先は日本橋再開発地点になっていてクレーンが林立する建設工事現場です。工事現場の塀には江戸、明治から昭和に至るエポックメイキングな写真が並んでいます。当然三越(越後屋さん)がらみの写真や絵が多くなるのは致し方がありません。
 この辺りは第1話「百川」で歩いた所ですが、当時とは大いに変わってしまいました。百川楼の目安になる福徳稲荷は工事現場の中に吸収され前の料理茶屋(福徳塾)さんに避難し、店内に鎮座しています。その後この店も再開発地に指定されていますので、お宮さんの行き先は未だ決まっていません。早く安住の地を見つけてあげたいものです。

 三越の建物が完成したのは大正3年(1914)。アメリカでデパート建築を学んだ横河民輔の設計で、均整のとれたルネサンス様式が特徴の7階建て。中央ホールは1階から5階まで続く吹き抜けになっており、贅を尽くした天女「まごころ」像や一面に敷き詰められた大理石がみごとです。1999年には東京都選定の「歴史的建造物」に指定されています。

 淺草にはここから地下鉄で一本で行けます。雷門から仲見世を通り仁王門(宝蔵門)に行けます。私は「落語の舞台を歩く」で何度も行っていますので、道案内はいたしませんが、先に行って写真撮ってきます。浅草行きの、東京で最初に出来た地下鉄でおいで下さい。「落語の舞台を歩く」を見直して、迷子にならないように。

地図

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写真

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日本橋(日本橋川をまたぎ中央通りを渡す。道路距離の中心点)
古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られている。慶長8年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築する事19回を経て、明治44年3月石橋の名橋として現在の橋に生まれ変わった。 しかし、天井に高速道路が走り、その情緒は激減した。

日本橋
橋中央の、青銅の照明灯装飾品の騏麟は東京市の繁栄を表しています。

日本橋
橋の親柱の上に飾られた獅子は守護を表しています。前足で抱えているマークは前東京都の紋章です。子供の時は清掃局のマークだと思っていました(ははは)。今は銀杏の葉を図案化した物が使われています。

 

日本橋
橋中央の欄干に飾られた照明灯とキリンの像、道路の中央分離帯の所(写真の下)にある四角いプレートが「日本国道路元標」です。右アップ写真;橋際にあるレプリカ

三越全景(中央区日本橋室町1−4)
日本橋本店です。デパートでは王者として君臨してきましたが、伊勢丹と合併して、二人三脚で発展していく事になります。デパート業界は荒波の時代に入ったようです。

三越夜景
お洒落な雰囲気を醸していますが・・・。
上写真と同じ所から撮影。右側に三井タワービル、左が新館と日本橋。

三越入口のライオン
有名な入口のライオンです。左右対になっています。

浅草寺仁王門(宝蔵門)
右と左の両端に仁王さんが門番をしています。「阿(あ)形の像」

浅草寺仁王門(宝蔵門)
仁王門全景です。この奥に本堂があります。手前は仲見世で雷門に繋がっています。

浅草寺仁王門(宝蔵門)
仁王門を右から見ています。その先には五重塔が見えます。「吽(うん)形の像」

                                                                                                                                                                         2009年3月記

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