落語「素人鰻」の舞台を歩く

  
 八代目桂文楽の噺、「素人鰻」によると。 

 

    明治の初め”武士の商法”を笑う話として、この噺が出来た、と思われる。

 元武士の主人が汁粉屋を始めたいと思っていたが、鰻さきの金に勧められて鰻屋を始めることにした。酒癖の悪い金ではあるが、酒を断ったので頑張るという。開業の初日、仕事が終わって、めでたいからと呑ますと、酔わないときは誠に良い職人であるが、その内に酩酊してきて前後が判らなくなる。主人に毒づいて飛び出してしまう。翌日、心配していると 仲の”馬”を連れて帰ってくる。その日は又元気に働いて、日が暮れた。主人も喜んでいるところ、又酒を呑んで飛び出してしまう。翌日も同じで、ついに金は帰ってこない。

 主人自ら料理するという。客が来て鰻を注文すると、その鰻を捕まえることすら出来ない。悪戦苦闘の末鰻を捕まえたことはいいが、鰻は手の中で右往左往、鰻に合わせて主人も右に行ったり左に行ったり、
奥方が「いったいどちらに行かれるのですか?」
「前に回って、鰻に聞いてくれ!」。
 


 

 「夏の夜の性根を酒にのまれけり」  久保田万太郎

1.鰻屋、明神下「神田川」本店(千代田区外神田2−5−11)
 鰻割き職人の金は此処神田川の職人であった、と言われている。
 創業文化3年(1806)、約200年続いている老舗の鰻屋。明治の頃、土用の丑の日に休む店として、この店も紹介されている。作れる量は職人がすること、限度があるのでしょうがなかったが、今は予約客だけで営業しているとのこと。
 黒門町の八代目桂文楽はこの店の常連だった。時々人を集め鰻や酒をご馳走して、ここで義太夫を語った。落語「寝床」を落語家自身がやっていた。落語の主人公のように、 上手くはなかったという。大店の御主人が店子や使用人に料理、酒を振る舞って下手な義太夫を無理矢理聞かせる、という「寝床」を地でやった。1回だけではなく。
 古今亭志ん生が紫綬褒章(だと思うと、店主)を貰ったとき、やはり二階の18畳の部屋を二つぶち抜いて受賞記念会をここで開いた。「素人鰻」の影響で?落語家さんは以外と出入りしているようだ。
 

2.この噺の続きの様な噺、小さん師は題名が同じでこの話をする。(他に志ん生、志ん朝、歌丸もこの形で演る)
 町内に鰻屋が出来たが、2時間待たせても鰻がでてこない。ここはキリギリスと同じようにキュウリばかり食わせるのかと怒ると、鰻の丸焼きを持ってきた。苦情を言うと主人が出てきて、「お勘定は要らないから、又の機会にお越し下さい」と言うので、ただ酒を呑んで帰ってきた。今日見ると鰻割きは居ない。キュウリと酒がただで呑めるので行こうという。友人と2人で行くと主人しか居ない。主人に職人が居なくても出来るだろうと言うと、必死に掴んで見たものの鰻は前に前に出ていくので、椅子をどかし前の道に出ていってしまう。女将さんが帰ってきて、その話を聞くと「おととい鰻を持って出掛けて、さっき帰って来たばかり」だと言う。町内を1周して汗だくで帰って来た主人に、今度は何処に行くんだと聞くと「前に回って、鰻に聞いてくれ!」。
 

3.付き馬 第23話で詳しく書いていますので、そちらをご覧下さい。


4.鰻屋
 鰻を筒切りにして串に刺して焼いた物が蒲焼きで、丁度形が蒲穂に似ているところから名付けられました。
 天明(1781-89)初めに上野の山下仏店(ほとけだな)の大和屋という店で蒲焼きが売り出されたときは、お客が飯を持参しました。
 鰻飯は文化(1804-18)頃、境町の芝居金主大久保今助が始めました。鰻が大好物で、芝居小屋へ来ては鰻を取り寄せていた今助は、鰻が冷えて不味いので、丼の中へ炊きたての飯と鰻を入れて持ってこさせた。これが暖かくて大変風味が良かったので、次第に広まっていったと言います。後に値段も上がり、器も良くなって割り箸も着くようになりました。割り箸は文政(1818-30)以来使用されたと言います。

右図:狂歌絵入り『商人尽』文政の頃 十返舎一九著。 三谷一馬画。

 


 

  神田明神下を歩く
 

 江戸三大祭りが済んで静けさを取り戻した神田明神に参拝して、正面の坂を秋葉原に向けて下ってくると、明神下交差点に着く。その先は日本でも有数の電気街「秋葉原」です。パソコンや電子部品、欲しいものだらけの街です。その交差点を左に曲がり、数軒行った左側、黒板塀に囲まれた鰻屋さん「神田川 本店」。洒落た仕舞屋風で、のれんも営業中の看板もお品書きも何もない。私には敷居が高くて入りずらいが、ガラガラと戸を開けると、御主人(?)が下足番をしている。戦災で焼け出され、戦後に建てた純日本式建物は良く拭き込まれて光沢が出て清々しい。それ以上に若い女将が自ら接客する様は何とも落ち着き、気分を和らげてくれる。一人客なのに、ちっともやな顔をせず、客を和ませる。流石老舗料亭。鰻も当然旨い。だが、昼食代が1週間分飛んだ。

 ここで、お客としての志ん生の話、文楽の話、最近では六代目柳亭左楽師匠の襲名披露の仲間内の席がここで開かれたこと、などを聞かせてもらう。30年近く前の白黒写真を見せてもらう。(下の写真をクリックすると見られます)文楽、志ん生親子がこの店で記念写真を撮っています。なんとも古き良き時代が写っています。その部屋も見せていただきました。写真を見ながら、なにかタイムスリップしたような、同じ空気を吸っているかのような気分になりました。
 女将は冬は文楽、夏は志ん生のテープを聴きながら寝るとのこと、なぜ? 冬の気が引き締まったときは、文楽さんの折り目正しい噺を、夏の暑いときは身体もだらけているので、志ん生さんだと言う。言い当てて妙である。近々京都の愛宕山にカワラケ投げに行きたいとおっしゃっていました。文楽さんの様にと。嬉しい落語通です。

 外に出ると、時代が今日に逆戻りです。
 生きた鰻を掴むのは、直ぐ出来るようになるそうです。しかし、トン・ツーと鰻を割くのはやはり年期がいるようです。 「俗に裂き3年、串は8年、焼きは一生」といわれる料理ですから。
 落語「鰻の幇間」に出てくる、鰻屋さんは『幇間とお客が2階に上がると子供が勉強机を持って出ていき、洗濯物を片づける。掛け軸も場違いなものが掛かっているし、猪口も二人のものが別々で違っているし・・・。出てきた鰻はもう我慢が出来ない程・・・』。神田川とは雲泥の差がある。文楽も神田川を意識してその逆を言い立てていたのではないかと思われます。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。   

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

蒲焼 神田川
明神下の老舗の鰻屋(蒲焼き屋)
黒板塀の純和風作りの二階家。内装も昔そのまま、随所にお花と古き良き時代の小物が飾られ、歴史と風格を感じさせる。
蒲焼 神田川の鰻重
誠に”ほっこり”として口の中でとろけるよう。タレも上品で鰻の旨さを上手く引き出している。また、女将の接客がこれも誠に行き届いており、時間を忘れさす。
家の近くのスーパーで買う、骨が喉に刺さる鰻と、どうしてこんなに違うのであろう。

左の写真をクリックすると、志ん生、文楽の写真があります。


鰻屋の金さん
大忙しの金さん、昼間は本当に良い職人さんなんだけれども。

三谷一馬・画

                                                       2001年6月記

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