飛鳥山碑


     碑  の  訳


 南国の鎖めを熊野の山といい、神様がいて熊野の神という。実はイザナミノミコト(女神)である。これにイザナギノミコト(男神)と事解王子(コトサカオウジ)をあわせまつり、これを三神ともいう。事解は別に飛鳥に祠をつくり祀った。三振神(ミケツカミ)がつき従っている。神々の物語は神史(日本書紀)にあり、別に記録されてもいる(熊野三神伝記)。
 記録(若一(にゃくいち)王子縁起)では元享年中(1321〜23)の昔に、武蔵国豊島郡の豊島氏が初めてこの地に神の領域を見立てて、熊野の神の座を創始した。王子といい、飛鳥山というのはおもうにこの頃より始まったものである。熊野の川を音無というのは川の流れに象(かたど)ったものである。以来四百年土地の人は時日を定めておまつりして変わることがなかった。
 祀典によると熊野の神は春には花をもってまつり、鼓を打ち、笛を吹き、旗を立て、歌って舞う、今の王子の祭日に鼓吹旗歌して舞うのはその源がふるい昔からである。しかしながら年月も経って、社殿は荒れて雨風を防ぎ切れなくなった。寛永年中(1624〜)役人が三代家光公の命により社殿を大いに改めて旧来どおりに新しくした。この時に飛鳥の祠を王子権現の方へ遷したので、飛鳥の山名だけが残って、祠が無いのはこの為である。三狐の祠(王子稲荷)は北の方の草むらの中にはなれているといわれる。今年丁己(ひのとみ 元文二年・1737)春三月己亥(つちのとい)の日に、我が君八代吉宗公は、農業視察の折に土地を区分して、王子権現に土地を与えようと思ったが、与える土地が無いので飛鳥山を与えた。住職の宥衛等、真心をもって 祀って来た人々は足を踏み舞い手を合わせ、頭を地につける最高の敬礼(拝手稽首・はいしゅけいしゅ)をして敬い一同を代表してお礼を申した。
 偉大な我が君は、誠をもって神に仕え、明をもって人を治め、仕事は正確に、施策は必ず実行する。この楽しい郊外は神の国となり、神もそれをうけられます君の至徳は香ばしいことです。
 初めの飛鳥山は蓬や雑草の土くれの荒地で、雉子(きじ)や兎が道にいた。吉宗公が初めて紀伊国よりお出でになるや、役人が村役人に命じて、渓谷を川ざらいして泉や滝をみちびいた。川の水は激しく石に当り、川はでこぽこがあって、流れはぐるぐるとめぐっている。そこで花や木を数千株植えて、境内はよき観光の地となった。境外は薪や草を刈るに便利となった。数千人の人を雇って二年におよんで、盛大に美しい土地となった。花や木もまた林となって、春の時節には爛漫となる。これらはただ良い種をうえたのみではない。祀典にいうところの、春は花をもってまつるのは、神々があの世より集まってくる為にか、さもなければ国家(幕府)の信義の象徴である。
 そこで石にきざんで事実をのべる。銘して日く。
 むかしむかし原始の頃、神がいて国を開き、その遺跡は南の紀伊国にあり、江戸の地にも祀っている、名君である我が君が、この地に来られて境域を与えた。神もこれをねんごろに助けて、豊かにだんだんよくなり、本(王子権現)支(王子稲荷)共に繁栄し、飛鳥山も美しく立派さは数えきれない。全国民は将軍の仁になつき、天地神明の神はその徳をうけます。千年の模範として、この石にこれを彫りつける。
 

 飛鳥山の碑は難解とされ江戸の川柳の題材にもよく取り上げられている。現在までに正解とみられる活字文はなく、今回のように全文を平仮名でもって読みをつけたものもない。碑文は漢文をもって書かれ、使用される文字は日常に使用する辞典には見られないものもあり、その意味もわかりかねるものが多い。また漢文とはいえ作者は日本の人であるので、日本の漢文といったように文章を理解しないとわからない面もある。
 飛鳥山の碑文を江戸時代に紹介したもので、活字化きれているのに、次のものがある。

 1、飛鳥山碑始末  寛政十二年
 2、新編武蔵風土記稿  文政十一年
 3、遊歴雑記 初篇下ノ五十  文政年中
 4、江戸名所図会  天保七年
 5、飛鳥山十二景詩歌抒(ならびに)碑  安政五年
 上の内、1から4までは活字本となり、5は木版本である。五点にはいずれも数か所の活字の誤りがあり碑面の文字を活字では正確に伝えていない。
 4までの活字本には返り点送り仮名がつけられているが、四者にはそれぞれ異同があって同じではない。
 今回の読み方は四者のものと現在までに発表をみた方々の読み方を踏まえて、共通点をさぐって平仮名をもって書き表わしたものである。正解とはいえないがこれも一つの読み方と言える。また碑文の解釈も文章を直訳してなるべく意訳をしないようにしたので、これもまたわかりにくい点もあるであろう。この難解な碑文も今日では、大漢和字典{大修館)の引用により、一字一字の意味が明解になったので、今後はより一層完全な読み方解釈に近づくことが出来ると思う。
 碑文末尾の奉祠とは、宋時代の官職で祭祀を司る者をいい、我が国では社の祭りは僧侶が別当職として行ったので、ここでは別当云々ということになる。
 東都図書府主事という官職は幕府にはなく、これは書物奉行のことであるが道筑は書物奉行ではなく御奥坊主を勤めていた。鳴鳳卿の三文字は清国の人の名乗りで、この頃の日本の漢学者は好んで三文字の名乗りを使うのが流行りであった。鳴は成島のナルに通じ、鳳卿は彼の号であった。
 東都以下は、作者の成島道筑を当時の清国の人物にしたてて、将軍吉宗の徳が外国にまで聞えているかのように思わせている。
 碑は金輪寺宥衛が立てたように取り扱われ、文章は清国の人の筆になるかの如くであるが、すべては吉宗が企画立案を行ったものである。
 吉宗は飛鳥山開発の功績を後世に伝えるべく道筑に命じた。歴代将軍の中でただ一人己の功を誇る唯一の碑といえるものである。

出典;北区立郷土資料館シリーズ13 「飛鳥山」 東京都北区教育委員会発行  協力;北区立郷土資料館

 

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2008.10.3.記

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