落語「石返し」の舞台を歩く
五代目柳家小さんの噺、「石返し」(いしがえし)によると。
この噺では題名を聞くと、オチが分かってしまうので、それを嫌って「番町鍋屋敷」と言う事もあります。
舞台の状況はこの様な長屋塀です。長屋塀とは塀そのものが長屋になっていて、そこに下級藩士が住んでいました。「井戸の茶碗」でも細川屋敷の状況はこの様であったでしょう。ここの窓は1階部分に付いていますが、噺の中では2階部分に付いています。ドブが塀に沿って切られているのも同じです。それが番町にもあったのです。
写真;ベアト撮影「東京・高輪 薩摩藩邸」(1860年代)。代表的な記録写真の傑作ですが、撮影には危険がつきまとい、早朝に気づかれないように撮影されました。右側が薩摩藩邸。
重要;今まではこの写真は薩摩藩邸だと言われていましたが間違い。現実は「島原藩下屋敷」(現・慶應義塾大学)で、右手坂上は伊予国松山藩の中屋敷(現・イタリア大使館)、中央の坂は「綱坂」と呼ばれる急坂で現在の三田2丁目辺り。江戸東京博物館学芸委員の解説による。08.10.4文書にて確認。
1.番町(ばんちょう。千代田区一番町〜六番町)
江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから、「番町(ばんちょう)」という地名が生まれました。
寛政5年(1793)、塙(はなわ)保己一(ほきいち)が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一は我が国の古文献を集め
、文政2年(1819)「群書類聚」1276種・正編665巻の編纂、完成で知られる大学者です。
落語「皿屋敷」、「大工調べ」で歩いた所です。
■夜鷹蕎麦
左;江東区「深川江戸資料館」の夜鷹蕎麦屋台。右;寫ヨ画 近世職人尽絵詞より。
左;山藤章二「新イラスト紳士録」、モデル藤山威一郎より。上図「小さん横顔」もここより。
■終い(しまい);ものごとの最後。おわり。また、おわること。売りきれ。品ぎれ。 ■鳥目(ちょうもく);銭。対価として支払う銭。中に孔があって、その形が鳥の目に似ていることから言われた。
■狸;右、小さん自筆の狸の色紙絵。小さんは自らを狸になぞらえて「他抜(たぬき=他を抜く)」に引っかけた狸の絵を好んでよく描いた。この話にも狸が登場しています。 舞台の番町を歩く
番町は商業地というより文教地であり落ち着いた住宅地です。歩いてみると良くわかりますが、私の住んでいる下町は坂がありませんが、ここではフウフウいうような坂もありますし、車が通れない階段坂も多数あります。以外に高低差がある丘陵地だとわかります。
日テレ通りを横切って次の右に下る坂を三年坂と呼ばれ、その左角のマンションが川路太郎、川路聖謨邸跡です。彼は勘定奉行や外国奉行を勤めた逸材でしたが、江戸開城の翌日、ここでピストル自殺しました。 そのまま道を進み緩い坂を下り始める左手にベルギー大使館があります。過去の歴史的建物だろうと期待していましたが、更地になって高層ビルが建つようです。今は塀と工事のガードマンとクレーンが立っているのみで、どのような建物になるのか、歴史は動いています。がっかりしながら表通りの新宿通りに出ます。右手は四谷を抜けて新宿に、左は半蔵門で皇居に突き当たります。左に曲がり次の交差点「麹町4丁目」の向かい側が切り絵図の版元「金鱗堂・尾張屋清七」の店がありました。新宿通りは幹線ですから、当然江戸時代の面影はどこにもありません。 新宿通りを背に番町に戻ってきます。坂道を下ったところに、日本テレビの社屋が有りますが、今は汐留に高層ビルを建て大部分が引っ越してしまったので、過日は芸能人が闊歩していたのですが、寂しい通りになってしまいました。今ではこの道を日テレ通りと呼ぶには何か違和感があります。旧社屋とインドカレー・アジャンタの角を右に曲がります。余談ですがここのアジャンタのカレーは絶品で大好きな店ですが、辛すぎて初めての人は完食できません。その辛さが後を引くのですが・・・。話戻って、イスラエル大使館の前を警察官ににらまれながら進むと「滝廉太郎 (右写真)の住居跡」に出ます。角地のところに説明文と碑が建っています。我々が小学校で良く歌った歌がここで作曲されていたのです。「荒城の月」、「花」、「箱根八里」、「鳩ぽっぽ」、「お正月」どれも題名を聞いただけで旋律が出てくるでしょ。早死にしたことが悔やまれる天才でした。
滝廉太郎住居跡の碑を右に曲がり全国町村議員会館の手前を左にはいると曲がりくねった先、右側にJCIIフォトサロンがあります。ここにはテーマを決めて写真展と地下には愛好家の展示室があって、どちらもレベルの高い写真が無料で観覧できます。私は近くに行ったときは寄るようにしていますが、見学者が少ないところをみると知られていないというか穴場として楽しめます。
道の突き当たりはイギリス大使館の裏側です。回り込んで正面に出ますが、木造の建物で窓に施されたペンキのカラーリングは英国を浮かび上がらせます。正面の門塀もゴシック調のよき時代を彷彿させる作りになっています。正面の通りを横切れば皇居ですから、最高の立地条件になります。当時の日本に対する英国の力がいかに大きかったかがわかります。 坂を上がって、大妻女高の先を右に曲がり大妻女子大前を通過します。(女子大の前で何か感想を言うと思った方はハズレ)その先の左側角に塙検校邸跡の碑が建っています。彼の詳細は本文をご覧になってもらいますが、ここでも過日の面影はどこにもありません。江戸の風景は皇居ぐらいしか残っていません。次に行く靖国神社でも明治になってからの創建ですから、樹木が鬱蒼としているだけで江戸の風景ではありません。 その靖国神社南口からはいると、左側に「練兵館跡」の碑が建っています。神道無念流の剣客斉藤弥九郎が幕末三剣豪の一人として約30年活躍したところです。本殿前で会釈して、九段坂の鳥居に向かいますと中央に大きな銅像が建っています。それが私塾鳩居堂を開いた大村益次郎です。 長々とご一緒していただきお疲れさまでした。そう言う私も疲れたので靖国神社を出てウインナーとビールで軽く一杯、疲れの後は旨いですなぁ〜。こんなに旨いんだったら、もう一杯。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。説明は上記地図番号に対応しています。
2008年8月記
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