落語「鰻屋」の舞台を歩く
古今亭志ん朝の噺、「鰻屋(うなぎや)」(別名;素人鰻)によると。
酒好きの留さんがボッートしているので、兄貴分が飲みに連れて行くというと、あまりいい返事が返ってこない。
聞くと、先日半公が同じ事を言ったので、付いて行く事になった。電車に乗って田原町まで行って、歩き始めると寿司屋があった。「好きか。それなら後にしようか」と言って、素通りし天麩羅屋の前まで来てしまった。「天麩羅は好きか。それなら後にしよう」と同じ事を言って素通りしてしまった。焼鳥屋も同じように通過して、デンキブランが有る前まで来ると、入るかと思ったら、スーッと信号を渡ってしまった。ぶつぶつ言いながら吾妻橋を渡り、それでも酒を飲ませてくれると思って付いて行くと、正面のビール会社には入らず左に曲がって、土手伝いに行って左に曲がり、土手下に出た。「好きなだけ呑め、この川の水が特級酒の”隅田川”だと思って呑め。」、悔しいから3杯飲んでしまったが、その後腹の調子が良くない。
そんな事ではなく、カドに新しく出来た鰻屋で、一杯いこう。金はないが、こないだ、そこで飲むと香々とお酒が互い違いに出てきて、文句を言うと若い衆が出てきて「どうしても鰻が食べたいですか」と言ったので、当たり前だ、と言うと丸焼きの鰻が出てきた。文句を言っていると主人が出てきて「職人が出掛けて鰻が割けません」と言う。帰るからお勘定というと、鰻も出せなかったのでお代はいりません、と言う事でタダで帰ってきた。だから、そこに行こう、今日は職人が居ないから。
店に行くと、職人が居ないから、後で寄ってくれと言う。今食べたいからと、入り込んで鰻を見たが、ヌルヌルしてつかめない。ヌカをたっぷりかけて再挑戦したが、鰻はなおも逃げるので手を前に前に出して押さえ込むが掴まらない。鰻の行く方に歩き出し、玄関を出ようとするので、「おいおい、何処に行くんだ。」
「前に回って鰻に聞いてくれ」。
1.題名「素人鰻」と「鰻屋」
桂文楽の「素人鰻」は鰻屋の主人と鰻割の職人を中心に、店側から見た鰻屋の騒動を描いていますが、この噺は舞台は同じなのですが、お客側から見た設定になっています。オチは当然同じになります。古今亭、柳家はこの筋書きで進みます。ですから、志ん生も小さんもお客の立場で話が進みます。
どちらの噺も「素人鰻」との題になりますが、混同するといけないので、今回の噺を「鰻屋」とする事もあります。<落語の舞台を歩く>では過去に桂文楽の第24話「素人鰻」で歩いていますので、今回
、題で混同する事を避けてここでは「鰻屋」としています。
2.田原町
「電車に乗って田原町で降りた。」、ここで言う電車とは路面電車=都電のことです。都民の足と慕われていた都電も交通渋滞の元凶であると言う事から昭和50年前後に順次廃止されてしまった。今は専用軌道を走る荒川線1系統が早稲田と三ノ輪橋間を走っています。最近省エネとか低公害だとか言われ、復活の声が挙がっていますが難しいでしょう。
もう一つの電車とは地下鉄です。東京で一番古い銀座線が、上野−稲荷町−田原町−浅草と走っていますが、地下鉄と断りが入らなければ、都電を指します。当時都電は料金も安く、網の目のように走っていたので都民の足でした。
今の料金で、地下鉄上野−田原町 160円。
都バス 全線200円。
都電 全線160円。
各噺家さんによって、歩く道順が違っています。田原町から歩き始めるのは同じですが、志ん朝さんのように表通りを歩いて吾妻橋を渡る場合と、柳好さんのように浅草の中を歩いて、橋を渡る場合もあります。志ん生さんも時間によって、歩く場所が省かれる事もあります。
吾妻橋を渡って、直ぐに隅田川に降りる志ん朝さんと、一番遠くまで歩いて言問い団子で隅田川に降りる志ん生さんのようにまちまちです。
でも、田原町から歩き始めて、吾妻橋を渡って隅田川の銘酒(?)を飲むのは同じです。
3.鰻(うなぎ)
ウナギ科の硬骨魚。細い棒状。産卵場は、日本のウナギは台湾・フィリピン東方の海域、ヨーロッパ・アメリカのウナギは大西洋の中央部の深海。稚魚はシラスウナギ・ハリウナギなどと称し、春に川に上り、河川・湖沼・近海などに生息。また養殖も、浜名湖など東海・四国地方で盛ん。蒲焼として珍重、特に土用の丑の日に賞味する。(広辞苑)
■蒲焼き;焼いた色が紅黒くて、カバノキの皮に似ているから樺焼きであるとか、鰻を焼いた時、その香りが実に早く匂うので香疾(かばや)焼きと言われた。この両説とも間違い。鰻の蒲焼きは、昔、鰻の口から尾まで竹串を刺し通して塩焼きにした。この形が、蒲(がま)の穂に似ているから蒲焼きと言ったものの訛りである。(食べ物語源辞典・清水桂一編)
■鰻屋;江戸の名物に、「寿司」、「天麩羅」と「鰻」があった。江戸前の海で捕れるから鰻を江戸前と言った。江戸前と言えば鰻の事で、時代が下がって、東京湾で捕れたどんな魚でも江戸前というようになった。蒲焼きにして売られ、天明の末頃には蒲焼きにご飯を付ける「つけめし」が始まった。文化ごろに鰻丼の前身の「うなぎめし」が大野屋から売る出された。
この鰻飯は、芝居勧進元の蒲焼き大好きの大久保今助という男が、冷たい蒲焼きはまずいので飯の間に挟んで持ってこさせたのが起源だと言われている。これを「中いれ」と称し、大野屋では64文から売り始めたが、100文、200文(職人の手間が470文の時代)の高級品も出来るようになった。寛永元年には90軒の蒲焼き店を紹介しているが、すぐに200店を越えるようになった。
今も行われている、「丑の日の鰻」は、文政の頃からの文献に見える。神田和泉橋通り春木屋全兵衛の店が「丑の日元祖」を称している。(江戸学事典・弘文堂より要約)
上図;「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より
■土用の丑の日の由来;「土用の丑の日」というと江戸時代の学者兼コピーライターとして有名な平賀源内が、あまりはやらない鰻屋を繁盛させてやるぺく、その店の入口に、「本日土用の丑の日」と大書したところ、大変に人の注意をひいて客が集まったという話が有名です。
同じような説に、狂歌師大田南畝(なんぽ)(大田蜀山人)が「神田川」という鰻屋に頼まれ、「土用の丑の日に、うなぎを食べたら病気にならない」という内容の狂歌を作って宣伝したという説もある。
信憑性のある説として、文政年間のある夏のこと、神田和泉町通りの鰻屋「春木屋善兵衛」のもとヘ藤堂という殿様から大量のウナギ蒲焼の注文がきた。何しろ大量なのでとうてい一日では作れない。というところから春木屋では、その土用の子の日と、丑の日と、寅の日の三日にわたって蒲焼を焼き、それを土がめに入れて密封し、その一つ一つに日付けをつけ、床下に貯えておいた。納品の際、封を切ってみたところ、丑の日の分だけ悪くなっていなかった。そんなわけで「土用の丑の日」なる言葉は、この春木屋善兵衛の蒲焼の逸話に発しているという解釈。
ものが腐りやすい暑い夏の日でも鮮度を保った土用の丑の日の鰻が夏負け防止に効くという所に平賀源内の逸話より説得力があるように感じます。源内は宝暦年間に生きた人で春木屋善兵衛より50年も時代が前の人です。
どちらにしても、夏の鰻はやせて脂ものっていませんので味は落ちます。秋口になって、鰻も夏負け(?)から回復した頃は、味が乗ってきます。食べるなら、その頃からでしょう。
4.香々(こうこ)
(コウコウの下のウの脱落) こうのもの。漬け物。(広辞苑) 香物。お香香。
香物;匂いの高いものということで香物とよぶ。奈良期時代に漬け物が始まる。香(か)は気甘(きあま)、あましは、あーうましの意。香物は、旨い匂いを持った食べ物の意。大根、瓜、などを味噌の中に漬けて味噌の香気を移したものという説があるが、塩、味噌、酒粕などに漬けた野菜で、匂いのある物を香物という。(食べ物語源辞典・清水桂一編)
鰻屋ではお客さんが店先で生きた鰻を吟味して、「これ!」と指名したものを料理して提供しました。その為、料理が出てくるまで時間が掛かるのは当たり前であった。料理が出てくるまでのつなぎとして、鰻屋自慢の香物を提供しました。
この香々が鰻屋の看板にもなっていました。
いくら気の短い東京っ子でも、鰻屋に来て催促しては無粋者と軽蔑されてしまうので絶対しなかった。主人公も、その辺は承知していたが、あまりにも遅いので、催促すると香物と酒が交互に出てきて、メインディッシュの鰻が出てこないのに腹を立ててしまった。
5.デンキブラン
デンキブラン今昔
神谷バーにデンキブランと名付けられたカクテルが登場して、およそ百年の歳月が流れています。
その間デンキブランは、浅草の移り変わりを、世の中の移り変わりをじっと見てきました。ある時は店の片隅で、またある時は手のひらのなかで ― 。
電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと”電気○○○”などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。
それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです。
デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。
あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気でした。ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン<オールド>は40度です。
大正時代は、浅草六区(ロック)で活動写真を見終わるとその興奮を胸に一杯十銭のデンキブランを一杯、二杯。それが庶民にとっては最高の楽しみでした。もちろん、今も神谷バーは下町の社交場。
仕事帰りの人々が三々五々、なかには若い女性グループも、小さなグラス片手に笑い、喋り、一日の終わりを心ゆくまで楽しんでいます。時の流れを越えた、じつになごやかな光景です。
(神谷バー、ホームページより) |
舞台の浅草を歩く
田原町交差点から雷門通りを雷門、吾妻橋に向かって歩き始めます。田原町交差点という表示は何処にもありません。昭和の後半に住居表示が変わって、当時の言い方が今では通じないようです。この交差点に有る交番が「田原町交番」ですが、2〜3年後には廃止になるとの事です。これで、田原町交差点の表示は何処にもなくなってしまいます。
道路の左側、アーケードの下を歩きます。間もなく(直ぐに)「すしや通り」が見えます。ここを左に曲がると、左右に良くもこんなに寿司屋さんが集まったものだと言うほど、寿司屋、寿司屋、の行列です。留さんだってこの中のどこかで一杯飲めると思った事でしょう。
曲がらず真っ直ぐに行きます。焼鳥屋さん「鶏よし」が見えます。通りに向かって炭火の上で焼き鳥を焼いて、その煙と匂いがたまらなく、通過するのが苦行な位ですが、ここは品良く煙もありません。
雷門通りには焼き鳥専門店はここだけです。
その先、天麩羅屋の「葵丸進」が現れます。天ぷら油の香ばしい香りが歩道まで匂ってきます。あまり嗅いでいると油酔いしそうです。ここも店先を通過します。
前に落語「猿後家」ですき焼きを食べに行った「ちんや」はその数軒先です。ちんやの前を通過すると雷門の前に出ます。人力俥の呼び込みと、カメラマンの間をすり抜けて、ホッとしたところが天麩羅屋「三定」です。ここの天麩羅屋さんもお土産の小売りをしています。
雷門通りの終点カドに「神谷バー」が有ります。デンキブランで有名ですので、そのブランデーや、コップが売られています。バーと言っても、何でも屋食堂ですので、洋食から和食まで何でもあります。決して、
カウンター越しにホステスさんが居る薄暗い飲み屋を想像すると大間違いです。子供連れや家族連れで入る店です。
田原町交差点からここまで、約500mです。
あっと!半公は慌てて前の交差点を渡りました。慌てて渡らなくても良いだろうと言うと、「故障してズーッと赤だったら、ここで歳を取ってしまう」。ホントは違うんですよ。留さんはウインドーのサンプルをヨダレを流しながら見ていたのですが、半公は
浴衣の娘さんが前を歩いていたから、そのお尻に付いて行っただけなんです。
浴衣の娘さんは浅草によく似合う。
吾妻橋に出て、正面のアサヒビールを見ながら橋を渡ります。当然そこのビアホールに入るだろうと誰しも思います。この暑さですからビールは旨いでしょうね。留さん同様、喉が張り付くような感じを受けます。あらら、橋を渡ったら信号を渡らずに、するりと左に曲がってしまいました。この先は隅田公園になって桜の季節以外屋台も出ていないので、何処で飲ましてもらえるのか心配になってきます。
右手の小さな公園(?広場)には最近出来た「勝海舟像」が建っています。江戸幕府の進歩派で江戸を無血状態で西郷と開放した事は有名です。その西郷隆盛は上野に既に建っていますので、勝海舟の立像が待ち望まれていました。
左手の土手をスルスルと降りると隅田川の水辺になります。正面には浅草のビル街、手前に水上バスの発着所、左には今渡ってきた赤い吾妻橋が見えます。
銘酒「隅田川」だと思って呑めと言われても、赤黒く濁った水が流れています。そんな水なのにフナムシがはい回っています。フナムシにとっては銘酒なのでしょうが、お金を貰っても手を濡らす事もご遠慮申し上げます。腹が痛くなるのは当たり前、よく飲んだな留さんは。
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2005年8月記
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