落語「助六伝」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円楽の噺、「助六伝」(すけろくでん)によると。
 

 日照山不退寺易行院いわゆる「助六寺」の息子である円楽が実家の過去帳から史実に基いて人情噺を創作した助六伝。
 助六のモデルになった2人の墓がこの助六寺にあるという、由緒あるお寺である。六代目の市川団十郎が助六塚を建立。

 吉原で十年の年季奉公が済んでお礼奉公もあと三月を残すだけとなった花魁の”小糸”のもとに通う馬道の親分まむしの意吉。いくら通っても色よい返事がもらえない意吉。聞けば小糸が二世と交わした好(いい)人は、二の腕に”助七”と彫られた名前の男。花川戸の下駄問屋麒麟屋の下駄職だという。
 悪巧みの、まむしの意吉は助七を落とし入れようと、助七が小糸の嫁入りの所帯道具のたしにでもと、友達にそそのかされて橋場の清吉親分の賭場で悪さをしているというのを小僧から聞き出した。助七を賭場からしょっ引いて役人に突き出し小伝馬町の牢屋へ入れてしまう。 賭場の勝金十数両をまむしの意吉に横取りされたので、この牢名主に付け届けが無いと睨まれ、決められ、殴られ体中あざだらけ。小糸に逢いたさに我慢したが、とうとう六日目の明け方に息を引き取ってしまった。
 亡骸は母親のもとへ。嘆き悲しみにくれるが、近所の親切な桐生屋で飯炊きをさせてもらい暮らしていく事になった。
 そうとも知らず、年季があけて小糸は、心が宙を飛ぶように花川戸の助七の所へ。
こちらが助七さんのお宅でしょうか?おっかさんでいらっしゃいますか?私小糸と申します。

 助七と夫婦になると言った小糸さんですね。・・・こういうようなわけで、もう助七はいないんですよ。
助七さんにとって母親なら、私にとっても母親です、どうか娘だと思ってこの家に置いて下さい。
  私の方こそ、ということで、桐生屋へ小糸を連れて行き、ご飯焚きの仕事を母親に変わってやらせてもらった。母親は隠居する。
  気立てのよい小糸はそつなく働き、そのうちに助七のお墓を建てることができた。
  そうこうしているうちに母親が、はやり病でぽっくり、同じ墓に入れてお弔いをすませて、今日は四九日の墓参り。と、まむしの意吉が現れて、もう一人身なんだから、どうだ俺と所帯を持たないか、一度見込んだらおれはあきらめね ぇよ、と詰め寄る。
  どうか百ヶ日まで待って下さいとその場を逃れる。どうしたらよいだろうと思っているうちに、はやくも百ヶ日がきた。晴れ着を着て小糸はお墓の前に行き、約束通り、お前さんのそばに行きますよと、カミソリで自害、墓にもたれかかった。和尚が飛んできたが、あたりは血の海、野次馬が山のようにやって来た。
  「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」という、そんな世の中でこんなに誠と真実のある花魁がいるのかとこれが瓦版となって江戸中の評判になったという。

 これを受けて、戯作者が筆を執り、助七を助六、小糸を揚巻と直し、悪役まむしの意吉を髭の意休とした。その後、助六は曽我五郎で、源家の重宝「友切丸」を探すための行状だったと、話は発展した。正月興行で、市川団十郎が大成功を収めた。

 芝居の助六の絢爛豪華な舞台の裏で事実はかように悲惨な物語であったという。
題して「江戸桜心の灯火」の一席。実績助六伝の一節でございます。

 


 
1.花川戸(台東区花川戸)  花川戸と言えば花川戸助六を思い起こさせる。花川戸公園(花川戸2−4−15)内に「助六歌碑」がある。高さ2.5m位幅30cm位の石碑。その脇の説明 (台東区教育委員会)によると、

 

碑面には
 「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
 歌碑は、明治12年(1879)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺下谷の仰願寺(現、清川1−4−6)に建立した。大正12年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶半治郎」、碑裏に「昭和33年秋再建 鳶花川戸樋田」と刻む。
 歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳3年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保3年(1832)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町)に墓が有る。

浅草花川戸
 「花川戸」という言葉には江戸の臭いがプンプンする。「江戸八百八町に隠れのねえ 杏葉牡丹の紋付も桜に匂う仲の町、花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若いもの間近くよって面像おがみ、カッカッ奉れえ」と、威勢のよい歌舞伎一八番『助六』の口上である。気っ風のいい伊達男の標本とでも言うべき助六が住んでいたのがこの花川戸だ。また江戸の侠客で旗本の水野十郎左衛門と張り合って、だまし討ちにあった幡随院長兵衛もこの花川戸に住んでいた。明治19年に下谷区と浅草区が出来たが、幡随院のある神吉町は本来下谷区であるべきところが、幡随院長兵衛は浅草でなければサマにならないと言うので浅草区になったとも言われている。花川戸は浅草を象徴する土地柄といえる。
(台東区ホームページ)

 花川戸は履物の街です。「悋気の火の玉」で出てくるご主人橘屋さんという鼻緒問屋もここ花川戸にありました。主人公助七もここの下駄問屋麒麟屋の下駄職人として働いていました。

■助六

 歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は、「勧進帳」と並んで最も人気の高い狂言で、歌舞伎を代表する狂言の一つです。ところで 舞台の「助六」とは、実像ではない歌舞伎の中の彼を”粗筋”から見ると、
『花川戸の助六という侠客は、毎夜吉原でけんかを売って相手の刀を抜かしている。助六は実は曽我五郎で、源家の重宝「友切丸」を探すための行状だった。吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、全盛の花魁で、助六といい仲である。髭の意休は子分を引き連れ吉原に通い、権力と金をかさにきて威張り、揚巻に言い寄ってくるが相手にされない。意休は助六を罵倒し、図に乗って自分の刀で香炉台を切った。助六はこの刀こそ「友切丸」と見届け、意休を討ち果たして刀を奪う。捕手に追われた助六は、天水桶の中に身を隠し、揚巻の助力で吉原から逃れた。』
第40話落語 「悋気の火の玉」より  写真:江戸東京博物館にて撮影

実在(?)の助六
 ◇其の一 
暁雨が吉原・總角(あげまき=揚巻)の所に通ったのではなく、吉原・三浦屋の遊女松ヶ枝のところに通った。その時のごたごたが狂言になった。暁雨が助六になった。
 また、花川戸に助六という男がいて、伊達男であったが悪者の為、後にお仕置きになったとも言われる。

 ◇其の二 享保年間、野州佐野の百姓次郎左衛門が、吉原・大兵庫屋八ッ橋のもとに通い詰めていた。しかし八ッ橋にはマブがいて思うようにはならなかった。翌朝、八ッ橋がマブを送り出したが、茶屋に残っていた次郎左衛門を見つけて2階に上がったが、脇差しにて首を打ち落とされてしまった。屋根をつたって逃げる次郎左衛門を下から水を掛けて屋根から滑り落ちたのを捕らまえた。

 ◇其の三 京都の万屋助六が島原・扇屋の揚巻と懇意になった。見かねた親が手切れ金千両を渡し勘当した。揚巻をこの金で身請けして家庭を持って一子をもうけたが、意有って、子を親の門口に捨て、二人は心中してしまった。ここから浄瑠璃「万屋助六」、「大阪千日前心中」等ができ、歌舞伎では宝永3年「助六心中紙子姿」、「京助六心中」が上方で上演され好評を得た。この話が後日、江戸に入って、今の花川戸助六になった。生粋の江戸っ子助六と思われていたが、実は上方出身であった。

 どの話も、真実性が乏しく、と言うより歌舞伎の方が有名になりすぎて、史実がぼやけてしまった。


2.
易行院(いぎょういん) 浄土宗日照山不退寺易行院  足立区東伊興4-5-5(旧地名;伊興町狭間877
 文亀2年(1502)の創建と伝わる。浄土宗。昭和初年、浅草から移転。助六の塚の碑、助六と揚巻の比翼塚がある。 ご存じ円楽の実家です。

 関東大震災後、昭和3年(1928)、浅草・清川一丁目より移転してきました。本堂左側手前に六地蔵尊が並んでいますが、その後ろに歌舞伎で有名な「花川戸助六と愛人揚巻の比翼塚」があります。助六と揚巻の仲の良さから、この塚に参ると良縁成就などの功徳があるとされています。「助六縁 (ゆかり_の)江戸桜」は市川家代々の当たり狂言で、七代目市川団十郎は文化 9年(1812年)に碑を建て、助六160年忌法要を営み、九代目が明治になって、大法要を営んでいます。助六の比翼塚は有形文化財(足立区)に指定されています。
 文化年間(1804-1818)の過去帳には、「西入浄心信士 俗称戸沢助六 承応二歳己二月十一日死ス 志厚之有施主 七代目市川団十郎 無縁ヲ弔 墓所造立シ永追福経営施主」と有ります。

(足立区教育委員会案内板より)

 円楽は話の中で助六は助七だと言っていますが、上の説明では助六は戸沢助六として過去帳に載っていると説明されています。

 

3.小伝馬町(こでんまちょう)の牢屋 十思公園内時の鐘(中央区日本橋小伝馬町1−5)
 水天宮通りの小伝馬町交差点を通り過ぎて、最初の路地を左に曲がり、すぐ右側に十思公園がある。この一角に新しく作られた現代的な二階建ての鐘撞堂が目に入る。その中(上階)に当時の鐘がつり下がっている。 (鐘は都の重宝に指定)
  ここは元、伝馬町牢屋敷跡で、この公園と隣の元、十思小学校(現在は廃校になり区の十思スクェアになっている)及び南側にある身延別院、安楽寺、瑞法寺がその敷地であった。この三寺院はここで処刑された刑死者の鎮魂とこの土地の平安のため、明治になって建立されたもの。
 この牢屋敷は慶長年間(1596〜1615)にこの地に開かれ、200数十年間続き、明治8年(1875)5月に廃止された。 敷地は広大で2千6百坪(約8600m2)で、その回りに堀を巡らしその南西部に表門があった。獄舎は揚座敷、揚屋、大牢及び女牢に分かれていた。明暦3年(1657)には130人の囚人を収容していた。安政大獄(1859)には吉田松陰ら90余名が投獄され、ここで処刑されている。
(落語第12話「時蕎麦」より)
 

4.橋場(はしば)
 助七が清吉親分の賭場でバクチをしていたところ。隅田川に架かる白髭橋西側下流に位置する町です。その南が今戸、浅草、花川戸と続きます。
  橋場は江戸時代から根岸と並んで風流で雅趣に富んだ土地柄で、大名や大店の寮(別荘)が隅田川河岸に並んでいた。江戸名所図絵にも「都鳥ノ名所ナリ」と描かれ、付近の浅茅が原には水鶏が多く棲んでいた。
  また今戸から橋場にかけては有名な料理屋が多かった。橋場の柳屋、今戸橋の有明楼、吉野橋の八百善などは高級料理屋として、華族や文人などが出入りしていた。
  維新後もこの土地柄は続き、皇族.華族や財界の大物の屋敷が建ち並んでいた。川沿いの今戸方面から北へ、細川護成、大河内子爵(高崎藩主)、小松宮彰仁親王、郷誠之助男爵(日本商工会議所会頭)、有馬頼寧伯爵(久留米藩主)、三条実美(太政大臣)などの屋敷がずらりと並んでいた。

(台東区説明版より) 第110話「江島屋騒動」より孫引き

 

5.馬道(うまみち) 
親分まむしの意吉が住んでいたところ。
  
「馬道」という町名は相当古くからあり、すでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣にあったのが北馬道町である。享保15年(1730)には二天門の右手に南馬道町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺門前街として発展したが、明治10年(1877)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和9年(1934)さらに浅草馬道町は隣接するいくつかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。
 町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。
(台東区の案内板より)落語「付き馬」でも説明。

 


  舞台の易行院を歩く

 前々回「塩原多助一代記」で足を運んだ足立区伊興町です。その時は東陽寺に塩原太助の墓を訪ねましたが、奇しくも隣の易行院です。こちらには助六の墓があるとの事です。
 ここでハッキリさせておきます。助六の墓はありません。がっかりしないで下さい。ましてや、母親の墓も現存していません。震災の時のどさくさで分からなくなってしまったのでしょう。お寺の過去帳に記されているのは”助六”で、助七ではありません。また、ここにあるのは助六とあげ巻(
揚巻)の比翼塚です。これは歌舞伎役者七代目団十郎(裏に成田屋と刻まれている)が建立した物で、舞台の主人公の名前で造られています。

 この比翼塚は一枚石板に、右側助六、左側にあげ巻の名が彫られています。本体は真っ黒で上部が欠けています。これは関東大震災の火炎に焼かれて黒くなったもので、その時上部が欠けたものです。その時上部が欠けたのは嘘で、本当はこの墓石を参拝者が欠いて持って行ってしまったのです。両国の回向院には鼠小僧の墓がありますが、ギャンブルに勝つようにとお守りとして墓石を削って持っていきます。段々痩せて、また新しい墓を建てます。話戻して、ここの比翼塚は助六と揚巻の仲の良さから、この塚に参ると良縁成就などの功徳があるとされていますので、少しずつ削ってしまったので、今のような形になってしまったのです。この比翼塚も初代ではなく二代目、または三代目の様です。

 比翼塚の隣にあるのは「助六の塚」と彫られた石碑です。九代目団十郎が施主になって建立したものです。
 その前に並んでいる六地蔵は助六地蔵のように一体化されているようですが、お寺で聞いたところ全く関係ないとおっしゃっていました。

 イメージを壊して申し訳有りませんが、過去帳と、お寺さん側の話を総合すると、円楽師匠の「助六伝」はたぶんに創作された筋書きのようです。

 

地図

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写真

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易行院(足立区東伊興4-5-5)
本堂。三遊亭円楽の実家。比翼塚は本堂の正面左側にありますのですぐ分かります。

「地蔵」(易行院本堂横)
屋根の下に六地蔵が並んでいます。その奥(2列目)に「比翼塚」と「
助六の塚」が並んで建っています。

助六の塚易行院本堂横
写真の右側が助六・あげ巻の「比翼塚」。関東大震災で黒く焼かれて、上部は欠けています。中央が
九代目団十郎が奉納した「助六の塚」です。
助六に関しての碑や塚はこの2基だけで、墓は有りません。

履物問屋街発祥碑(台東区花川戸公園内)
浅草寺の東側、
花川戸公園の中に建っている碑です。ここら辺一帯が履き物でなりたっている街で、今でも下駄草履から靴まで製造販売している店が多くあります。

                                                       2005年12月記

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