落語「梅若礼三郎」の舞台を歩く
六代目三遊亭円生の噺、「梅若礼三郎」(うめわかれいざぶろう)によると。
梅若礼三郎は力のある能役者であったが、ある失敗から太く短く生きようと泥棒になってしまった。決して貧乏人をいじめるような事はせず、大名、大店から盗み困った人々に分け与え、これで助かった人が何人も居た。
神田鍋町家主万蔵店の長屋に小間物屋利兵衛が住んでいた。人物は宜しいのですが、3年越しで腰が抜けて寝たきりであった。生活は苦しかったが女房おかのは貞女で、手内職をし、夜は鎌倉河岸の街頭に立って金銭を恵んで貰っていた。11月の寒い晩、立派な身なりの御武家様にずっしりと手応えのある金子を授かった。帰って、改めると懐紙の中に小粒で9両2分が入っていた。夢のような事であったが、誤解を恐れ亭主には黙っていた。1両だけは生活の為と別にし、残りを仏壇の引出にしまった。
それを隣に住む博奕打ち魚屋栄吉、32歳になるが魚屋は表向きで真からの博打打ちで遊び人であった。バクチですってんてんになった栄吉は長屋の薄壁からこれを見ていて、寝静まったところを見計らって、仏壇から8両2分を盗み出した。
翌朝、朝湯に入り、質物を請けだして茅町で雪駄を買い、天王橋から駕籠で大門口に乗り付け祝儀に威勢よく2朱渡し、大門をくぐりひょいと左に曲がり羅生門河岸の馴染みの吉原池田屋に入った。
若い衆の喜助はまだ玄関先で掃除をしていたが、1分の小遣いを貰ってビックリしている。2朱の女郎を買って1分の祝儀は驚くのも無理はない。おばさんや女郎花岡にも1分の祝儀をきって、おけらの栄吉もまんざらではない。
翌朝、勘定書1両3分2朱のところ、盗んだ金だから気前よく2両渡し釣りはあげるという。
主人に、使い方が派手すぎるとご注進に及び、その現金を改めると山形に三の刻印がある盗まれた金であった。
揚屋町お加役勘兵衛さんに来てもらい相談し、花岡女郎に手はずを決めさせ見世を出た所で御用という寸法にした。
気持ちよく見世を出た所で、お召し捕りと相成りました。
<序>
田町の番屋に連れて行き、加役の岩倉宗左衛門の取り調べとなった。金の出所を聞き出されると深川で博打で儲けたと言い張ったが、聞き入れられず絞めてやろうかと言うところ、勘兵衛に十手でしごかれると白状し始めた。「盗んだのではなく、隣の利兵衛の家から(阿弥陀様に断って)持ってきた。」と。
だとすると、利兵衛が持っていた。・・・と言う事は「利兵衛は病人に見せかけて、夜仕事に出ているのであろう。逃げられるとマズイから即刻捕縛をしてこい」。
女房おかのは病人が寝ている間にお湯屋に出掛けた。その留守にお役人が踏み込んで「利兵衛、神妙にいたせ!」。
長屋中大騒動。月番が聞きに行ったが、ラチが明かず、家守万蔵が立ち会う事になった。「利兵衛は3年来の寝たきりで、誰が見ても病人です」。おかのさんを呼び戻し聞くと「夫には内緒で鎌倉河岸でわずかながらの銭を恵んで貰っていたが、立派な御武家さんが『ウソで涙は出ない』と言って、これだけの金を恵んでくれた。それを栄吉さんが盗んだなんて」。「その金は盗まれたもので、恵んでくれた武士の風体はいか様か」。言おうとしたが一時でも情けをかけてくれた恩人、自分の口でお縄が掛かったら恩を仇で返す事になるからと心に誓い「夜の事で歳も人相も良く分かりません」。「立派な御武家だと先ほど言ったが・・・」、「分かりませんものは分かりません」、「この者を取り調べねばならぬ。縄を打て」。と役所に連行されてしまった。
長屋連中も心配して、神仏にすがるより他無いからと、両国垢離場(こりば)に出掛ける事になった。
<中>
両国垢離場に着いたが、12月の末であったから、水に入っただけでも寒く、身体の芯まで冷え切ってしまった。居酒屋両国という有名な縄ノレンに入って『サイ鍋』で暖まった。
そこにクズ屋さんの一行が入ってきた。四方山話をしている話の中に「正直にしていれば『天道人を殺さず』だよ。」と言うのを聞きつけて「そんな事はない。貞女が病人の亭主を看病し、正直で通っている人にお縄を付けて引っ張って行くなんてどうゆう訳だ。」、「その話を聞かせてください」、「聞きたければ、一杯出しな」。
一通りの話を言って聞かせていた。
衝立の向こうで二六・七の色白のイイ男がチビチビとやりながら聞いていたが、「飲ませるからこちらに来て、話を聞かせてくださいよ」。女の風体を聞き出して、納得した様な顔で「その金をやったのはこの俺だよ」、「冗談でしょ。相手は御武家さんだと言ってました」、「私は役者だから、何にでも化けられる」、「ほぉ」、「傷のない金をやるから、飲み直そう」。と言う事で次の店に出掛けた。
利兵衛には20両、この男には5両やって、これからすっかり支度をして、北の町奉行・島田出雲守様に訴え出て、貞女おかのを助け出すという梅若礼三郎です。
<下>
1.梅若礼三郎
長い噺お疲れさまでした。全編通しで演ずると1時間半以上を要する長編人情噺です。序・中・下に別けて演じられますが、いわゆる切れ場は必ず面白い所でサゲており、序を聞けば次を聞きたくなる様に工夫されているのは
連続ものの定番ですが、やはり流石と言う他はありません。
円生の熱演を肌に感じます。
七代目土橋亭里う馬の高座の記憶と円喬の速記を元に、三遊亭円生が昭和32年(1957)にまとめ上げた噺。5、6回の連続物であったが、2回目以降はほとんどがそれまでの噺の粗筋であることから、無駄を省いて三話の完結物としたのは円生の力でしょう。
(取り調べ時の加役の岩倉宗左衛門の言動について)「いつか安藤(鶴夫)さんもね、あれを大変ほめてくれました。今ああいうのは芝居の方でもないって、あの調べの時にですね<べらんめえ>口調でね。しかもそれで、かどかどにはやはり役人であり、侍なんだから、侍言葉は、ちょっとは出ますが、聞いていると職人だか、なんだかわけが分からない。『前(めえ)へ出ろ、前へ出ろ』ってね。巻き舌の、<べらんめえ>で、この野郎うすばか野郎だとか、そういったような、ひどい言葉を使うんですね。ああいうことが江戸の当時の役人の特徴なんだろうと思いますね」。六代目円生
円生のこのべらんめえは小気味よく素晴らしい。若手や上方の噺家さんは絶対マネが出来ないでしょう。
礼三郎が何を失敗してこんなに簡単に泥棒になってしまったのか不思議です。ここまでの役者なら180度違った職種に就かなくて良いのに。ま、落語「千早ふる」の
主人公龍田川の例もありますので、一概には言えませんが。
「能役者の梅若礼三郎、老婆の歩く姿を見て老婆の演じ方を会得。うれしさのあまりその老婆に礼を言うと、本物を見なければ演技が出来ないのであれば、天狗や竜神の役は出来ないと言われ、自分の限界を悟って役者を断念、泥棒になってしまった。」と言うのですが
・・・。
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慶長一分金
慶長6年(1601)
重量4.5g、品位・金84%
上が表面、下は裏面 |
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2.言葉
■小粒で9両2分;10両を大金といい、盗めば首が飛んだ金額。1分金(小粒)ばかりで、9両2分=38枚あった。目方で約170gありましたから、かなりずしりときます。
1両=4分=16朱。四進法です。現在で76万円(1両=8万円)。慎ましく暮らせば1両有れば1人1年間食いつなげたという時代の9両2分です。
勘定書1両3分2朱;同じく1両8万円として15万円。いつもは2朱(1万円)の女郎を買ってピイピイしているのに、一晩15万円は散財しすぎです。また吉原で最下級の見世が集まるのが羅生門河岸ですから、そこでこれだけ派手に使えば、目立つのは当たり前。
2朱の女郎を買って1分の祝儀;
いつもは2朱(1万円)の女郎を買っているのが、2万円の祝儀を切るのはどう考えてもおかしい。2万円の女郎に1万円の祝儀なら分かるが(笑)。
■刻印付き;両替商が両替をする時に、「これは本物」という意味で「自分の屋号」の印を押すこと。複数の店が押すことも有ります。小判に押されることは往々に有りますが、小粒に押すなんて・・・。この刻印は山三マークのタガネで打ちますから、裏面にもその後が残り、ヤスリなどで消すことは不可能です。どうしても使いたかったら、鋳つぶして、金の価値で使うより方法は有りませんが、町人がその様なことをすると、なお疑われるでしょう。
ですから、本物で、偽物では無いのですが、盗品と言うことで流通が出来なくなります。
1万円札の新札や偽造紙幣では番号を記録されていると、使えなくなるのと似ています。
■小間物屋;落語「小間物屋政談」に詳しい。
■11月の寒い晩;旧暦の11月ですから今の暦で12月です。寒いはずです。
■天王橋から駕籠;「蔵前駕籠」でも語られているように、吉原通いの駕籠は浅草橋からここら辺りまでにある駕籠屋で調達して、吉原まで乗り付けた。街の中で網を張っている辻駕籠と違って、宿駕籠と言われた。江戸三大駕籠屋のひとつで、蔵前茅町(かやちょう)の駕籠屋「江戸勘」であったのであろうか。江戸勘の提灯が下がった駕籠なら見栄が効いた。なぜなら、職人の手間賃より駕籠代の方が高かった。今で言えばリムジンのハイヤーで乗り付ける様なものです。
■雪駄(せった);竹皮草履の裏に牛皮を張りつけたもの。千利休の創意という。のちカカトに裏鉄(ウラガネ)を付けて、チャラチャラ音を立てて歩いた。
まるでヤクザ映画の健さんの世界。右写真。
■お加役(かやく);本来の任務の他、火付け盗賊改め役を兼務したので加役と言い、その頭に「お」を付けたもの。
勘兵衛は御用ききの親分。
■家守(やもり);大家。長屋を守る管理人。
■居酒屋両国という有名な縄ノレンに入って『サイ鍋』を; 縄ノレンは一杯飲み屋(または、その象徴)。縄ノレンを掛けていたのでこう呼ばれた。サイ鍋とはショウサイ鍋のこと。
しょうさいふぐ【潮前河豚】;フグ科の海産の硬骨魚。食用とされ、安価で手に入ります。美味ですが、肉や精巣にも弱い毒がありますが、過食しなければ差し支えありません。皮にも
弱い毒アリ。
3.舞台の場所
■神田鍋町万蔵店;神田鍋町(千代田区神田鍛冶町三丁目)に有った万蔵店(だな)。万蔵という家主が管理している長屋。そこに小間物屋利兵衛が住んでいた。JR神田駅北・中央通り西側。
■鎌倉河岸;千代田区内神田1−6および2−2、3、鎌倉橋の左右に広がる河岸。
おかのさんが物乞いをしていた所。落語「業平文治」で訪れた所で、詳しくはそちらをご覧下さい。
■茅町(かやちょう);
おおざっぱに中央区日本橋人形町辺り。明暦の大火(振り袖火事)を境にして遊郭がここから浅草北側の新吉原に移転した。その後ここを元吉原と呼んだ。栄吉はここで雪駄を買ったと言いますが、それは親父橋の照り降り町で買ったのでしょう。
江戸っ子は特に足元のオシャレに気を遣った見栄っ張りですから、大回りしてもここで買い求めたのでしょう。落語「髪結新三」で歩いた所です。
もう一つの茅町は浅草茅町と言って、浅草橋を都心から渡って、道路の右側に面した、現在の台東区柳橋一丁目にあたります。浅草橋のたもとから総武線の南北両側まで町がありました。ここから駕籠に乗って吉原に乗り付けたのでしょう。
■天王橋(てんのうばし);台東区江戸通り浅草橋を渡りJRのガードをくぐります。左側に須賀神社(台東区浅草橋2−29−16)
が見えます。その先の橋を「須賀橋」と呼ばれましたが、それ以前は神社が天王社と呼ばれたので「天王橋」と言われました。落語「後生鰻」で歩いた所です。詳しくはそちらをご覧下さい。
■羅生門河岸(らしょうもんがし);
吉原大門をくぐって左手お歯黒ドブに突き当たった辺り。そのドブに張り付いたように並ぶ小見世は吉原最下級で、女もそれにならった者達だった。落語「お直し」はそこを舞台にしています。
■揚屋町(あげやちょう);お加役勘兵衛が住んでいた。大門を入って吉原の中程右側の町。右、江戸切り絵図から吉原を参照。
■田町の番屋(たまちのばんや);
東京には何ヶ所かの田町がありますが、落語国では田町と言えば吉原の南にあった田町を指します。吉原と浅草寺の間の土地。明治14年頃浅草田んぼが埋め立てられて、約2万1千坪が平地となり、その一部が田町という町名になった。今はこの町名はありません。落語「ぞろぞろ」、「付き馬」で歩いています。
そこにあった役人の詰め所。
■両国垢離場(りょうごく−こりば);回向院につながる繁華街の一角、両国橋東詰めにあった沐浴場。大山詣りに出掛ける時はここ隅田川の水で身を清めた。落語「大山詣り」でも歩いています。
舞台の神田から吉原を歩く
主人公小間物屋利兵衛女房おかのが住んでいたのが神田鍋町。今のJR神田駅北側の繁華街のど真ん中です。神田には何度か訪れていますが、これで何度目になるのでしょうか。サラリーマンの街らしく大勢の人が行き来しています。飲み屋さんも多いので、ここでゆっくり飲みたいなァ。
おかのさんが夜ごと出ていって物乞いをしていた鎌倉河岸は6〜700mほどの南にあります。お濠端の淋しい所で袖を引いて物乞いをするのですから、なかなか銭はたまるものではありません。宝くじにでも当たったような金が舞い込んだのに、それを横取りされて、その上、御上に引き立てられて行ったなんて理不尽も甚だしい。ここで怒ってもしょうがありませんので、淋しくない昼間に行きましたが、明るく談笑しながら行き交うビジネスマンがその対比を鮮明にしています。
遊び人の栄吉はおかのさんが隠した8両2分を盗んで遊びに行きます。遊びにと言えば遊郭に決まっていますが、生意気にも岡場所でなく格式の高い吉原に出掛けますが、やっぱり最下級の羅生門河岸で遊ぶのです。志ん生の落語「お直し」を聞けば、どの位安見世だか分かります。持ち付けない金を持って、使いなれないからやたらとチップをはずみます。見世の主人に怪しまられ、揚屋町に住んでいる十手持ちの勘兵衛に捕らわれ、拷問に掛けられます。
落語の舞台には吉原が出てくる噺が多いのですが、吉原は意識的に避けて通っています。吉原に行っても、当時の情景はどこにもありませんし、ソープランドというお風呂屋さんが軒並み並んでいるだけです。その、”だけ”なら良いのですが、店の入口には必ず呼び込みの若い衆が立っていて、カメラを向けると
嫌な顔をします。私は警察や保健所では無いと言う顔をしますが、それが分かると直後には袖を引かれるのです。朝に行っても、昼過ぎに行っても同じです。皆さんには申し訳有りませんが、流石、夜の写真は撮っていません。
おかのさんの住んでいる長屋の住人の心優しい事。寒中に隅田川の川の中に入って無罪と早期開放を神に願っているのです。寒い身体を近くの縄ノレンで暖めながら愚痴とも言える言葉が出てきます。それを聞いていた礼三郎に伝わり、事件が解決する事になります。
この垢離場は両国橋の際にあって、水垢離をして神に念じるのですが、「大山詣り」では毎年真夏の行事ですが、今回は正反対の寒の時期です。暖かく水遊び気分になる真夏と、雪でも降れば凍えてしまう真冬では意気込みが違います。それだけ、おかのさんが慕われていたのでしょう。今の隅田川を見れば手を入れるだけでも汚れてしまいそうですが、当時は白魚が泳ぐ清澄な流れだったのです。両国橋も今より下流に架かっていました。
この噺は落語「しじみ売り」に似ています。泥棒がネズミ小僧から礼三郎に、しじみ売りの子供がおかのさんに変わっただけ(?)のような筋書きです。当時はこの様な義賊とそれに助けられた庶民の幕府に対する反抗が底辺にあったのでしょう。
噺の上ではその義賊も一般人に迷惑が掛かると進んで自首します。またここが物語として受けるのでしょう。同じような話が池波正太郎原作「白浪看板」でも語られています。
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2008年7月記
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