落語「派手彦」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、「派手彦」(はでひこ)によると。
 

 長谷川町新道に板東お彦という踊りの師匠がいた。この人の芸風が大変派手で、身なりも派手だったので、誰言うとなく「派手彦」と言われた。歳は二十二で色白く、目鼻立ちがよく、口元の愛嬌が良く、背はすらりと柳腰、髪の毛は綺麗で、ゾッとするほどいい女だった。ただこの人は男嫌いで通っていたので、男のお弟子さんは取らなかった。そのため親たちが安心して娘を通わせていた。
 間口は二間半、奥行き六間、突き当たりに舞台を取って、表は格子になっている。その格子前には派手やかなお彦さんを見たいと、黒山の見物人が連日押し寄せた。

 近くの乗り物町に松浦屋という酒屋があった。番頭の佐兵衛は四十二になるが仕事一途の女嫌いであった。ある日、長谷川町で人だかりがしているので中を覗くと、お彦さんがお稽古を付けていた。あまりの女っぷりに初めて性に目覚め、事あるごとに格子から中を覗くようになってしまった。恋患いをして床に伏すようになった。
 ご主人が心配して医者を介して探りを入れると、お彦さんに片思いしている事が分かった。

 お彦さんは、出入りの頭(かしら)の妹分と分かると、頭にそのことを告げて、仲に立ってもらうようにお願いした。頭は番頭の枕元で、きっと一緒にしてやるからと励まして、お彦の元に出かけた。話をしてみると、そこまで思ってくれる人ならばと、夫婦になる事を承諾した。

 夫婦になったが、住むとこがなかったのでお彦さんの家で生活を始めた。好きで一緒になったので、佐兵衛さん朝早く起きて掃除、食事の支度、お彦を起こし、食後の片付けをして、急いでお店に出社。なんの事はない、主人を二人持ったようなもので、回りからは良くは言われなかったが佐兵衛さんはそれで十分満足していたし、夫婦円満であった。

 木更津にお祭りがあった。派手なお祭りで、踊りも出るというので、お彦さんが呼ばれ、出かける事になった。この話を佐兵衛さんにすると、メソメソ泣き始めて嫌がったが、頭の言う事で断り切れなかった。
 10人ばかりの弟子を連れてお彦さんは木更津に出かけるため、小網町の船着き場から船に乗った。見送り人が沢山やってきたが佐兵衛さんだけは涙ながらに別れを悲しんでいた。
 「お〜〜い。お彦ォ〜。早く帰っておいでよ〜〜」涙、涙、また涙
船が出て、見送りの人たちは帰り始めた。

 「番頭さん、どうした。お〜い・・・・。大変だー。頭、戻ってきてくださいヨ〜」
 「本当だ。番頭さん、固まってしまった」
 「そー言えば、
浄瑠璃に『夫の後を恋い慕い、石になったる松浦潟、ヒレ振る山の悲しみも』とあり、『昔、松浦佐用姫が夫の大伴狭手彦が高麗に出陣と言う時、別れを悲しんで領巾を打振り夫と別れ、石になったと言うのに良く似ていますネ」
 「ホントですね。
松浦屋の佐兵衛さんが派手彦の船出を悲しんで、石になってしまった。のかもしれませんね」
 「おいっ、番頭さん。石になってしまったのかよ〜」
 「い・し・に・な・っ・た」、「おい、何か言ってるよ。何の石だ」
 「女房孝行(香こう)で、重石になった」。

 



1.松浦佐用姫(まつら_さよひめ)
 この「派手彦」について、マクラで振っている松浦佐用姫の伝説が分からないと、噺の内容とオチがイマイチ分かりません。で、その説明を円生のマクラから、

 貞女と名の高い女性に松浦佐用姫がいた。夫の大伴狭手彦(おおとも の さでひこ)が高麗に出陣と言う時、別れを惜しみ肥前舟木山(松浦潟)に登って領巾(ひれ)を打振り夫と別れた。領巾とは今のショールで、別れがつらいので石になったという。まことに堅い話です。 石になったのですから。
 「松浦姫 涙はみんな砂利になり」 川柳
 石になったくらいですから、そこから零れる涙はみんな砂利になったのでしょう。
 今は石になる事はありませんが、腹の中に出来る事はあります。胆石や腎石などです。女性は石が好きで、宝石を飾り付け大きいのがイイと愛しています。

■もう少し詳しく「松浦佐用姫」のことを、
 6世紀の事、朝廷の命令で朝鮮半島の任那、百済の救援に派遣された青年武将大伴狭手彦(おおとも の さでひこ)は、停泊地である松浦の地(佐賀県唐津市)で豪族の娘「佐用姫」と恋に落ち、深い仲になります。やがて、出帆の時が来て、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山(唐津市浜玉町〜鏡。領巾振山)に駆け登り、軍船にむかって身にまとっていた領巾(ひれ)を打振りました。
 それでも名残はつきず、佐用姫は山から飛び降り、呼子町加部島の天童山まで約20kmを、川に鏡を落としたり、衣を乾かしながら追いかけたものの、すでに船の姿はなく、 その地で悲しみのあまり七日七晩泣き続け、ついに石に化したという。

 鎌倉時代には「古今著聞集」「十訓抄」「松浦宮物語」、室町時代には「曾我物語」に描かれ、また世阿弥は謡曲「松浦佐用姫」に、さらに江戸時代の滝沢馬琴は「松浦佐用媛石魂録」に、そして今日では、日本三大悲恋物語と言われます。

 能 「松浦佐用姫」写真集 http://www.narops.com/nohgaku/sayohime/sayo.htm

万葉集より    佐用比売=さよひめ、佐用姫)
 「遠つ人 松浦佐用比売 夫(つま)恋に  領巾振りしより 負へる山の名」 
 「万代(よろづよ)に 語り継げとし この嶽(たけ)に  領巾振りけらし 松浦佐用比売
 「海原の 沖行く船を 帰れとか  領巾振らしけむ 松浦佐用比売」 

芸談;円生は芸談で次のように話しています。
 この噺は円生の師匠である品川の圓蔵と呼ばれた、名人圓蔵から教わったと語っています。正対して教わったのではなく、高座の脇からその話芸を取得したのでしょう。大伴狭手彦が派手彦、松浦佐用姫を松浦屋の佐兵衛さんに置き換えて、オチも地口オチでイイさげではないが、他にやり手が居ないので私がやっています。

 
2.
小網町(こあみちょう、中央区日本橋小網町)
 小網町と聞けば誰でも思い出す落語「宮戸川」の舞台です。甘酸っぱい青春の思いが一杯詰まった噺ですが、今回は違って別れの舞台です。
 小網町は江戸湾の入り江にあったところで日本橋にも近く、江戸の人々が乗船するには最適な場所であった。日本橋川に架かる現・鎧橋(よろいばし)のところに、鎧の渡しが有りました。ここは当時東京(江戸)湾に面しており 、木更津まで船で1〜2時間も有れば到着する距離です。泣いて別れを惜しむ距離ではありません。

 この町の名前の由来になった、小網神社(日本橋小網町16−23)がビル群の片隅で猫の額ほどの場所にしがみついています。強運厄よけの神様で、日本橋七福神や下町八福神に指定されている。この地は過去には川がもっと有ったが埋め立てられて、だだっ広い地形になってしまったが、ここは海産物問屋、回船問屋などが多かった。

右図;「よろいの渡し」 広重

■長谷川町新道(はせがわちょう_しんみち);中央区日本橋堀留町2丁目−1。大通りの水天宮通り(または人形町通り)から一歩はいると三光稲荷(堀留2−1−13)があります。その参道というか、小径が三光新道(さんこうじんみち)と言われる路地です。 なお、新道と書いて、「しんみち」と読みますが、「○○新道」と書いた時は「○○じんみち」と読みます。
 落語国ではここに、そうそうたる文化人が住んでいました。落語「天災」の心学者の紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)先生、落語「百川」の常磐津の師匠歌女文字と外科医の鴨池玄林、この落語「派手彦」の踊りの師匠、”板東お彦”などこの狭い地域に集まっていました。

乗物町(のりものちょう);正式名称、新乗物町。中央区日本橋堀留町1丁目の一部、上記長谷川町の大通りを挟んだ反対側の町。乗り物(駕籠)を作る職人が多く住んでいたという。「四谷怪談」の作者・鶴屋南北も 一時ここに住んでいた。落語「髪結新三」の弥太五郎源七は芝居ではここに、落語では その隣町・葺屋(ふきや)町に住んでいました。
 

3.美女 <寛政期の評判三美人>

   

上左図;「高名三美人」歌麿画 <寛政期の評判三美人> 左から高島おひさ、富本豊雛(とよひな)、難波屋おきた。

上右図;「富本豊雛」 歌麿画;富本という音曲は、天明の江戸に流行った。豊雛はその富本節の年若い女師匠であった。富本豊前太夫の豊を用いたものであろう。江戸三美人のひとりで、聡明そうです。

下左図;「高島おひさ」 歌麿画;高島長兵衛の娘で両国薬研堀の水茶屋の看板娘、こちらも江戸随一の美女であった。二人とも前掛け姿で、実用的でありながらお洒落な、当時流行の着付けで登場しています。

下右図;「難波屋おきた」歌麿画;浅草寺境内の水茶屋難波屋の当代一の美女おきたさんです。歳行ってからも看板娘を続けたキャリアウーマンです。

 美人の板東お彦さんは誰似なのでしょう。

  


  舞台の長谷川町、鎧橋を歩く
 

 三光新道の参道には行くたびに小綺麗になって、すっきりした小径になっています。その参道の左右はビルが建っているため、その壁面だからすっきりしているというか、風情が無いというか街中の一等地ですからやむ終えないのかもしれません。でも、飲み屋さんのドアーが二ヶ所有るのが何とも嬉しい情景です。
 心学者の紅羅坊名丸先生も、常磐津の歌女文字師匠、外科医の鴨池玄林、板東お彦師匠、どの一人もまたそのようなたたずまいの家も見つける事は出来ませんでした。 あっと、マンションがあったので、その中にお住まいなのかも知れませんね。
 人形町末広亭(人形町交差点手前)は現在の新宿末広亭に良く似た木造の寄席でしたが、この寄席も現在では見つける事は出来ません。その跡を示すプレートがビル脇に残されています。このプレートも先輩ビルが取り壊されるとき、その前に埋め込まれていたのが、生き延びています。

 三光新道は参道だと言いましたが、そのお宮さんは「三光稲荷神社」と言い、奥の左側に鎮座しています。
 三光稲荷神社は江戸時代、近くの中村座に出演中の歌舞伎役者・関三十郎が演技中、閃光が走り、お客さんは神光が走ったと評判になり、名声を不動なものにした。彼の邸内にあった「三十郎稲荷」は芸名の三と光の二文字から三光稲荷と称し、町内の氏神様として今日あります。
 現在は学業、芸事の御利益があり、特にネコ族守護神で失せネコの発見には大いなる力がありそうです。本殿の左側に、その結願御礼に招き猫がびっしりと並んでいます。

 表通りに戻れば、大きなビルが壁のように続いています。江戸の街並みではこちらが長谷川町、通りの向かいが乗物町ですが、その差は当然ありません。

 日本橋川に架かる鎧橋は上流に江戸橋、日本橋と順に並びます。下流は間もなく隅田川に合流します。あの宮戸川の霊岸島はお花半七が切れない仲になった地で、右岸にあります。

 今の鎧橋は水天宮の方(東)から行くと小網町を越えて、対岸の日本橋兜(かぶと)町に入ります。川岸に小さな兜神社があり、その前に大きな東京証券取引所があります。証券取引所の近隣は証券会社が群居しています。だってここは”カブと町”ですから、とは冗談ですが、有名どころの証券会社から初めて聞くような名前の証券会社まで集まっています。

 鎧橋近辺は当時、大きな入り江で、源義家が奥州征伐のとき暴風にあい波が荒く、船が沈まんとした時、鎧(よろい)を沈めて龍神に祈ったところ静まったという。また別説では平将門が兜と鎧を沈めたとも言われる。この故事からここに出来た渡しを”鎧の渡し”と言い、明治5年に初めて架橋された橋も、現在の橋の名もここから来ています。
右図;「鎧の渡し」 江戸名所図絵 鎧橋脇の立て看板より
図の上部に並んだ白壁の倉庫群は上方からの”下りもの”の回船問屋がひしめいていたのが良く分かります。
 

地図

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写真

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三光稲荷神社(中央区日本橋堀留2−1−13)
関東大震災のあとご神体が、行方不明になっていたが、三春駒で有名な郡山市三春で発見された。たまたま道具市で発見、祀っていたが隆昌になって繁栄したが、夜な夜な家鳴りがして長谷川町に帰りたいとお告げがあった。そこで、世話役が当地まで出かけ、譲り受けてきた。
人間だけでなく、神様までちりぢりになってしまった大震災であった。
三光稲荷参道正面
水天宮通りを、人形町から歩くと堀留に町名が変わった辺りに「三光稲荷参道」の横断看板が出ています。まるで温泉街のアーケードのようです。
この奥、左側に三光稲荷があります。
三光稲荷参道裏
上記の正面からはいると50mもしない間に裏側に出てしまいます。裏側にも表と同じアーケードが立っています。右側駐車場奥が三光稲荷です。

乗物町(中央区日本橋堀留1)
長谷川町から水天宮通りの向こう側を見ています。そこが過日の乗物町だったところですが、道の左右で差があるわけはなく、ごく当たり前のオフィスビル群が並んでいます。
人形町方向を見ています。

鎧橋(小網町と兜町を渡す日本橋川に架かる橋)
整備が進みすぎて、川の面影はありません。護岸は垂直に切り立っていますし、遊漁船すら入ってきません。
ここの川面に木更津まで出帆する船着き場があったのでしょう。
左方向が日本橋、右方向が下流で隅田川に合流します。正面が小網町。
東京証券取引所(中央区日本橋兜町2)
上記鎧橋の背中方向にある株式売買の中心、東京証券取引所です。正面の石造りのビルがそうです。左のガラス張りのビルは兜町日興ビルです。

                                                      2008年10月記

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