落語「そば清」の舞台を歩く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺「そば清(そばせい)」によると。(別名;蕎麦の羽織、蛇含草)
 

 私(志ん生)はあまり食べませんな、酒を飲むせいかもしれません。食べるのは腹八分ですな。それが体にいい。

 ソバを13枚食べたのを見ていた客が、今日は15枚食べられないかとけしかけた。身体が調子良かったので食べられたが15枚は無理だというのを、1分(ぶ。=1/4両)付けるから挑戦してくれと、強引に頼んだ。さらっと食べて1分持って帰っていった。
 15ではダメだから20枚で賭をしたらと言うので、イヤイヤ請けて、これもさらりと食べて、2分受け取って帰っていった。
 翌日30ではどうかと言ったが、それは無理だと言いながら、再び平らげて1両持って引き上げて行った。
 それを隣で見ていた人に笑われたので聞くと、ソバ好きで有名な、清兵衛さん、人呼んで”そば清”だと言う。普段かるく50枚は食べるので有名だという。
 みんなで相談し、3両の金を作って60枚で賭に挑んだ。江戸時代の3両だから、やりたいが未知の枚数だから、清兵衛さん55枚ならと言ったが、60枚でと譲らなかった。

 清兵衛さんは1ヶ月ほど信州に商いに行っていた。その道中で、ウワバミが出て人を飲み込んだのを目撃してしまった。ウワバミはあまりにも大きなものを飲み込んだので、苦しがっていたが、近くの草を舐めると腹が引っ込んでしまった。ウワバミも消化を助ける草を知って居るんだ、と感心しながら、その草を摘んできた。

 信州では70平らげたから、江戸でも70枚に挑戦してみたいと、清さんに逆提案されてしまった。賭金を集めて5両とした。
 30,40,50枚とサラサラと食べていった。60・・・・65枚になって回りがザワザワしてきた。残り2枚となった。さすがの清さんも苦しくなって、縁側に出て風に当たりたいという。障子を閉めると、何かを舐めているような気配がしたので、声を掛けると返事がない。
 障子を開けて見ると、清兵衛さんは何処にも居ないが、ソバが羽織を着ているだけであった。
 清兵衛さんはウワバミが飲んだのは消化薬だと思っていたが、実は人間だけを溶かす消化薬だったので、清兵衛さんを溶かして、ソバが羽織を着ていたのでした。

 


 
1.蕎麦(そば)

 
 ソバの花と畑 写真をクリックすると大きくなります

 原産地は東アジア北部または中国雲南省説とされ、中国・朝鮮から日本に渡来。ロシアに多く栽培。
  養老6年(722)には救荒作物として栽培された(『続日本紀』)。
 タデ科の一年生草本で、 多くの品種があり夏ソバ・秋ソバに大別。茎は赤みを帯び、花は白。収穫までの期間が短く、荒地にもよく育つ。
 山村では蕎麦の粒食や、蕎麦がき、蕎麦焼餅の粉食時代が続いた後、慶長年間に蕎麦切り(漢名は「河漏)が作られた。蕎麦切りの初見は『慈性日記』の冒頭に近い慶長19年(1614)2月3日の項で、江戸に滞在していた近江多賀神社の社僧慈性が、当日常明寺で馳走にあずかったとある。しかも格別珍しがっていなかったから、寺方や在郷で普及していたことがわかる。
また、食べ方の初見は「中山日録」(尾張公のお供で旅した儒者堀杏庵による)に寛永13年(1636)4月4日のこととして「蕎麦切は冷麦のように長細く冷たく作られている。少量の味醤を加え、鰹粉と葱韮(そうきゅう、葱類)を入れた大根の絞り汁で、この蕎麦を食べる。大まかに噛んで食すると、味わいはまことに良い。」とある。『毛吹草』は信濃国の名物として「蕎(まま)切り、当国より始まると云う」と載せており、宝永3年(1706)刊の『風俗文選』には、中山道本山宿と地名をあげているが、本当の発祥地は明らかでない。

 蕎麦切り(略して蕎麦という)の作り方は寛永20年(1643)に版本で「料理物語」が出され(写本としては1636年のものがある)蕎麦切りもその中で紹介されている。「飯の取り湯、ぬるま湯、豆腐のすり水などでこねて玉を作る。のして切る。大量の湯で煮る。煮えたら竹篭で掬い取る。ぬる湯に入れてさらりと洗い、せいろに入れ、煮え湯をかけ、蓋をして冷めぬように、水気無きようにしてだす。」というものであった。「蒸し蕎麦」である。
 蒸すとなれば菓子舗の得意技で、お手の物の蒸篭(せいろ)で本格的に蒸した。今でも蕎麦を小型の蒸篭で出すのはその名残である。
  寛文(1661)から元禄の大体中頃(1695ころ)間でのほぼ30年間は蒸蕎麦が大いに脚光を浴びた。元禄の初め、あるいはその数年前になると、江戸の盛り場では通行客相手に蒸蕎麦のにぎやかな呼び込みが繰り広げられるような、庶民食としての性格を強めていく。

 元禄2年(1689)の『合類日用料理抄』をみても、蕎麦切りはまだ蕎麦粉だけで打つ「きそば」であって、つなぎに小麦粉を混ぜる手法は元禄末頃からであろう。江戸では寛永末から売られていたが、寛文4年(1664)吉原の仁左衛門がけんどん蕎麦を売り出してから、追随するものが増えた。また夜蕎麦売りは、「夜鷹蕎麦」と呼ぱれ、宝暦頃には新たに種物を加えた風鈴蕎麦が現われて人気をさらった。東海道筋の茶屋でうどんに対して蕎麦切りが圧倒的に優位を占めたのは元禄以後で(元禄3年(1690)『東海道分間絵図」)、見付、芋川、土山のものが著名。寛延(1749−1751)頃、しっぽくなどの種物が工夫され、白い御膳粉による三色・五色の変わり蕎麦が 、やっと上流階層にも受けた。
 庶民のソバは晴れの食物であって、婚礼、誕生のほか、雛の節句には五色ソバで祝った。晦日、引越、正月の帖綴じ、大入り、廓での布団の敷初め、舞台の失敗は楽屋でのとちりソバと、祝儀、不祝儀に広く利用された。
 「二八ソバ」は元来売値から出たもので、配合率を表すようになったのは慶応以後のことです。
 (「江戸時代 食生活事典」 日本風俗史学会編 及び「蕎麦 江戸の食文化」 笠井俊彌、 広辞苑より)

 
 「見付のソバ屋」 北斎 「ソバ膳」 ワーズウィックコレクションより(幕末)

 

2.浅草称往院・道光庵
 この噺は特定の場所がお聞きのように設定されていません。しかし、江戸時代の人も「蛇含草」を意識して次の川柳を創っています。

 「道光庵草をなめたい顔ばかり」  (「川柳評万句合」明和2年(1765))
 道光庵のソバで満腹した人達が、落語に出てくる「蛇含草」を舐めたいようだ、と言う意味の句です。

 「浅草の庵室へそば食いに行き  (「川柳評万句合」明和8年(1771))
 浅草の庵室とは道光庵の事です。ソバが有名で、江戸一との声も掛かったほどです。

 では道光庵とはどの様な所だったのでしょう。
 江戸時代中期頃、江戸浅草芝崎町(現在の西浅草3丁目)に、一心山極楽寺称往院(しょうおういん)という浄土宗の寺がありました。この寺は、慶長元年(1596)、白誉称往上人によって創建されたものですが、明暦の大火(1657)で浅草に移ったものです。
 その称往院内に道光庵という支院がありました。享保年間(1716〜35)ころ、この道光庵の庵主は信州松本出身で、蕎麦打ちが大変上手であったので、檀家の人々向けに自ら蕎麦を打って振る舞ったということです。
 蕎麦は、浅い椀に盛った御膳蕎麦で、寺方なので魚類のだしを使わず辛味ダイコンの絞り汁を添えて出したといいます。町の人たちは、そのうまさに驚き、信心にかこつけて、この蕎麦目当てに押しかけてくるようになり、その名声はどんどん高まり、江戸の評判記には、本職のそば屋を押しのけて筆頭に挙げられるほどとなりました。道光庵の門前には、そば目当ての人々が連日列をなす有り様で、寛延年間(1748〜50)ごろがピークであったといいます。
 そして、この「そば切り寺」道光庵の名声にあやかろうと、競って屋号に「庵」の字をつけるようになったということで、現在に受け継がれています。
 その後、寺なのかそば屋なのかわからないような状態になり、見かねた親寺・称往院の住職が、天明6年(1786)、ついに「蕎麦禁断」の石碑を門前に建て、道光庵の蕎麦を禁じてしまいました。 「蕎麦禁断」の石碑の側面には「不許蕎麦地中製之而乱当院之清規故入境内」(寺内でソバを打って称往院の規則を乱す為、ソバ境内に入るを許さず)と記されていますが、お客さん達もこの漢語が理解出来たんですね。ソバ食いは偉い。
 この時の蕎麦禁断の石碑は、関東大震災後、親寺の弥往院が昭和2年烏山寺町に移転。この時、安政2年(1855)の大地震で壊れ、3つに折れた状態で土中から発見され、現在の弥往院門前に修復されて立っています。 高さ2m、幅25cmの石柱です。
 

■江戸時代浅草の称往院道光庵

 江戸切絵図 「浅草」 嘉永6年(1853) 左側に「称往院・道光寺」の文字があります。
           
■道光庵の蕎麦切
 
浅草称往院寺中道光庵、生得この庵主蕎麦切を常に好むが故に自然とその功を得たり。当庵僧家の事なれば尤魚類を忌む。絞り汁いたって辛し。粉潔白にして甚だ好味也。茶店にあらねばみだりに人を招くにあらず、好事の人たって所望あれば即時に調(ととの)ふる也。誠に好める道なれば也。 (続江戸砂子)

           

道光庵 「蕎麦切ハとりわけ江戸を盛美とす。中にも浅草道光庵の手打ち蕎麦ハ第一の名物なり」とある。(絵本『浅紫』より)

 

3.清兵衛さん
 落語の噺のモデル、「清兵衛さん」は天保11年(1840)から8年間朝昼晩とも蕎麦を食べとおした江戸の名物男で神田鍛冶町(JR神田駅北側)に住む実在した人物だと言われています。
 最初に紹介した川柳
道光庵草をなめたい顔ばかりが時代的には先にあり、その後落語「そば清」ができました。「道光庵」が蕎麦を提供していた時代にすでに「消化薬」としての「薬草」があり、その後そのパロディーとして「蛇含草」が考えられたと言われています。

蛇含草;蛇が食べ過ぎた時に、この草を食べると忽ち消化し、人間だけを溶かす消化薬?。この草のモデルはクチナシジョウゴのことで、この名は、クチナワジョウゴが転じたもの。このクチナワジョウゴは、朽縄(=蛇)上戸、すなわち、蛇が好んで食べると云う意味からでたもので、別名をウワバミソウと云う。
  ウワバミが出そうな山中の湿った斜面に群生し、高さ30〜40cmになり、葉、茎ともみずみずしく柔らかな多年草。東北地方ではミズナとも呼び、人間も山菜として食用にしている。

 

4.大食い競争
 
下 図に続く

上より続く 

上図;「酒戦図」鵬斎詩序・南畝詞書、狂歌 文化12年(1815) 「千住の酒合戦と江戸の文人展」足立区郷土博物館の図録より 。ただし、この図は墨田区緑町図書館所蔵の現物(模写品。本物は現存しない)による。

 文化12年(1815)10月21日、千住駅の近くにあった飛脚宿兼茶屋の中六といわれた主人の家で還暦を祝った催しとされる。千住は隅田川筋の上流の名勝地であり関屋の里には多くの文人が交流した。この日招かれたのは、酒井抱一、谷文晁、亀田鵬斎、大田南畝(蜀山人)らに名家諸君子があつまった。酒井抱一は下戸であったが、文人達にははずせない人物であり、南畝は酒は飲めたが当日は欠席している。体調がすぐれなかったのだろうか。
 当日の酒量勝負が付いているが、当日一位は品川宿 上総屋専太郎 3升8合を飲んだ。2位、3升5合。6位、2升8合を飲んだ吉原女芸者 花立のせい。12位、1升5合飲んだ芝の黒川きく(15歳)。こんな娘が大酒飲みであって良いのだろうか。最後15位に向島白鬚前 米吉十二歳とある。この頃には、大酒呑みの子供がいたのだろうか。
(この項と図版 08年2月追記)

万八楼

  江戸高名会席亭盡「柳ばし夜景 万八」広重画
 柳橋を渡った北側、隅田川に面した所にあった会席料理屋。橋を渡る芸者や、隅田川で四つ手漁が描かれ、2階では宴たけなわなのでしょう。万八楼は現在の亀清と呼ばれた亀清楼のことです。 10年5月上図追記

 2年後、文化14年(1817)3月23日、両国柳橋の料理茶屋「万八(まんぱち)楼」、万屋八郎兵衛方で飲食競(くら)べ会が催された時の記録(兎園小説)より。

  酒の部;

 

1位;

2位;
3升入りの杯で6杯半、芝口の鯉屋利兵衛(30)は「(1斗9升5合飲み)その座に倒れ、しばらく休息いたし、目を覚まして茶碗にて水17杯飲む」 。
3杯、小田原町の堺屋忠蔵(68)
  菓子の部;

 
1位;
2位;
 
饅頭50、薄皮餅30、羊羹7棹、茶19杯食べた神田の丸屋勘右衛門(56)
饅頭30、松風煎餅30枚、うぐいす餅80、タクアン丸のまま5本を、八丁堀の伊予屋清兵衛(65)
  飯の部;
 
1位;
2位;
味噌と香物付で茶漬け椀にて飯68杯、醤油2合を三河島の三右衛門(41)
同じく飯54杯、浅草の和泉屋吉蔵(75)。(この歳でそんなに喰うなよな)
  蕎麦の部
 
1位;
2位;
二八蕎麦(もり)中盛り、63杯、池之端の山口屋吉兵衛(38)
同じく、57杯、新吉原の桐屋惣左衛門(42)
  鰻の部;

 
1位;
2位;
 
代金にして1両2分相当、本郷の吉野家幾左衛門(75)
同じく1両1分2朱分、(51)
1皿200文として換算すると、1両2分相当は30皿になります。

 飯の部の醤油2合はご飯にかけて、味付けにして食べたのでしょうか。また、菓子の部のタクアン丸のまま5本というのも凄いですね。タクアンだけでもアッパレ、それも65歳ですよ、歯も達者だったのでしょう。

 この文化十四丁丑年三月大食い大会の模様は「文化秘筆」によると、上記のような文面の最後に、『此書付酒井若狭守様ノ御家来松本大七方ヨリ借写置候処、其後承候ヘバ虚説ノ由』。と記されています。
 そうなんです。ガセネタを江戸の文化人が実話だと思って書き写され広がっていったものなのです。底本、国立国会図書館にありますが、私は「未完随筆百種」第八巻 三田村鳶魚著の中から「文化秘筆」で調べました。
10年4月追記

 その14年後、天保2年(1831)に同じ万八楼で、162人集めて行われた。トップのみ列挙すると。

  飯; 飯20杯と酒2升、汁18杯。雷権大夫弟子の玉嵐竜太郎。
  丼飯; 18杯。追風弟子、宮戸川新蔵。
  鰻; 7貫、めし5人前。堀江町家主清水徳兵衛。
  蕎麦 42杯。市ケ谷町木具職、遠州屋甚一
  天麩羅; 340。新庄主殿家来、田村彦之助。
  大福餅; 320。永井肥前守家来、辻貞淑。
  汁粉; 32杯。神田三河町呉服屋、小松屋完七。
  いのしし; 15人前。両国米沢町、権次。
  油揚; 150枚。下谷御成道、建具屋金八。
  唐辛子; 3把(1把70房)。神田小柳町、車力徳之助。
  梅干; 2樽(1樽300個入)。深川霊岸寺前、石職京屋多七。
  みかん; 505個。桜田備前町料理屋、太田屋嘉兵衛。
  醤油; 1升8合。谷中の水茶屋、神谷伊兵衛。
  塩; 3合。清水家家来、金山半三郎。
  黒砂糖; 4斤。小梅小倉庵の若者、勇吉。(4斤=2.4kg)

 どれを見ても呆れて笑ってしまいますね。それ以後、天保改革で節約令が出た為、このばかばかしい遊びは終息に向かった。当たり前ですよね。
 落語「試し酒」で、下男の久蔵さんは、都合1斗飲んでいますが、いるんですね〜。

 この年の万八楼で開かれた大食い競争もガセネタだという説もあります。
永井義男氏「江戸の醜聞愚行」http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai4/nagai4-45.html にその辺の経緯があります。当時の文化人でも騙されるぐらいですから、現在の私たちは真贋の追求は闇の中です。黒に限りなく近い灰色ですが、貴方の判断にお任せします。 読者の指摘により解った事です。ご指摘ありがとう。


  舞台の称往院を歩く

 浅草にあった称往院・道光庵跡を訪ねます。浅草寺の西側の南北に走る道路を国際通りと言います。その先の南北に並行して走る道路が合羽橋通りです。この合羽橋通りは厨房関係の商品なら、店舗から看板、食器、冷蔵庫、包丁、蕎麦打ち道具、プライスカードに包装紙まで、何でもあります。この中央辺りに合羽橋交差点があります。ここは川を埋め立てて道路になった所で、江戸時代に川の水がさばけず良く水が出た所です。川の改修工事をしたが、なかなか完成せず、それを手助けしたのが河童です。今は川も橋もありませんが合羽橋と名前が残っています。
 話がそれそうなので、この交差点を浅草寺(東)方向に入って行った左手に称往院とその子院道光庵がありました。ここから東に進めば浅草寺、北に進めば吉原です。地の利が良い所にあったのです。
 商店街で見つけました。食品サンプル屋さんの店先にあった、サンプル商品の数々、本当にそっくりで食べたくなります。ギャグに握り寿司のセットを買いました。保冷しなくても痛まないのがグッドで 、子供に見せたら、パク ッてやりそうです。

 新宿から京王線で千歳烏山(ちとせからすやま)まで行きます。駅から甲州街道に向かって商店街を歩いていきます。国道20号線甲州街道を横切り、一方通行の寺町通りを行き、中央高速のガードをくぐり抜けると間もなく左手に称往院が見えます。烏山寺町と言って、ここまでは左右に寺づくしで、お寺の品評会の様相を呈しています。門前の右側に「不許蕎麦」と書かれた石柱があります。これが噂の蕎麦禁止令を告げる石柱です。今では一切蕎麦に関するものはありませんし、蕎麦を振る舞う事もないごく普通のお寺さんです。門前の左側には「宝井其角の墓標案内石」があります。当然、ここに芭蕉の高弟・宝井其角の墓があるのですが、この標石に道光庵の文字が記されています。

 ソバがどうしても食べたくなりますよね。え〜?そんな事ナイって!ま、ま、そんな事言わないで。深大寺蕎麦で有名な深大寺(調布市)が5kmと離れていませんので、木立の中で蕎麦を楽しむのも一考かと思われます。京王線調布駅下車バスで。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

極楽寺称往院(世田谷区北烏山5−9−1)本堂
本尊は丈六の阿弥陀如来。昭和2年烏山寺町に移転 。今は道光庵も、ソバの”ソ”の字もありません。入口右手の案内板を読まなければ、過日ここが「ソバ切り寺」であったことは誰も分からないでしょう。

極楽寺称往院門前
 山門右手に建つ「蕎麦禁断」の石碑。側面には「不許蕎麦」と大きく4文字が記されています。「ソバ切り寺」としての唯一残る石碑。

極楽寺称往院門前
山門左手に建つ、芭蕉の高弟「宝井其角」の墓標案内石。ここに道光庵の文字が読みとれます。

道光庵跡(台東区西浅草3−5付近
厨房機器屋さんや厨房関係の品物なら何でも揃うという、合羽橋商店街です。その中ほどの合羽橋交差点で、ここの奥に道光庵がありました。ここからは浅草寺も吉原も近かったので、蕎麦を食べてから御利益頂戴に出掛けたものです。

道光庵(荒川区西日暮里1−19)
江戸時代の道光庵と同じ名前で営業しています。美味いとの評判ですが、昼は2時までとの事、5分過ぎに暖簾をくぐったら断れてしまいました。で、味の方は分かりません。駐車場がないのでウロウロしないでね。

夜泣き蕎麦屋(江東区深川江戸資料館)
実物復元屋台です。屋号は”当たり矢”ではありませんが、夜の江戸の街を流していたのでしょう。 江戸では蕎麦が好んで食べられ、店での蕎麦屋や屋台の蕎麦屋が競争して蕎麦を提供していました。
担ぎ棒の所に下がっ
ている紙に「かつがないで下さい」とありますが、かつぎました。軽かったです。でも、ソバや湯が入ると重いんでしょうね。

                                                        2006年6月記

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