落語「おすわどん」の舞台を歩く
   

 

 桂歌丸の噺、「おすわどん」(おすわどん)によると。
 

 江戸時代、下谷の阿部川町に呉服商の上州屋徳三郎さんが住んでいた。女房おそめと大変仲の良い夫婦であった。おそめさんは病の床について、それが元で亡くなってしまった。一周忌も終わって親類からも薦めるので奥で働いているおすわという後妻を娶った。おすわどんは良く働き店の者にも評判が良かった。夫婦仲の良い二人が出来上がった。

 二十日過ぎのある晩、徳三郎は夜半に小用に立って部屋に戻るとき、表の戸を”ばたばた、ばたばた”と叩くような音がした後にか細い声で「おすわどォ〜ん。おすわどォ〜ん」と聞こえてきた。空耳かなと気にも留めなかったが、次の晩も同じ時刻に、表の戸を”ばたばた、ばたばた”と叩くような音がした後にか細い声で「おすわどォ〜ん。おすわどォ〜ん」と聞こえてきた。先妻が恨んで出たのかと一瞬思った。
 ところが毎晩「おすわどォ〜ん」と呼ぶ声がして、奉公人も怖がってひととこに丸まって耳を塞いでいた。それを聞いたおすわどんも気を病んで患ってしまった。亭主は誰かの嫌がらせだろうと、番頭に頼んだがそれだけは勘弁してくれと逃げ腰であったので、剣術の荒木又ズレ先生に犯人を捕まえてもらうことにした。

 いつもの深夜、先生が待ち構えていると、表の戸を”ばたばた、ばたばた”と叩くような音がした後にか細い声で「おすわどォ〜ん。おすわどォ〜ん」と聞こえてきた。バタバタっと駆け寄って捕まえてみると、夜泣き蕎麦屋であった。
「その方か、毎夜、店先でご家内の名を呼ぶのは」
「いいえ。私は毎夜商いをさせてもらっているお蕎麦うどん屋です。『お蕎麦うどォ〜ん』と。」
「『お蕎麦うどォ〜ん』?『おすわどォ〜ん』。バタバタさせているのは何だ」、「それは渋団扇で七輪の口を扇いでいるのです」。
「病人も出ており、拙者も頼まれたことだから、その方の首をもらう」
「身代わりで勘弁して下さい。私の子供を差し出しますから」
「引出しから出した、これは何だ」
「蕎麦粉でございます。蕎麦の粉だから蕎麦屋の子でございます」
「ふざけるな、こんなものを身代わりに取ってどうする」
「手打ちになさいまし」。

 


 
1.下谷の阿部川町(台東区元浅草3、4丁目東側)
 
下谷阿部川町と歌丸は言っていますが、阿部川町は下谷ではなく隣の浅草にありますので、浅草阿部川町と言います。
 元浅草3、4丁目;昭和11年(1936)に、江戸・明治時代からの浅草阿部川町(この地の地主が今の静岡市内の阿部川から移ってきた事による)からおもに変わった。旧町名浅草菊屋橋の由来は、町の中央部を南北に流れていた新堀川に架かっていた菊屋橋にちなんで付けられた。菊屋橋の名は、近くに菊屋という菓子屋があったからという。
 現在、浅草菊屋橋の町名はなくなっていますが、交差点にその名が残っています。

 ここには落語「富久」に出てくる幇間の久蔵が住んでいた。 また、落語「柳田格之進」の主人公・柳田格之進もここに住んでいた。久蔵と同じようなみすぼらしい裏長屋に住んでいたという。
 今は北側にかっぱ橋商店街があり、ここは厨房機器、及びレストラン食堂関係の商品なら何でも揃うと言う所で、いつも人出と活気が満ちあふれています。南隣の蔵前は元蔵前国技館があったり、玩具、雑貨類の問屋さんがあったりしてそれなりに町も活気があります。その間に挟まれたここ元浅草3 、4丁目は元気と特徴のない静かな街です。
また、菊屋橋は「白浪看板」でも歩いた所です。

 台東区のホームページに「菊屋橋」が詳しく記述されていますので、リンクをしていますのでご覧下さい。


 
2.
夜鷹蕎麦(夜鳴蕎麦)
 夜間、深夜まで路上で蕎麦・饂飩を売り歩く人。また、その饂飩。夜鳴蕎麦ともいう。
落語にも夜鷹ソバが出てくる噺はあって、「替わり目」、「時蕎麦」、蕎麦ではないが「うどん屋」もあります。

江戸っ子はそぱが好き
 江戸のそば、上方のうどんというけれど、初期の江戸でも、うどん屋か主流だった。見頓屋(けんどんや)という手軽で安い店もあって、無愛想な態度を「つっけんどん]というのは、ここからきている見頓屋の実態はよくわからないが、現在の立ち食いそばのような煮売りの一種だったようだ。のちに見頓は 料理を垂ねて持ち運ぶ出前の提箱に名前を残すのみで、消えてしまった。
 そは屋がうどん屋を圧倒するようになるのは寛延(1748−51、江戸中期)ごろの事といわれ、江戸の町にはそば屋がたくさんできた。メニューも増えて、「もり」、「かけ」のほかに、玉子焼きやカマボコなどの具を乗せた「しっぽく」、揉んだ焼き海苔を乗せた「花まき」が考案され、後期には「あられそば」 (青柳の”小柱”を冬の空から降ってくる”あられ”に見立てた。熱々の麺の上に海苔を敷き新鮮な小柱を生のままその上に乗せたもの。)、「天麩羅そば」に加え、馬喰町一丁目・笹屋治兵衛が元祖の「鴨南ばん」が登場した。幕末には、下谷七軒町・太田庵が「おかめそぱ」を売り出して人気になっている。

 蕎麦の屋台で有名なのが夜鷹蕎麦である。本所吉田町辺りにたむろする街娼・夜鷹がよく利用したことから付いた名称で、屋台と言っても道具一式を天秤で担ぐ簡単なものだった。『守貞漫稿』によれば、風鈴が提げてあるのが目印であったという。
「目からウロコの江戸時代」武田櫂太郎著より

 「二八ソバ」の解釈について、価格説と配合説があります。どちらも正しいのですが、価格説は売値が20文を越えた慶応年間(1865〜68、江戸最後の年号)を境にそれ以前で使われていたことです。それ以前では、二六又は三四の12文、少し下がって二八・16文となった。

右図:名所江戸百景より「虎の門外あふひ坂」部分 広重画 二八蕎麦屋
 

3.手打ち
 1.(「手討」とも書く) 武士が、家臣や町人など目下のものを手ずから斬ること。
 2.そば・うどんなどを、機械にかけずに手で打って調製すること。

この二つを掛けたオチです。既にご存じですか?それは失礼。

 店頭で手打ちを見せる蕎麦屋。浅草にて



4.怖さから

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」、枯れススキでも見ようによっては幽霊に見えてしまうということ。自分の尻尾にじゃれつく子犬なら可愛いのですが、自分の影に驚いて駆け出す人もあります。たかが夜泣き蕎麦屋だとは結果論で、正体が判明するまでは恐い もの。

 落語「小言幸兵衛」(搗屋幸兵衛)の噺で、
 女房に先立たれ、後妻を迎えて仲むつまじい夫婦が出来上がった。女房が朝、仏壇を開けると先妻の位牌が後ろ向きになっていた。先妻の恨みではないかと不安になったが、翌朝も直したのに後ろ向きになっていた。何日も同じ事が続いて、奥様は気に病んで 亡くなってしまった。位牌が二つになって、その位牌も動いていた。
 後で分かったことだが、隣の搗米き屋が搗くたびにその振動で、位牌が動き少しずつ回転していき、後ろ向きになるのであった。
 分かれば何と言うこともありませんが、原因が分かるまではね〜。
 
 


  舞台の阿部川町を歩く

 吉原の南側に広がる田圃地帯を吉原田圃と呼んでいました。落語の中にもしばしば登場する所で、ここから眺める吉原は不夜城の如く光り輝いて見えたと言われます。ここ吉原田圃は低地で水はけが悪く、雨が降ると湿地状態になってしまう所でした。ここの排水の為に新しく掘られたのが新堀川で、隅田川に排水されました。吉原田圃から南に今の かっぱ橋商店街を抜けて、菊屋橋から安倍川町(元浅草)を右に見ながら蔵前に南下します。蔵前で左(東)に折れて隅田川に合流しました。簡単に掘られたようですが、なかなか難事業で苦しんでいたところ、隅田川の河童が助けてくれて完成したと言われています。その為菊屋橋から北側の商店街を かっぱ橋商店街と言います。
 今その新堀川は暗渠になってその面影を残していませんが、安倍川町の表通りはその新堀川が有ったところです。

 旧安倍川町の街並みは特徴のある町ではありませんが、柄井川柳(からいせんりゅう)がこの近くに住んでいました。彼の号名「川柳」があまりにも輝いていたので、その名が現在使われている「川柳」になってしまいました。その碑が、菊屋橋公園(台東区元浅草3丁目20)に”川柳ゆかりの碑”として残っています。

 

地図

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写真

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阿部川町表通り(台東区元浅草3丁目)
表通りは新堀川があった所で、北(写真奥)に菊屋橋からかっぱ橋商店街に至ります。左側(西側)が阿部川町で、手前(南側)が蔵前になります。
阿部川町裏通り(台東区元浅草3丁目)
極々普通の街でしょ。
菊屋橋公園:川柳碑(台東区元浅草3丁目20)
 柄井川柳(からいせんりゅう、正通、初代、1718−1790)
 前句付は出題された前句(主に七七の短句)に付句(主に五七五の長句)をつけるもので、川柳が点者を務める万句合(まんくあわせ)は広く人気を集めた。明和2年(1765)川柳の選句集『誹風柳多留』(はいふうやなぎたる)初編の刊行をひとつの契機として、付句が独立した文芸となっていった。この文芸は「川柳点」「狂句」などと呼ばれたが、明治中期から「川柳」の名称が用いられるようになった。個人の号名が文芸の呼称となるのは希有のことである。
 柄井川柳はこの地で名主を務めていた。「川柳ゆかりの地」碑より抜粋

菊屋橋交差点( 浅草通りとかっぱ橋商店街の交差点)
右に浅草通りを行くと隅田川に架かる駒形橋、そこを左に曲がると浅草寺。浅草通り左に行くと、上野駅に突き当たります。前方かっぱ橋商店街、厨房機器と食堂関係の物なら何でも揃います。後方安倍川町から蔵前に出ます。

  夜鷹蕎麦(夜鳴蕎麦)
深川江戸資料館にて。当然この蕎麦屋の天秤は重くはありませんが、中に麺やダシ、湯、丼、七輪などが入ると、相当の重さになるでしょう。
中央に風鈴が下がっていて、歩くとチャンリンと鳴ったことから「親父のチャンリン、蕎麦屋の風鈴」と呼ばれた。
 

                                                  2007年11月記

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