落語「お直し」の舞台を歩く
五代目古今亭志ん生の噺、十八番「お直し(おなおし)」によると。
花魁(おいらん)も歳を重ねてくると、どうしても若い者には負けてしまう。ある時、体を壊し、男衆の”ぎゅう”に親切にされると、ほだされて仕事どころか”ぎゅう”に入れあげてしまった。色街での男女の交際は御法度になっているが、そこは目の利くご主人だけあって、二人を奥に呼びだしてきつく意見をした。見世替えも出来ないだろうから、証文を巻いてあげるから二人一緒になってこの店で働きなさいと、優しい言葉を掛けてもらった。
二人は次の日から店に出て、花魁は名前が変わって”おばさん”となって、客と花魁の仲を取り持つ事になった。亭主は表で客引きをして、見世に入った客をおばさんが手玉にとって、持ち金を巻き上げて、一生懸命働いていた。見世で働き、見世で食べて、風呂にも入って近くに家を借りて生活していたら、小銭も貯まってきて、ゆとりも出てきた。女は生活に張りが出てきたが、男は逆にこの金で・・・、と別の場所で女遊びをするようになった。
夜遊びが過ぎて見世を休む事が多くなった。その挙げ句、バクチにも手を出して深みにはまってしまった。その為見世にも出ず、家財を売り払って、女房も義理が悪くなって見世も辞めてしまった。
今更、目が覚めたと言ったって、どうしようもないとこまで落ちてしまった。亭主は友人から羅生門河岸に空いた見世があるから、そこで稼いだらどうだと知恵をつけられてきた。
女房に話をすると、一文無しでは出来ないし、若い衆も必要だが・・・、それは俺がやるよ。けころの女は・・・、それはお前がやってくれ。私はあんたの女房だよ、それは出来ないよ。お前は元花魁だったから、回りの女から見れば掃き溜めに鶴だから出来るよと口説いた。客にはお愛想を言いながら、200文のところ「お直しだよ」と声を掛けて400文にし、またお直しと言って600文というように上げていくんだよ。あんたはそれが出来ないよ、だってあんたはヤキモチやきだから。仕事だから我慢もするといって、損料物を借りてきた。女房の方も見栄も外聞も捨てて、厚化粧して見世に立った。見世は羅生門河岸と言われるところで、路地を入ると両側に女が立っていて、戸板の入口と2畳の畳と土間があり、薄ぼんやりした中に引っ張り込んだ。冷やかしに通る客を腕を掴んで引きずり込むが、客も心得ていて、ひらりと体をかわして逃げていく。強引な女に手を挙げると、入口の用心棒が出てきて大変な事になってしまう。そのなかの一つで商売を始めた。
路地を酔っぱらいが気持ちよさそうに入ってきた。するりと逃げられたが、何人目かの職人をタックルして連れ込んだ。
「お前さんは手が冷たいんだから」と、手を暖めてあげながら「隣で浮気ナンぞをしたら嫌だよ。お前さんが好きだから。」
それを聴いた亭主は表でふてくされている。ヤキモチ焼いて「お直しだよ。直してもらいな」。
「直して頂戴。私はお前さんと夫婦になりたいよ。」、「俺は良いよ。俺は一人もんだから。で、どの位借金があるんだ」、「30両」、「その位なら今度来る時、持ってきて上げるよ」。
「お直しだよ」。
「分かったよ」、「私はお前さんにぶたれたって、蹴飛ばされたって平気だよ」、「俺はそんなことしないよ。なぜてあげるだけだよ」。
「直してもらいな」。
「お直しだよ」、「分かった。今度はあさって来るからな」。「ど〜ぉ、あのお客、酔っていたけどさぁ」、「てやんでぇ・・・、やめた。こんな商売。どこに借金があるんだ。それに、あの男の為なら『命はいらない』なって言うんだな」、「ヤキモチ焼いて、だから私はやりたくないと言ったんだよ」、「本当にお前はそう思っているんだ。もうやりたかぁないや」、「だったらいいや、私だってやりたかないよ。おまえがやろうと言ったから始めたんじゃないか。人の気も知らないで。人に苦労ばかりさせやがって」と泣き声になってしまった。
夫婦がやりとりしているところに、先ほどの酔っぱらいが戻ってきて、中を覗いて、
「直してもらいな」。
1.羅生門河岸(らしょうもんがし)
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吉原大門を入って右手奥が西河岸又は浄念河岸、反対の左手奥
、東河岸を羅生門河岸、
花魁のレベルは落ちるが、お安く初回から簡単に遊べる見世が並んでいました。特に羅生門河岸と言うのは、志ん生も噺の中で言っていますが、ここを通ると強引な客引きに腕を取られ、袖をちぎってでも店に引きづりこまれるところから言われ、西河岸から比べても最下等。お客を蹴飛ばしてでも入れようとするから「蹴転(けころ)」とも呼ばれました。
大見世に行く連中の取巻き連中が時間をつぶすのにつかわれていた。武家でも主人が大見世で遊んでいる時に、下僕が遊ぶ場所でもあった。
名の由来は、源頼光の四天王の一人、渡辺綱が羅生門で鬼の片腕を切り落としたという故事に基づき、素見(ひやかし)の客の腕を無理に引き、時には着物の袖をもぎとるところから、羅生門河岸だという。
絵図;「羅生門河岸けころの百文局」。見世は火災予防と行灯の油節約の為、2部屋で共用としている。隣との境は襖1枚。入口の引き戸は客が入るとすぐに鍵をかけた。色道三津伝より。
2.けころ
けころは「蹴転」「稽古路」「毛娯呂」などと書き、簡単に男と寝る素人風の女性のこと
。また客の誰とでも寝る「転び芸者」から由来したとも言われている。江戸のあちこちにこの名で呼ばれる遊女や遊所が散在しているが、享保(1772〜36)中ごろの上野山下がその発祥の地であるらしい。上野東叡山の下にあるから「上野山下」で、この辺り一帯は東叡山の火災予防地として広大な空き地が広がっていた。ここに必要な時にはすぐに立ち退くという条件のもと、見世物小屋や飲食店などが立ち並び、花見や祭りの時などは大いに
賑わいを見せた。
けころの最盛期は安永・天明のころ(1772〜89)で、「山下はどちらを見てもよりなんし」と、上野広小路や御徒町入り口などを中心に九箇所に、107軒もの遊女屋が乱立し、1軒に2,3人の茶汲女が春を売ってい
た。茶屋女なのて前飛れを付けて座っており、「山下の前垂れ」といえばこのけころを指す。
揚代はちょんの間で200文程度。泊まりでも2朱(500文)と割安。ただし、お上への体裁を繕うため、客は必ず酒食をするのが決まりだった。しかし200文も出せば酒が3〜4升買えた時代で、ここではお銚子が1本200文と目の玉か飛び出すほど高い。結局は単純に
200文で遊ぶこととなるのだ。うかうかと女と酒を飲んでいて、2本目のお銚子が出てくるとこれが「直し」で料金も倍額となる。しかし天明7年(1787)ごろには火事、地震、水害などの災害か続き、米の不作で米価が上がり、これにより揚代200文についていた酒を出さなくなったという。
けころには年増もいたが若い娘もいた。こういった娘は特に人気で、最高1日15,6人も相手をしていたという記述があるから驚きである。それだけ相手をするのだから、ここも時間区切りのちょんの間方式であったことがわかるし、一切(4時間)単位では追いつかないから、線香の火を灯して燃え尽きるまで、といったあわただしい遊び方をしていたのではないだろうか。線香の火は店番の主人などが点けるのだが、これも密かに折って短くし、ハイお直し、などと時間をごまかされることもしばしばあった。
とはいうものの、けころ買いには吉原に行くときのような堅苦しさもなく、普段着でちょっとそこまで、といった気軽な遊びができた。しかも裏口から入ったり、水茶屋や料理茶屋の抜け道から行くことかできたり、普通の商店街の裏口づたいに入ることができた。毎月3日と18日は上野両大師詣の日である。この日は「信心と浮気が五分の両大師」と、参拝ついでにけころを買いにくる男も大勢いたという。寛政の改革(1787〜93)により山下のけころは取り払いとなるが、その後上野両大師詣の参拝客が激減したというからその影響力は計り知れないものがあった。
「お江戸吉原草紙」 田中夏織著より
以後このけころはいなくなります。
羅生門河岸の”けころ”とはレベルが違うのがよく分かります。浮世絵にも描かれた美女達もいます。
また、上野山下以外にも、深川八幡の御旅所、竹町(山下)、長者町(御徒町)、下谷御数寄屋町(池之端)にもあった。他にも仏店(山下。竹町隣)、浅草堀田原、広徳寺
(下谷)にあったとの記述もあります。
蕎麦は16文(現在500円として)でしたから、それから換算して、けころの相場200文
だと現在6000円、ちなみに夜鷹といわれる街娼24文は、現在いませんが750円位にあたります。
3.吉原の言葉
■ぎゅう;妓夫(ぎゆう=はしょって「ぎゅう」、牛太郎=若い衆)。客引き。客引きの若い衆
。遊郭の若い衆(使用人)。小見世では客引きなどをする見世番。歳を取っていても”若い衆”と言う。
「宵に格子ですすめた牛(ぎゅう)は、今朝はのこのこ馬になる」
ぎゅうは朝になって、散在してお金が足りなくなった客に、料金取り立ての為付いて行く者を馬と言った。
■おばさんor遣り手(やりて); 志ん生は「”やりて”と言うがお金を欲しがってばかりいるおばさんだ」と、言っています。お客と見世との間に立って料金、花魁等の世話をします。
■お見立てとひやかし;遊郭で花魁を吟味(お見立て)するのに、窓格子から中を覗いて見て回った。また、店に上がらず見て回るだけを”ひやかし”と言った。
■花魁(おいらん);見世の女子。娼妓。女郎。
語源;妹分の女郎や禿(かむろ)などが姉女郎をさして「おいら(己等)が」といって呼んだのに基づくという。
江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。
落語家は、花魁は客を騙すから狐狸のようだと言います。でも尻尾がないから、「お_いらん」だと。
■見世替え;他の見世にトレードに出すこと。
■証文を巻く;借金の証文を巻く。借金を棒引きにする。
■羅生門河岸の見世;志ん生は噺の中で次のように話しています。「見世は羅生門河岸と言われるところで、路地を入ると両側に女が立っていて、 入口は戸板が2枚立っていて、一枚が開け放たれ、中は2畳の畳と土間があり、薄ぼんやりした中に引っ張り込んだ。冷やかしに通る客を腕を掴んで引きずり込むが、客も心得ていて、ひらりと体をかわして逃げていく。強引な女に手を挙げると、入口の用心棒が出てきて大変な事になってしまう。そのなかの一つで商売を始めた」。
吉原の言葉については、第23話「付き馬」でも解説しています。
舞台の羅生門河岸を歩く
吉原は四角の敷地の中に作られていて各頂点が東西南北にあります。ですから各辺は東北、南東、南西、北西に面しています。
吉原の正面(大門)を入って左に曲がった突き当たり、昔お歯黒ドブがあって外の世界と隔絶されていましたが、今は埋め立てられて花園通りとなりました。花園通りは吉原の南東に面しています。その花園通りの一歩手前の路地が羅生門河岸と言われた所です。
吉原に出掛けました。写真からも分かるように昼の真っ只中です。吉原の歓楽街は24時間無休で営業しています。写真を撮るのにも客引きの”若い衆”がこちらを見ていますし、呼び込まれそうで、断る事を知らない私ですので、写真は 表通りから路地の中を覗きながら撮っています。今は羅生門河岸のすさまじさは感じられませんが、袖を引かれそうですし、ひらりと避ける自信もありません。
早々に引き上げ、上野・山下に移動です。JR上野駅の西側は上野の山と言われ、小高くなって東叡山寛永寺の寺領でしたが、上野戦争と言われる、明治政府軍と旧幕府軍の戦いがあって、根本中堂、本坊等の大部分の堂塔伽藍は焼失してしまいました。その後に美術館、博物館、噴水公園や動物園が建てられました。
上野駅の北側にこの噺に出てくる「両大師堂」が公園の外れに有りますが、ここの黒門は寛永寺の山門でここに後年移築されたものですが、上野戦争の激しさを物語るように、扉には砲弾や鉄砲の弾痕が着いています。小指くらいの穴が何カ所か空いています。ここの縁日は今でも毎月3日です。
この上野の山の東下に出来た上野駅は、明治16年(1883)7月営業開始しています。ですからそれ以前は寛永寺の子院が軒を並べていました。その子院の東側と南側が上野山下と呼ばれた所です。狭義には上野駅正面辺りです。
ここ山下から御徒町に抜ける裏道に多くのけころがいたのでしょう。この道筋は有名な”アメ横”街です。
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2006年5月記
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